僕とハムスターの未完成な遊園地
第一章 不満だらけの朝と、ハトたちのコーラス
高梨湊(たかなし みなと)の一日は、いつだってささやかな不満から始まる。今朝は、インスタントコーヒーの粉をケチったことだった。湯気の向こうに透ける薄茶色の液体を一口すすり、眉間に皺が寄る。「……薄い」。その呟きが引き金だった。
ゴゴゴ、と地鳴りのような振動がテーブルから伝わる。湊が持っていたマグカップが、まるで生き物のように膨張を始めたのだ。陶器の表面が引き伸ばされ、プリントされた猫のイラストが間延びしていく。あっという間にそれは洗面器ほどの大きさになり、湊は慌ててシンクにそれを置いた。まただ。ここ最近、街を騒がせている奇妙な『巨大化現象』は、決まって湊の身近で猛威を振るう。
「もう、うんざりだ……」
ため息と共にアパートを飛び出すと、通勤ラッシュの人の波が彼を飲み込んだ。押され、踏まれ、汗の匂いと香水の匂いが混じり合う不快な空間。湊の眉間の皺が、さらに深くなったその時だった。
シャン、とどこかでシンバルの音がした。見れば、公園の縁石に並んでいた十数羽のハトが、一斉に翼を広げ、ラインダンスを始めたではないか。一羽が器用に小石をタップし、ビートを刻む。そして、高らかなコーラスが始まった。
『♪あ〜もう!満員電車は息苦しい!』
『♪押さないでプリーズ!僕のパーソナルスペース!』
『♪いっそ会社ごと、巨大化しちゃえばいいのに!そしたら通勤もないのに!♪』
ダダ漏れの心の声。周囲の人々が「なんだあれは」「またか」と気味悪そうに湊とハトたちを遠巻きに見る。湊は顔を真っ赤にして俯き、足早にその場を駆け抜けた。感情が高ぶると、周囲の動物たちが彼の本心をミュージカルにしてしまう。この呪いのような体質と、制御不能な巨大化現象。湊の世界は、不満と混乱のシンフォニーに包まれていた。
第二章 縮みゆく思い出
疲れ果てて帰宅した湊は、自室の棚に飾られた一つのオブジェに目をやった。それは彼が幼い頃に大切にしていた『手のひらサイズのミニチュア遊園地』。今は亡きペット、ハムスターのマロンが暮らしたケージの、唯一の同居人だったものだ。色褪せた観覧車、錆びついたジェットコースターのレール、馬が数頭欠けたメリーゴーランド。それは湊にとって、小さな友との記憶そのものだった。
彼は、その遊園地に奇妙な変化が起きていることに気づいていた。街のあらゆるものが不満を吸い取って巨大化していくのとは真逆に、この遊園地だけが、日を追うごとに少しずつ、しかし確実に小さくなっているのだ。
そっと指で触れてみる。かつては指の腹でなんとか支えられた観覧車が、今では爪の先に乗るほどに小さくなっている。プラスチックの質感は失われ、まるで脆い砂糖菓子のように、触れるだけで崩れてしまいそうな儚さをまとっていた。ひんやりとした感触が、まるで生命力を吸い取られているかのようで、湊の胸をざわつかせる。この世界で起きている巨大化の法則から、たった一つだけ取り残されたかのように縮んでいく思い出。そのアンバランスな光景は、これから起こる更なる異変の、不吉な序曲のように思えた。
第三章 街の叫び
翌日、街は本格的なパニックに陥っていた。湊のアパートの隣、田中さんの家の丹精込めた盆栽が、天を突くほどの巨木に変貌し、電線をなぎ倒していた。「昨日、枝ぶりが気に入らないと愚痴を言っただけなのに」と田中さんは泣き崩れている。商店街の入り口に立つ郵便ポストは、赤いクジラのように膨れ上がり、道を塞いでいる。誰かが「手紙が届くのが遅い」と不満を漏らした結果らしい。
テレビをつければ、専門家と名乗る男が「これは現代社会に蔓延する集団的ストレスが、質量保存の法則に一時的なバグを引き起こしている可能性が…」などと、もっともらしい顔で解説している。だが、湊にはわかっていた。これは、誰かの、あるいは自分の「ささやかな不満」が暴走した結果なのだ。
自分のせいかもしれない。あのコーヒーへの不満が、マグカップだけでなく、街中の食器を巨大化させたのかもしれない。満員電車への不満が、鉄道のレールを歪ませたのかもしれない。罪悪感が鉛のように心を重くする。けれど、自分一人の感情で、世界がここまで変わってたまるか、という反発心も同時に湧き上がってくる。湊は混乱していた。ただ、自分の周囲で特に現象が頻発しているという事実は、冷たく彼の喉元に突きつけられたナイフのように、否定しようのない現実だった。
第四章 失われたハーモニー
「もう何も考えない。不満を抱かなければいいんだ」
湊は決意した。彼は瞑想でもするかのように目を閉じ、心を無にしようと努めた。「大丈夫、すべては順調だ。何の問題もない」。そう自分に言い聞かせ続けると、不思議なことに、窓の外でミシミシと音を立てていた電信柱の成長がぴたりと止まった。
うまくいったのかもしれない。安堵のため息をついた湊が、ふと棚に目をやった瞬間、彼は息を呑んだ。ミニチュア遊園地が、急速にその姿を失っていく。観覧車の骨組みが砂のようにサラサラと崩れ落ち、メリーゴーランドの屋根が光の粒子となって霧散していく。まるで、湊が抑え込んだ不満のエネルギーの代わりに、この遊園地が身代わりとなって消えていくかのようだった。
「やめろ!」
湊は思わず叫んだ。その声は、怒りでも苛立ちでもなかった。心の奥底から絞り出したような、深い、深い悲しみの叫びだった。それはマロンを失ったあの日以来、ずっと蓋をしてきた感情。
その瞬間、湊は気づいた。動物たちが、歌わない。彼の体質は、苛立ちや怒りのような高ぶる感情には敏感に反応するが、心の深淵に沈殿した、静かで重い悲しみには反応しないのだ。
消えゆく遊園地の残像の中に、湊は一つの記憶をはっきりと見た。小さな箱の中で冷たくなったマロンを抱きしめ、このミニチュア遊園地をケージから取り出した日の記憶。「ごめんな、マロン。もっと広い、もっと楽しい場所で、思いっきり遊ばせてあげたかったよ」。涙と共に溢れ出た、幼い自分の後悔の言葉が、今、鮮明に蘇った。
第五章 マロンのワルツ
――ああ、そうか。
パズルのピースがはまるように、湊はすべてを理解した。この巨大化現象は、湊一人の不満が起こしたものではなかった。彼の「ささやかな不満」という感情の波に、マロンの「もっと広い世界で遊びたかった」という純粋で強大な未練が共鳴していたのだ。世界そのものを、マロンのための巨大な遊園地に作り替えようとしていた。そして、ミニチュア遊園地が縮んでいたのは、思い出をエネルギーに変換し、この狂騒曲を奏でるための代償だったのだ。
湊は、ほとんど消えかかった遊園地の残骸を手のひらに乗せ、アパートを飛び出した。向かう先は、街の中心。かつて広場だった場所に、今や摩天楼のように巨大化した公衆電話ボックスがそびえ立っている。その異様な光景の前で、湊は立ち止まり、ゆっくりと深呼吸をした。
そして、歌い始めた。
今度は動物たちに歌わせるのではない。震える唇から紡がれる、彼自身の声だった。それは、マロンに捧げる感謝と、そして心からの謝罪の歌。
「♪小さな手のひらの遊園地じゃ 足りなかったよね ごめんね マロン♪」
「♪でもね 君と過ごしたあのケージは 僕にとっては 無限に広がる宇宙だったんだ♪」
彼の拙いけれど真っ直ぐな歌声に、世界が応えた。足元から、ビルの屋上から、街中の犬、猫、カラス、ドブネズミ、名も知らぬ虫たちまでもが姿を現し、壮大なコーラスを重ね始めた。それは湊の心の声の代弁ではない。ただ純粋に、小さな魂を鎮め、祝福するためのハーモニーだった。街全体が、一つのオーケストラになったかのように、優しく、切ないメロディーを奏でていた。
第六章 夜明けに残ったもの
歌が終わると、夜空から金色の光が、まるで雪のように静かに降り注いできた。その光に触れたものから、元の姿へと戻っていく。巨大な公衆電話ボックスはみるみる縮み、盆栽の巨木は愛らしい枝ぶりに、クジラのようなポストはいつもの赤い箱へと、まるで奇跡の早送り映像のように収縮していく。街は数分前の狂騒が嘘だったかのような静けさを取り戻し、人々はただ呆然と、その光景を見上げていた。
湊がそっと手のひらを開くと、ミニチュア遊園地は失われた輝きを取り戻し、完璧な形でそこに存在していた。
そして、誰もが気づいた。街の中心、広場の真ん中に、たった一つだけ、巨大なままのものが残されていることに。
それは、夜空に届くほど巨大な、虹色に輝くハムスターの回し車だった。まるでモニュメントのように、あるいはどこか別の宇宙へと繋がるゲートのように、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って佇んでいる。
湊はその巨大な回し車を見上げ、そっと微笑んだ。もう、彼の周りで動物たちが勝手に歌い出すことはないだろう。彼は自分の心と、そして小さな友の心と、ようやく本当の意味で向き合うことができたのだから。夜明けの光が照らし出すその回し車は、世界で一番大きくて、そして世界で一番優しい、未練の形見だった。