未来からのツッコミには、まだ早い

未来からのツッコミには、まだ早い

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第一章 未来からのダメ出し

佐藤健介、三十二歳、区役所戸籍係。彼の人生は、常に未来の自分によって演出されていた。いや、正確には「ダメ出し」されていた。

例えば、今。

目の前のカウンターには、婚姻届を手に、幸せのオーラを全身から発散させるカップルがいる。ピンク色の婚姻届、キャラクターが描かれた印鑑、万年筆で丁寧に書かれたであろう文字。すべてがキラキラと輝いて見えた。

「おめでとうございます。確認しますので、少々お待ちください」

健介は完璧な事務スマイルを貼り付け、書類を受け取った。その時、ちらりと視界の端に、憧れの総務課・田中さんの姿が入った。彼女は給湯室に向かうところで、手には空のマグカップを持っている。昼休憩まで、あと十五分。今なら、誘えるかもしれない。

(田中さん、もしよかったら、今日のお昼……駅前の新しいパスタ屋さん、行きませんか?)

脳内で完璧なシミュレーションが完了した、その刹那。

『やめとけ』

頭蓋骨の内側から、直接響く声。低く、よく通り、そして絶望的に自分自身の声に似ている、その声。

『やめとけ健介。どうせ断られる。お前みたいな地味な男が、太陽みたいな田中さんを誘うなんて百年早い。挙動不審になって、「えっと、あの、パスタが、その、あなたを……」とか意味不明なこと口走って、部署中の笑いものになるのがオチだぞ!』

「うっ……」

健介は思わず呻き、胸を押さえた。未来の自分からの、的確すぎる上に辛辣なツッコミ。それは十年前から続く、健介だけの呪いだった。この声は、健介が何か新しいこと、少しでもリスクのあることに挑戦しようとするたびに、必ず現れては最悪の未来を予言し、彼の行動にブレーキをかけるのだ。

おかげで健介の人生は、大きな失敗こそないものの、大きな成功も、喜びも、感動もない、限りなく平坦な道程を歩むことになった。石橋を叩いて渡る、どころではない。石橋を叩きすぎて粉々にし、結局渡るのをやめる人生だ。

結局、健介が未来の自分との不毛な口論を脳内で繰り広げているうちに、田中さんはマグカップにお茶を注ぎ、颯爽と総務課へ戻ってしまった。カウンターの向こうでは、新婚カップルが「まだかなあ」と囁き合っている。

「……はい、お待たせいたしました。書類、不備なく受理いたしました」

健介は再び完璧な事務スマイルを浮かべた。心の奥で、未来の自分が「ほらな、言った通りだろ」と、勝ち誇ったように鼻を鳴らす音が聞こえた気がした。空っぽの胃がきりきりと痛み、窓から差し込む初夏の光が、やけに目に染みた。

第二章 時をかける(と自称する)男

そんな生殺しの日々が続いていたある日の午後、健介の窓口に、奇妙な老人が現れた。洗いざらしのヨットパーカーに、度の強そうな瓶底メガネ。手にはなぜか、古びた金属製の弁当箱のようなものを抱えている。

「わしは時田。時をかける男、とでも名乗っておこうかの」

老人はニカッと笑い、黄色い歯を見せた。周囲の喧騒が嘘のように、健介の耳にはその声だけがクリアに届いた。

『来たぞ、ヤバいのが。マニュアル通り、丁寧にお引き取り願え。関わるとロクなことにならん』

未来の自分の警告が鳴り響く。健介は深呼吸し、営業スマイルで応じた。

「ご用件は何でしょうか。もし、そういったご相談でしたら、あちらの……」

「まあ、待て待て。若いの」

時田と名乗る老人は、健介の言葉を遮ると、カウンターに例の弁当箱を置いた。「カタン」と、重い音が響く。

「君、悩んでおるじゃろ。何か行動しようとするたびに、誰かに止められるような、そんな奇妙な感覚に」

「……え?」

健介の表情が凍りついた。未来の自分ですら『おい、なんでコイツが知ってるんだ!?』と動揺している。

時田は得意げに頷くと、弁当箱の蓋を開けた。中には複雑な配線と、七色に点滅するランプがぎっしりと詰まっている。

「これは『後悔リセッター』。わしが未来で開発した、ささやかな発明品じゃ。例えば……ほれ、あそこの彼」

時田が指さしたのは、自動販売機の前で「ああー!」と頭を抱えている若いサラリーマンだった。どうやら、おしるこを買ってしまったらしい。真夏日に。

時田は弁当箱のダイヤルをカリカリと回し、赤いボタンを押した。すると、サラリーマンがハッと顔を上げ、もう一度自販機のボタンを押す。今度は、キンキンに冷えたスポーツドリンクが出てきた。サラリーマンは満足げにそれを飲み、去っていく。おしるこは、まるで最初から存在しなかったかのように消えていた。

「……今の、は?」

「ほんの少し、時間を巻き戻して、彼の選択肢を無意識下で修正しただけじゃ。わしはこうして、人々が犯す『ちょっとしたミス』を修正するボランティアをしておる」

あまりに荒唐無稽な話に、健介は言葉を失った。未来の自分も『ハッタリだ!手品か何かだ!信じるな!』と叫んでいる。だが、健介の心は、藁にもすがる思いで揺れていた。

「あの……僕の、この声は……」

健介は、自分の呪いについて、訥々と語り始めた。未来の自分からのツッコミ、行動できない苦しみ、色あせた日常。時田は興味深そうに、時折「ほうほう」「なるほどのう」と相槌を打ちながら、静かに聞いていた。

すべてを話し終えると、時田は腕を組み、ふむ、と唸った。

「面白い。実に興味深い現象じゃ。未来の自分が、現在の自分に干渉する、か」

『だから、そいつは詐欺師だ!警察を呼べ!』

未来の声がうるさい。健介はそれを無視して、時田に尋ねた。

「治せますか?この……呪いを」

「うーん」時田は首を傾げた。「わしの機械は、あくまで過去の行動を修正するもの。君のような、未来からの干渉には専門外でのう……。じゃが、一つだけ、試してみる価値のある方法がある」

時田は身を乗り出し、悪戯っぽく笑った。

「その『未来の君』に、一度でいいから、逆らってみることじゃ。全力で、心の底から『うるさい!』と叫んでみるんじゃよ。もしかしたら、世界がひっくり返るような、面白いことが起きるかもしれんぞ」

第三章 さよなら、未来の俺

時田の言葉は、健介の心に小さく、しかし確かな火を灯した。

世界が、ひっくり返る。

その言葉の響きは、平坦な人生に飽き飽きしていた健介にとって、抗いがたい魅力を持っていた。

翌日、チャンスは再び訪れた。

昼休み、健介が食堂で一人、日替わり定食を咀嚼していると、田中さんが「相席いいですか?」とトレーを持ってやってきたのだ。健介の心臓が、巨大な鐘のように鳴り響く。

「ど、どうぞ」

なんとかそれだけ言うと、彼女は健介の向かいに座り、「ここのアジフライ、美味しいですよね」と屈託なく笑った。陽光が彼女の髪をきらめかせ、その笑顔は健介が今まで見てきたどんな芸術品よりも美しかった。

食事をしながら、他愛もない話が続く。天気の話、最近見たテレビドラマの話。健介は、相槌を打つだけで精一杯だった。そして、彼女が食べ終わろうかという、その時。

(言うんだ、健介。今しかない。時田さんの言葉を信じるんだ)

健介は、箸を置いた。

(田中さん、もしよかったら、今度の日曜日……)

『やめろォォォォ!!!』

今までで最も激しい、絶叫に近いツッコミが脳内に響き渡った。頭が割れそうに痛い。

『絶対にやめろ!地獄を見るぞ!お前は日曜に何を着ていくんだ!?ユニクロのよれたシャツか!?会話が続かなくて気まずい沈黙が五時間続くんだぞ!想像してみろ!レストランで向かい合って、ただただフォークとナイフの音だけが響く地獄を!お願いだからやめてくれ!俺を殺す気か!』

未来の自分は、もはや懇願していた。それは健介を守るための悲痛な叫びのようにも聞こえた。

いつもの健介なら、ここで白旗を上げていただろう。だが、今の彼は違った。時田の言葉、そして目の前で微笑む田中さんの存在が、彼に未知の力を与えていた。

(うるさい)

健介は、心の中で、はっきりと呟いた。

(うるさいうるさいうるさい!お前は、未来の俺なんかじゃない!俺の人生の邪魔をするな!)

全身の血が沸騰するような感覚。視界がぐらりと揺れる。

そして、彼は口を開いた。震える声で、しかし、はっきりと。

「た、田中さん!もし、よかったら……今度の日曜日、映画でも……」

言った。

言ってしまった。

健介は目を固く閉じた。断られる。笑われる。変な目で見られる。未来の自分が予言した、あらゆる不幸が頭をよぎる。

しかし、聞こえてきたのは、想像していた拒絶の言葉ではなかった。

「え、本当ですか?嬉しい!ぜひ!」

弾むような、喜びに満ちた声。

健介が恐る恐る目を開けると、田中さんが頬を少し赤らめ、満面の笑みでこちらを見ていた。

「私、佐藤さんと、もっとお話ししてみたいなって、ずっと思ってたんです」

成功……した?

信じられない気持ちで呆然とする健介。その時だった。

今まで頭の中に響いていた、あの辛辣で、臆病で、皮肉屋な声が、ふっと消えた。嵐が過ぎ去った後のように、静まり返っている。

そして、その静寂の中に、全く別の、穏やかで優しい声が、そっと響いた。

『……よく、やったな』

その声は、驚くほど温かかった。まるで、幼い頃に聞いた父親の声のようでもあり、親友の声のようでもあった。

『俺は、未来のお前じゃない。俺は……十年前、お前がプレゼンで大失敗して、みんなに笑われたあの日。お前が「もう二度と恥をかきたくない」と固く誓った時に生まれた、お前の"臆病な心"だよ』

健介は、すべてを理解した。

未来の自分などではなかった。あれは、傷つくことを極端に恐れた自分自身が生み出した、過剰な自己防衛本能。自分を失敗から守るために、あらゆる挑戦を妨害してきた、もう一人の自分。

『今まで、すまなかったな。お前を守りたかっただけなんだ。でも、もう大丈夫そうだ』

その声は、満足したように、そして少し寂しそうに言った。

『俺はそろそろ、本来いるべき場所……お前の心の、隅っこの方に戻るよ。たまには、思い出してくれよな』

声はだんだんと遠くなり、やがて完全に聞こえなくなった。

健介は、目の前の田中さんの笑顔を見つめていた。視界が、じんわりと滲む。

時田さんの言っていた「世界がひっくり返る」とは、このことだったのだ。外部の世界じゃない。健介自身の、内なる世界が、根底から覆ったのだ。

第四章 ただいま、本当の俺

あの日以来、健介の人生は変わった。

頭の中から、未来の自分からのツッコミが聞こえることは、もうなくなった。最初は少し寂しい気もしたが、代わりに手に入れた「自由」は、何物にも代えがたいものだった。

田中さんとの初デートは、未来の自分(もとい、臆病な心)が予言したような地獄にはならなかった。健介は、おろしたてのジャケットを着て、前日にリサーチしたお洒落なカフェで、驚くほど自然に会話を楽しむことができた。失敗を恐れず、思ったことを口にするのは、こんなにも楽しく、世界を色鮮やかにするのかと感動した。

時田さんは、あの日以来、区役所には姿を見せていない。「後悔リセッター」も、冷静に考えれば精巧な手品か何かだったのだろう。もしかしたら彼は未来人などではなく、人の心を見抜くのが得意な、少し変わった心理カウンセラーだったのかもしれない。どちらでもよかった。彼が、健介の背中を押してくれたことに、変わりはないのだから。

季節は巡り、秋になった。

その日の帰り道、夕立の後の空には、大きな虹がかかっていた。健介は、田中さんと並んで歩いている。他愛もない話で笑い合う、穏やかな時間。それが今の健介にとっての日常だった。

ふと、目の前に大きな水たまりが現れる。健介は、無意識にそれを避けようと、一歩踏み出した。

その瞬間。

本当に、かすかに。まるで遠い記憶のこだまのように、懐かしい声が頭をよぎった。

『おっと、そこは滑るぞ』

それは、かつての辛辣さはなく、ただの親切な忠告のようだった。

健介は、足を止め、ニヤリと笑った。そして、くるりと田中さんの方を向き、「ちょっと見ててください」と言うと、助走をつけて、その水たまりを思いっきり飛び越えた。

バシャッ!

着地に成功し、派手な水しぶきが上がる。スーツの裾が少し濡れたが、気分は最高だった。田中さんが、驚いたように、そして楽しそうに笑っている。

(たまには、お前の言うことを聞かないのも悪くないだろ?)

健介は心の中で、かつての相棒に語りかけた。もう返事はない。でも、それでいい。臆病な心は、消え去ったわけじゃない。ただ、心の隅で静かに自分を見守ってくれている。これからは、その声に怯えるのではなく、うまく付き合っていけばいいのだ。

虹の架かる空を見上げながら、健介は思う。

未来からのツッコミは、もういらない。自分で選び、自分で転び、自分で立ち上がる未来の方が、ずっと面白そうだ。彼は、ようやく本当の意味で、自分の人生を歩き始めたのだった。

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