服だけがワルツを踊る
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服だけがワルツを踊る

第一章 歌が消えた街

アオイの住むこの世界では、朝の挨拶は高らかなソプラノで始まり、パン屋での注文は軽快なデュエットで行われる。感情の全てはメロディに乗り、言葉はハーモニーとなって街を彩っていた。人々は生まれながらのミュージカル俳優であり、人生そのものが壮大なオペラだった。

だが、アオイにとって、その日常は苦行に近かった。極度の緊張や羞恥心に襲われると、彼の肉体は足元からすうっと透き通り、まるで淡い陽炎のように揺らめいてしまうのだ。完全に透明になった後には、なぜか身に着けているくたびれたシャツやズボンだけが、持ち主を失った操り人形のように宙に浮いてしまう。

その朝もそうだった。パン屋の店先で、「ええと、クロワッサンを二つ……」とバスパートで歌い出そうとした瞬間、快活なパン屋の主人のテノールと目が合ってしまった。途端に心臓がアクロバティックなファンファーレを奏で、指先が風景に溶け始める。慌てて代金をカウンターに置き、買ったばかりのパンを掴んで逃げ出した。背後で「おやおや、シャイな彼のアリアは今日もプレストだねえ!」という陽気な合唱が聞こえ、アオイの頬は耳まで真っ赤に染まった――もっとも、その赤みは誰にも見えはしなかったが。

角を曲がり、安堵のため息をついた、その時だった。

世界から、音が消えた。

いや、正確には「歌」が消えたのだ。さっきまで街中に満ち溢れていたメロディが、まるで巨大な指揮者のタクトがぴたりと止まったかのように、ぷつりと途絶えた。人々は口を開けたまま、次のフレーズを探して虚空を彷徨う。行き交う誰もが、歌い方を忘れてしまったかのように、ただ呆然と立ち尽くしていた。ざわめきは風の音にかき消され、街は前代未聞の静寂、色のない沈黙に包まれた。

第二章 棒読みのアパッショナート

世界が変わって三日が過ぎた。歌を失った人々は、互いの感情を読み解く術をなくし、深刻なコミュニケーション不全に陥っていた。喜びも悲しみも、愛情も怒りも、全てが抑揚のない、平坦な「棒読み」でしか伝えられない。街は灰色のディストピアへと姿を変え、かつての活気は見る影もなかった。

唯一の対話手段となったのが、一家に一冊は必ずある『世界歌劇全集』、通称『セカオタ』だった。人々はこの分厚い本を小脇に抱え、該当する感情表現のページを必死にめくり、そこに書かれた定型文を棒読みで口にした。

「ワタシハ、アナタノコトヲ、シンパイシテイル。第三巻、悲劇『月影のワルツ』第二幕、六百二十三ページヨリ」

カフェのテーブルで、かつて情熱的なカルメンを歌い上げたソプラノ歌手のリラが、無表情のままアオイにそう告げた。彼女の瞳には、昔の輝きは微塵もなかった。アオイは胸が締め付けられるのを感じながら、『セカオタ』の「感謝」の項を開いた。

「キミノ、ヤサシサニ、カンシャスル。第五巻、喜劇『太陽のフェスティバル』第一幕、八十七ページヨリ」

感情のない言葉の応酬。それはあまりに空虚で、悲しかった。リラはアオイの唯一の理解者だった。彼が緊張で透明になりかけると、いつも傍らで優しいカノンを口ずさみ、その輪郭を繋ぎ止めてくれた。だが今、彼女の唇から紡がれるのは、死んだ言葉の羅列だけだった。

「世界を、元に戻さなくちゃ」アオイの決意は、歌にはならなかった。だが、その声は確かに、リラの灰色の瞳の奥に、小さな光を灯したように見えた。

第三章 沈黙の図書館と滑稽なレチタティーヴォ

二人が向かったのは、街の中心にそびえ立つ「国立大歌劇場図書館」。『セカオタ』の原典が全て収められているというその場所には、きっと何か手がかりがあるはずだった。大理石のホールは、かつて学者たちの討論という名のアリアが響き渡っていたのが嘘のように、静まり返っていた。聞こえるのは、人々が重いページをめくる乾いた音と、ささやくような棒読みの声だけだ。

「セカオタ、最終巻、閲覧ヲ、キボウスル」

アオイがカウンターの司書に告げると、眼鏡の奥の瞳がぴくりと動いた。司書はゆっくりと自身の『セカオタ』を開き、厳かに宣告した。

「閲覧ニハ、ショテイノ、テツヅキガ、ヒツヨウデアル。第十二巻、規則と закоんのオペレッタ、三ページヨリ」

そこから、滑稽で、そして絶望的に気の遠くなるような棒読みの応酬が始まった。申請理由、身分証明、閲覧目的。全てを『セカオタ』の定型文で伝えなければならない。周囲の人々が何事かとこちらに視線を向け始め、アオイの心臓は再び暴れ出す。足元が揺らぎ、膝から下が風景に溶けていく。

リラがアオイの手を握るが、彼女の歌声はもうない。アオイの身体はますます薄くなり、上半身も透け始めた。その極度の羞恥と混乱の果てに、彼はついに禁断の最終巻の貸出記録を棒読みで要求した。司書は数分間の沈黙の後、重々しく口を開いた。

「最終記録。世界ノ、心臓、チョウリツノ塔ニテ、シンジツノ、ガクフガ、マツ」

その言葉が、彼らの進むべき道筋を照らす、唯一の旋律となった。

第四章 透明なヒーローの誕生

「調律の塔」の最上階は、巨大なオルゴール工場のような空間だった。天井まで届くほどの歯車やパイプが複雑に絡み合い、その中心に鎮座するのが、世界のメロディを生成してきたという巨大な装置だった。だが今、その心臓は完全に沈黙し、冷たい金属の塊と化している。

すでに塔には多くの技術者や役人が集まっていたが、誰一人として原因を突き止められずにいた。彼らは装置の前で『セカオタ』の「困惑」や「絶望」の項を棒読みし合うばかりで、事態は一向に進展しない。

その時、一人の役人がアオイとリラに気づき、ずかずかと歩み寄ってきた。

「キミタチガ、ナニカ、シッテイルノカ。最終巻ノ、情報を、モッテイルト、キイタガ」

全ての視線が、アオイ一人に突き刺さる。期待、疑念、焦燥。歌に乗らない感情の圧力が、津波のように彼に押し寄せた。ああ、もうだめだ。そう思った瞬間、アオイの身体は最後の輪郭を失い、完全に消失した。

あとに残されたのは、宙にふわりと浮かぶ、チェック柄のシャツとベージュのパンツだけ。

人々は感情のない顔で、その奇妙な光景を見つめた。まるでシュールな現代アートのようだ。技術者の一人が、天井のライトを装置に向けようと操作した。その強い光が、宙に浮くアオイの服に当たり、くっきりとした影を対面の壁に落とした。

その影がなければ、誰も気づかなかっただろう。壁の装飾に紛れた、隠し通路の継ぎ目に。

「……アオイくん」リラが、棒読みの声で呟いた。「ソコ……」

彼女の指が差した先で、服の影が、まるで道化師のように、世界の秘密への入り口を指し示していた。

第五章 忘れられた鼻歌のララバイ

服をその場に浮かべたまま、完全に透明になったアオイは、リラに導かれて隠し通路の奥へと進んだ。ひんやりとした空気が肌を撫でる。通路の突き当たりには、巨大な装置の心臓部があった。無数の歯車が静止し、まるで世界の時間が止まってしまったかのようだった。

アオイは目を凝らした。そして、見つけた。最も精密で、最も重要な歯車の、ほんのわずかな隙間に、黄色く変色した一枚の紙片が挟まっているのを。それは、あまりに小さく、あまりに些細な異物だった。

彼はそっと、見えない指を伸ばした。透明な指先が紙に触れ、慎重に、だが確かにそれを引き抜く。

その瞬間だった。

ウゥゥン、という低い起動音と共に、装置が震え始めた。歯車がゆっくりと回りだし、パイプに光が灯る。そして――塔の頂上から、世界中に向けて、壮大で晴れやかなファンファーレが鳴り響いたのだ。

街角で、市場で、家々で、人々は顔を上げた。そして、堰を切ったように歌い出した。喜びの歌、安堵の歌、愛の歌。世界は瞬く間に色とメロディを取り戻し、歓喜の大合唱に包まれた。リラの瞳から大粒の涙がこぼれ、彼女の口からは天上のものかと聞き紛うほど美しいソプラノが、アオイへの感謝のアリアとなって紡がれた。

アオイが抜き取った紙片には、インクが滲んだ簡単な五線譜が描かれていた。それは誰かが、おそらく遠い昔、愛しい我が子を寝かしつけるために口ずさんだであろう、単純で、少し音程の外れた、優しい鼻歌のメロディだった。忘れ去られた小さなララバイが、世界の巨大な機構をショートさせていたのだ。

歓喜の輪の中心で、アオイは安堵の息をついた。だが、人々が彼を「救世主」として称え、喝采のコーラスを捧げようとした時、彼は気づいてしまった。自分がまだ透明なままで、服は通路の入り口に浮かんだままであることに。

羞恥心が頂点に達し、アオイは固まった。リラが駆け寄り、彼の服を抱きしめながら高らかに歌う。

「ここにいるわ、私たちのヒーロー!姿は見えなくとも、その勇気は誰よりも輝いている!」

その言葉と、何もない空間に浮かぶ服というあまりに滑稽な光景に、誰かがくすりと笑った。それは瞬く間に伝染し、感謝の大合唱は、やがて腹を抱えての大爆笑のコーラスへと変わっていった。

世界は歌声を取り戻した。そして、完璧なハーモニーだけが全てではないと知った。時折、街のどこかから聞こえてくる調子っぱずれの鼻歌は、不完全さの愛おしさを人々に思い出させる。

アオイはといえば、相変わらず極度に緊張すると、服だけを残して透明になってしまうのだった。しかし、もう誰もそれを奇異な目で見ない。彼の服が宙でワルツを踊るたび、街には温かい笑いのハーモニーが響き渡る。かつてコンプレックスの塊だった彼の体質は、今やこの世界で最も愛される、最高のアンコールとなっていた。

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