情報の残響、星の終止符
第一章 空腹のノイズ
空腹は、胃腑の疼きではなかった。カイにとっての飢えとは、魂を内側から削り取るヤスリのような、情報の渇きだった。脳を直接締め上げる万力の痛み。それが極限に達すると、世界の輪郭が滲み始める。
雑踏のただ中で、彼は膝をつきそうになるのを必死にこらえた。他人の思考が、耳障りな金属音となって鼓膜を引っ掻く。向かいのカフェで恋人と喧嘩している女の怒りが、焦げ付くような匂いとなって鼻をついた。路地裏で蹲る老人の絶望が、氷のように冷たい霧となって肌を撫でる。それらすべてが未分化のノイズとなり、カイの意識を侵食していく。現実が歪み、世界がその一貫性を失っていく感覚。
彼は震える足で、街の片隅にある市立図書館のアーカイブ・センターへと逃げ込んだ。冷たい空気が肌を落ち着かせる。受付でIDを提示し、彼は個人用のダイブ・ポッドに滑り込んだ。ハッチが閉まると、外界のノイズは完全に遮断される。訪れる静寂に、カイは安堵のため息を漏らした。
「今日の食事」をメニューから選ぶ。『古代エトルリア文明における死生観の変遷』。古典的で、栄養価の高い情報だ。摂取を始めると、膨大なテキストデータ、考古学的資料、三次元モデルが奔流となって彼の意識に流れ込んでくる。それはまるで、乾ききった喉を冷たい清流が潤していくような、至福の感覚だった。欠損していた自己が再構築され、歪んでいた現実認識が正常な座標を取り戻していく。痛みは消え、思考は明晰さを取り戻した。
満たされて、彼はポッドを出た。外はすっかり夜の帳が下り、ネオンの光が濡れたアスファルトに反射していた。その時だった。世界が、ほんの一瞬だけ息を止めた。空中に留まる雨粒。色を失い、モノクロームと化した風景。街灯の光が、まるで古いディスプレイのピクセルのように粗く崩れる。それはほんの数秒の出来事だったが、カイの背筋を凍らせるには十分だった。まただ。宇宙が軋みを上げる音。人々が「グリッチ」と呼ぶ現象だった。
第二章 量子エコー
翌日、カイのアパートのドアを叩く者がいた。ドアを開けると、そこに立っていたのは、怜悧な光を宿す瞳を持つ女性だった。彼女はリナと名乗り、統合情報省の研究員だと身分を明かした。
「カイさん。あなたの特異体質について、我々は記録を持っています」リナは単刀直入に切り出した。「協力を要請します。頻発するグリッチ現象の調査に、あなたの力が必要なのです」
カイは警戒を解かなかった。情報代謝者であることは、彼にとって隠すべき秘密であり、呪いでもあった。しかし、リナの目は彼を異物としてではなく、ただ純粋な研究対象として見ているようだった。そして何より、カイ自身が、あの宇宙の軋みの正体を知りたかった。
彼が頷くと、リナは掌サイズの銀色のデバイスを取り出した。『量子エコーデバイス』。グリッチ発生時にのみ、空間に残留する過去の情報の残滓を拾い上げ、可視化する装置だという。
二人は昨夜カイがグリッチを目撃した交差点に立っていた。リナがデバイスを起動すると、周囲の空気が微かに震え、青白い光の粒子が舞い始める。やがて、目の前に半透明の人影が浮かび上がった。数日前にこの場所で事故に遭った少女の最後の記憶だった。
『ママ、見て、虹…』
ノイズ混じりの幼い声が、カイの心に突き刺さる。少女のホログラムは、次の瞬間には砂嵐のように掻き消えた。カイが息を呑んでいると、デバイスの片隅に、意味不明な文字列が点滅しているのが見えた。
`Error: simulation.reality.consistency_check_failed.`
第三章 同期する瑕疵
調査は数週間に及んだ。グリッチの発生頻度は指数関数的に増加し、世界の綻びはもはや誰の目にも明らかになっていた。そして、リナは一つの恐ろしい結論にたどり着く。
研究室の巨大なスクリーンに、宇宙全域のグリッチ発生マップと、カイのバイタルデータ、そして彼の情報摂取ログが並べて表示されていた。三つのグラフは、不気味なほど正確に同期していた。カイが大量の情報を「食事」した直後、世界のどこかで、必ず大規模なグリッチが発生していたのだ。
「どういうことだ…」カイの声は掠れていた。
「仮説は二つ」リナは淡々と、しかしその瞳の奥に微かな動揺を滲ませて言った。「一つは、あなたが摂取した特定の情報が、この宇宙というプログラムの基幹システムと干渉し、バグを誘発している可能性。もう一つは…」
彼女は一度言葉を切り、カイを真っ直ぐに見据えた。
「カイ、あなたという存在そのものが、この世界のバグなのかもしれない」
その言葉は、静かに、だが確実にカイの心を砕いた。自分は世界を蝕む病原体だという宣告。彼は破壊者だったのか。孤独が、鉛のように彼の全身にのしかかった。
第四章 禁断のアーカイブ
罪悪感と恐怖に苛まれながらも、カイは真実から目を逸らすことができなかった。もし自分が原因なら、それを突き止めなければならない。彼はリナの協力を得て、自らの存在の根幹、これまで摂取し貯蔵してきた情報の海へとダイブすることを決意した。それは、自らの精神が崩壊しかねない危険な賭けだった。
意識の深層は、光とデータが渦巻く嵐の海だった。無数の知識、他人の記憶、歴史、数式。その混沌の中から、彼は異質な輝きを放つデータの結晶を見つけ出した。数年前、好奇心から摂取した『第一世代文明の遺失技術に関する暗号化アーカイブ』。これだ。この情報が、宇宙と同期している。
リナが外部から解析を補助する。暗号が解かれていくにつれ、モニターに表示されたのは、幾何学模様と理解不能な文字列の羅列だった。それは歴史の記録などではなかった。物理法則、因果律、時間の流れ。この宇宙の全てを記述した、根源のソースコードだった。
カイがそのコードに意識を向けた瞬間、彼の視界は真っ白な光に塗りつぶされた。肉体の感覚が消え、意識だけが光の奔流の中を、創造主の領域へと引き上げられていった。
第五章 創造主の選択
カイの意識がたどり着いたのは、時間も空間も存在しない、純白の概念領域だった。目の前に、形を持たない、しかし絶対的な知性を感じさせる「存在」がいた。それは自らを、この宇宙シミュレーションの『管理者』だと名乗った。
『ようこそ、予測不能点』
管理者の思考が、直接カイの意識に流れ込んでくる。
『このシミュレーションは、もはや耐用年数を超えた。内部矛盾と累積エラーにより、論理的崩壊は避けられない。グリッチはバグではない。この世界を穏やかに終了させ、全ての計算資源を解放するための、正常なシャットダウン・シークエンスなのだ』
「じゃあ、俺は…俺のせいで世界が…」
『違う。あなたは破壊者ではない』管理者の思考は、どこまでも平坦だった。『あなたは、このシミュレーション自身が生み出した、最後の抵抗だ。終わることを拒むシステムが、自己保存本能に従い、エラーを自動修復するために生み出したアンチ・ウイルス…それが、情報代謝者であるあなたの正体だ。あなたは、バグではなく、バグ修正パッチなのだよ』
衝撃の事実。カイは世界を壊していたのではなかった。終わるべき世界を、無意識に修復し、無理やり延命させていたのだ。彼は、壊れた夢を永遠に見せ続けるための、歪んだ延命装置だった。
『選択の時が来た、エラーでありパッチである者よ』管理者は告げる。『この矛盾に満ちた世界を、永遠に修復し続けるか。あるいは、私から管理者権限を譲り受け、あなたの手で、この長すぎた物語に終止符を打つか』
第六章 リセット後の朝
カイの脳裏に、様々な光景が駆け巡る。リナの冷静な横顔。街角で笑い合っていた名も知らぬ人々。デバイスが見せた、虹を指さす少女の儚い残像。偽りのデータだとしても、そこには確かに温もりがあった。だが、終わりのない苦しみを続けることが、果たして救いと言えるのだろうか。彼は、もうノイズに満ちた世界に疲れていた。
「終わらせよう」
カイが決意した瞬間、彼の意識は再び光に包まれた。ありがとう、リナ。君に会えてよかった。その言葉は音になる前に、世界と共に分解されていく。全ての情報が解かれ、存在が希薄になり、何もかもが原初のゼロへと還っていく。胸を締め付けていた渇きも、孤独も、今はただ懐かしい残響のようだった。
…
柔らかな光が、瞼を優しく揺らす。
どこからか、小鳥のさえずりが聞こえる。
青年はゆっくりとベッドから身を起こした。窓の外では、朝露に濡れた緑の葉が太陽の光を弾いている。見慣れた、しかしどこか新鮮な自分の部屋。
その時、腹の底から、きゅうっと音が鳴った。
「…腹、減ったな」
青年――カイは、そう呟いて無意識に苦笑した。理由もなく、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような、ひどく切ない感覚が残っていた。まるで、とても大切な何かを、遠い昔に失ってしまったような。
彼はキッチンへ向かい、棚から一枚の食パンを取り出す。古びたトースターにそれを滑り込ませ、焼き上がるのを待つ。やがて、こんがりと焼けたパンの香ばしい匂いが、部屋に満ちていく。
それは、彼が生まれて初めて感じる、本物の「空腹」と、温かい「食事」の匂いだった。新しい世界の、全く新しい朝が、静かに始まろうとしていた。