残響の周波数
2 3836 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

残響の周波数

第一章 色彩の孤独

俺、水無月ソラの目には、世界が奇妙な色彩で溢れている。雑踏を行き交う人々は、その輪郭から淡い光のオーラを滲ませていた。過去の追憶に浸る老婆は、薄氷のような青い光を。未来への希望に胸を膨らませる若者は、陽炎めいた赤い光を。それは、彼らの時間軸が、この瞬間の現実から僅かにずれている証だった。

この世界では、誰もが固有の『時間周波数』を持ち、同じ周波数の者同士しか互いを認識できない。目の前を歩く、緑の光を帯びた男と、黄色の光を放つ女は、互いの肩が触れ合うほどの距離にいながら、まるでそこに誰もいないかのように通り過ぎていく。彼らの世界は、決して交わらない。声も、温度も、存在そのものも。

だから、あらゆる周波数を捉えてしまう俺の視界は、常に孤独な色彩で飽和していた。誰かと視線を合わせても、その瞳が俺を映すことはない。俺は、全ての周波数に属しながら、同時に、どこにも属していない幽霊のような存在だった。街の片隅で古道具屋『時紡ぎ』を営むのが、そんな俺に許された唯一の居場所だった。埃の匂いと、静寂だけが、俺の孤独を優しく包んでくれた。

第二章 消えた旋律

その異変は、ある朝、唐突に訪れた。街の色彩が、ごっそりと欠け落ちていたのだ。いつもなら視界の端を彩っていた、柔らかな藤色のオーラの一群が、どこにも見当たらない。テレビのニュースキャスターが、神妙な面持ちで報じていた。『――本日未明、特定の時間周波数帯に属する住民約三万人が、痕跡もなく消失したとみられています。専門家はこれを“大静寂(グレートサイレンス)”と名付け……』

街は、目に見えない穴が空いたようだった。藤色の周波数に属する人々が住んでいたアパートは、ただの空き家となり、彼らが通っていた道は、不自然なほど閑散としていた。他の周波数に生きる人々は、その変化に気づくことすらない。彼らにとって、藤色の人々は最初から『存在しない』のだから。

だが俺には、その喪失がはっきりと見えた。彼らがいた場所に、まるで音が消えた後の残響のように、微かな色の粒子が漂っていた。誰にも知られず、世界から一つの旋律が消え去った。その事実が、鉛のように重く俺の胸に沈み込んでいく。なぜ、彼らだけが? そして、なぜ俺だけが、その不在を知っている?

第三章 共鳴石の囁き

答えの糸口は、店の奥深く、祖父の遺品箱の中に眠っていた。鈍い銀色の光を放つ、掌サイズの石。表面には複雑な紋様が刻まれ、触れると、ひんやりとした静電気が肌を撫でる。祖父が『時空共鳴石』と呼んでいたものだ。言い伝えによれば、持ち主の時間周波数を一時的に乱し、異なる世界を垣間見る力があるという。

俺は石を強く握りしめ、藤色の残響が最も濃い公園へと向かった。ベンチに座り、石に意識を集中させる。すると、石が心臓と共鳴するように微かに脈打ち始めた。視界がぐにゃりと歪み、耳の奥で甲高い金属音が鳴り響く。

その瞬間、見えた。

時が止まったような灰色の世界。その中で、一人の少女が、消えた藤色の人々の中に佇んでいた。彼女はこちらを真っ直ぐに見つめ、何かを伝えようと必死に口を動かしている。声は聞こえない。だが、その瞳は、絶望と、そして僅かな希望の色をたたえていた。

意識が現実に戻ると、激しい頭痛と眩暈に襲われた。手の中の共鳴石は、微熱を帯びている。あの少女は誰だ? 俺が見たあの世界は、一体何なんだ? 初めて、自分の呪われた能力が、何か巨大な謎の扉に繋がっていることを確信した。

第四章 存在しない時間

それから数日、俺は時空共鳴石を使い続けた。副作用は想像以上に重く、使うたびに現実の感覚が薄れ、自分の身体が自分のものでないような奇妙な浮遊感に苛まれた。だが、やめられなかった。あの少女の瞳が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかったからだ。

そして、何度目かの試みの果てに、俺の意識は完全に肉体を離れた。

気づけば、俺はあの灰色の世界に立っていた。ここは、時間と時間の狭間――『存在しない時間』。消えた藤色の人々が、まるで蝋人形のように動きを止め、静かにそこにいた。彼らは消滅したのではなく、この時間の牢獄に囚われていたのだ。

「やっと来てくれた」

振り返ると、あの少女がいた。アリア、と彼女は名乗った。

「あなたを待っていたの」

彼女の言葉は、思考として直接俺の心に響いてきた。

「どういうことだ? なぜ、俺を……」

アリアは悲しげに微笑んだ。「この現象を起こしたのは、あなたよ、ソラ。あなたの力が、目覚め始めているから」

彼女が語った真実は、俺の理解を遥かに超えていた。俺は、このバラバラになった世界を再び一つに紡ぐための『調律師』なのだという。そして、この消滅現象は、その強大な力が不完全に覚醒した際に発生した、歪みの余波なのだと。

「私たちをここに隔離することで、あなたの力は、世界そのものが崩壊するのを防いだの。でも、それは一時しのぎに過ぎない。あなたが全ての周波数を統合しなければ、やがて他の周波数も……世界そのものが、消え始める」

第五章 統合の礎

アリアの言葉が、雷のように俺を撃ち抜いた。俺の能力は呪いではなかった。世界を救うための、あまりにも巨大で、残酷な力だった。

「どうすればいい? どうすれば、君たちを、世界を救える?」

アリアは俺の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳の奥に、深い覚悟の色が揺らめいていた。

「全ての時間周波数を、あなたの中に受け入れるの。あなたの存在そのものを触媒にして、世界を再調律するのよ」

彼女の言葉の意味を理解した瞬間、全身の血が凍るような感覚に襲われた。それはつまり、俺自身の『時間』を、存在そのものを、世界の再構築のために燃やし尽くすということ。俺という個は消え、世界の礎となること。

孤独だった。ずっと、誰にも認識されず、誰とも繋がれない世界で生きてきた。だが、死ぬのは怖かった。消えてなくなるのは、恐ろしかった。

しかし、俺の脳裏に、アリアの瞳が、灰色の世界に囚われた人々が、そして、互いに気づかずにすれ違う、色彩豊かな街の人々の姿が浮かんだ。彼らが笑い合い、触れ合い、同じ時間を共有する世界。俺がずっと、心のどこかで夢見ていた世界。

「……わかった」

俺は呟いた。それは、自分自身に言い聞かせるような、か細く、けれど確かな声だった。

「俺が、やる」

第六章 全ての色彩が溶け合う時

俺は、街で最も時間の歪みが強い、古い時計塔の広場に立っていた。手には、最後の力を振り絞るように鈍く輝く時空共鳴石。アリアと囚われた人々の想いを胸に、俺は静かに目を閉じた。

石を天に掲げ、俺は自身の存在の全てを解放した。

刹那、俺の身体から無数の色の光が奔流となって溢れ出した。青、赤、緑、黄、そして藤色……これまで俺だけが見ていた全ての色が、螺旋を描きながら空へと昇っていく。世界が、光の奔流に呑み込まれた。

街中の人々が、何事かと空を見上げる。そして、奇跡が起きた。

今まで決して交わることのなかった、異なる周波数の人々が、初めて互いの姿をはっきりとその目に映したのだ。驚き、戸惑い、そしてやがて、歓喜へと変わっていく表情。初めて触れる隣人の手の温もり。初めて聞こえる、すぐ隣にいたはずの誰かの笑い声。

全てのオーラが、全ての色彩が、空高くで混ざり合い、一つの巨大な光の球体となった。それはまるで、新しい太陽のようだった。温かく、優しい光が世界を照らし、バラバラだった時間が、一つの雄大な流れへと統合されていく。

俺の意識は、その光の中でゆっくりと溶けていく。身体の感覚が消え、記憶が薄れ、俺という輪郭が失われていく。だが、不思議と恐怖はなかった。孤独だった俺の世界が、今、全てと一つになる。その途方もない充足感が、俺を満たしていた。

第七章 君がいた世界の残響

新しい世界が始まった。誰もが互いを認識し、同じ時間を分かち合える世界。人々は、その奇跡のような日常を、涙を浮かべて抱きしめた。

現実世界に戻ってきたアリアは、あの時計塔の広場へと走った。だが、そこにソラの姿はどこにもなかった。彼が営んでいた古道具屋『時紡ぎ』も、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた。

世界は彼を記憶していない。彼がいた痕跡は、何一つ残されていなかった。

アリアは、ただ立ち尽くした。悲しみに胸が張り裂けそうだった。しかし、その時、優しい風が彼女の頬を撫で、どこからか、古い本のページがめくれるような、懐かしい音を運んできた。

ふと、空を見上げる。降り注ぐ陽光の中に、ほんの一瞬、虹色の光の粒子がきらめいて舞うのが見えた。それは、ソラだけが見ていた、世界の色彩だった。

彼は消えたのではない。この世界の、光の中に、風の中に、人々の温もりの中に、その全てに溶け込んでいるのだ。

アリアの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。けれど、その口元には、柔らかな微笑みが浮かんでいた。

「ありがとう、ソラ。あなたの色は、こんなにも綺麗だよ」

彼女は、新しく生まれ変わった世界の中で、彼の残した温かい残響を胸に、強く生きていくことを誓った。


TOPへ戻る