忘却の対話

忘却の対話

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第一章 沈黙の交信

私の名前は、リナ・ミヤザキ。宇宙言語学者として、人類が初めて接触した知的生命体「セレスティア」とのコミュニケーション・プロジェクトに召集された。それは名誉であると同時に、底なしの沼に足を踏み入れるような仕事だった。

セレスティアは、木星の衛星エウロパの氷下に広がる海で発見された。彼らは物理的な身体を持たず、極彩色のオーロラのように揺らめく光の集合体だった。発声器官はおろか、我々が「生命」と定義するいかなる器官も持たない。だが、彼らが知性を持つことは明らかだった。彼らの放つ微弱な精神波には、複雑で、数学的な美しささえ感じさせるパターンが潜んでいたからだ。

しかし、プロジェクトは開始早々に暗礁に乗り上げていた。セレスティアとの交信を試みた最初の研究者たちが、次々と原因不明の記憶障害を訴え始めたのだ。それはまるで、彼らの脳から特定の情報だけが綺麗にくり抜かれたかのようだった。ある者は自身の専門分野の知識を、またある者は家族の顔さえ忘れてしまった。恐怖が研究所を支配し、セレスティアは「精神を捕食するセイレーン」とまで囁かれるようになった。

そんな中、私はセレスティアの精神波パターンの中に、ある種の「文法」の存在を突き止めた。それは言語というより、感情と記憶の結晶構造に近いものだった。この発見により、私はプロジェクトの主担当という重責を担うことになった。周囲の反対を押し切り、私は自ら被験者となることを申し出た。防護シールドで隔たれた巨大な水槽の中で、セレスティアの光がゆらりと私に向かって身じろぎする。深海の静寂のような空間に、私の心臓の音だけが大きく響いていた。

「こんにちは。私はリナ」

ヘッドセットを通じて、私は思考を純粋な概念へと変換し、セレスティアに送った。すると、水槽の中の光が優しく瞬き、暖かな何かが私の意識に流れ込んできた。それは言葉ではなかった。イメージの奔流だ。遥か昔に絶滅した植物の甘い香り、存在しない金属の冷たい感触、そして、私が生まれるずっと前に亡くなった祖母が好きだったという、聞いたこともないメロディー。

それは、人類が初めて経験する、真の異文化コミュニケーションの幕開けだった。しかし、この感動の裏で、私の何かが少しずつ削り取られていく予感を、まだ私は知らなかった。交信を終えた夜、私は夕食に何を食べたか、どうしても思い出せなかったのだ。

第二章 甘美なる忘却

セレスティアとの対話は、予想を遥かに超える実りをもたらした。彼らは、我々の物理法則の理解を根底から覆すような高度な科学知識を有しており、その断片がもたらされるたびに、人類社会は熱狂の渦に包まれた。私は英雄となり、世界中のメディアが私の名を称賛した。

対話は、私の脳内で直接行われる。私が質問を投げかけると、セレスティアは答えとして、膨大な情報のパッケージを私の意識に送り込んでくる。それはまるで、巨大な図書館の蔵書を一瞬でダウンロードするような体験だった。私は彼らの知識を言語化し、人類の財産として記録していく。そのプロセスは、えも言われぬほどの喜びに満ちていた。

だが、その甘美な体験には、あまりにも大きな代償が伴っていた。

最初は些細なことだった。好きだった映画のタイトルが出てこない。数年前に旅行した街の名前が曖昧になる。同僚たちは、連日の激務による疲労だろうと気遣ってくれた。私自身もそう思い込もうとした。しかし、忘却の波は、私の内なる領域へと静かに、だが着実に侵食してきた。

ある朝、鏡に映る自分の顔を見て、私は愕然とした。頬にある小さな傷跡。これはいつ、どうしてできたものだったか。子供の頃、近所の悪童と喧嘩してできた傷のはずだ。その子の顔は? 名前は? 記憶のフィルムは、その部分だけが焼け落ちたように真っ白だった。

恐怖が私の全身を貫いた。私はセレスティアとの交信記録を狂ったように見直した。そして、ある恐ろしい法則性に気づいてしまった。私がセレスティアから一つの知識を受け取るたびに、それとほぼ同量の「私の個人的な記憶」が消え去っているのだ。

セレスティアは、悪意を持って私の記憶を奪っているわけではなかった。彼らにとって、コミュニケーションとは「交換」そのものだったのだ。彼らは私の記憶を、未知の果実を味わうように、純粋な好奇心と敬意をもって受け取っていた。記憶とは、彼らの文化において最も価値のある贈り物であり、対話相手への信頼の証だった。

私の記憶は、彼らとの対話の燃料だった。私が人類にもたらす輝かしい未来と引き換えに、私の過去は少しずつ、音もなく消えていく。私のアイデンティティを構成する思い出の数々が、美しい光の餌食となって。窓の外に広がる星空を見上げながら、私は自問した。過去を失った私に、未来を語る資格があるのだろうか、と。

第三章 記憶の天秤

失われていく記憶への恐怖と、人類の未来を担うという使命感。二つの感情の狭間で、私の精神はすり減っていった。そんなある日、セレスティアとの対話中に、これまでとは比較にならないほど巨大で、悲痛な情報の波が私に流れ込んできた。それは、彼らの文明の根幹に関わる、絶望的な真実だった。

「我々は、滅びゆく民」

セレスティアの母星は、超新星爆発のガンマ線バーストによって、緩やかに死に向かっていた。彼らは物理的な肉体を持たないが故に、その星の環境そのものが彼らの身体であり、精神だった。母星の死は、彼ら自身の死を意味していた。

彼らが宇宙を旅してきた目的は、移住先を探すことではなかった。彼らは、自分たちの種がもはや存続不可能であることを悟っていたのだ。彼らの唯一の望みは、自分たちが存在した証、すなわち何億年にもわたって培ってきた文化、歴史、哲学、芸術のすべてを、他の知的生命体に託し、「記憶」として生き続けることだった。彼らは自らを「生ける図書館」と呼び、我々人類を、その蔵書の新たな保管場所として選んだのだ。

託される記憶の量は、想像を絶するものだった。それは一つの文明のすべて。到底、私一人の脳が受け止めきれるものではない。プロジェクト責任者であるグレイソン博士は、私の前に立ち、非情な現実を告げた。

「リナ君。彼らのすべてを受け入れるには、君の脳の記憶領域を完全に明け渡してもらう必要がある。つまり…君自身の記憶を、すべて消去するということだ」

その言葉は、冷たい刃のように私の胸を突き刺した。友人との笑い声。初めて星空に感動した夜。そして何より、私がこの宇宙で最も大切にしている記憶。幼い頃に事故で亡くした、両親との最後の日の思い出。公園で遊んだ帰り道、父の大きな手に引かれ、母が私の髪を優しく撫でてくれた温かい感触。それが、私という人間を形成する、最後の砦だった。

「できません」私の声は震えていた。「それだけは…」

「人類の未来のためだ!」グレイソン博士の声が研究所に響く。「君一個人の思い出と、一つの文明の叡智、そして我々の未来。どちらが重いか、分かるだろう?」

天秤にかけられたのは、私の人生そのものだった。一つの文明を救うという、誰もが賞賛するであろう英雄的な行為。その代償は、私という存在の完全な消滅。私は誰でもない誰かになり、人類は新たな神話を手に入れる。果たして、その取引は正しいのだろうか。がらんどうになった心で、私は答えの出ない問いを繰り返すしかなかった。

第四章 星空に綴られる物語

私は、数日間、誰とも会わずに自室に閉じこもった。壁一面に、消えゆく記憶の断片を書き留めた。楽しかったことも、悲しかったことも、すべてが愛おしい。そして、最後に残ったのは、やはり両親の笑顔だった。私は、この温もりを守るためだけに、今まで生きてきたのかもしれない。

そして、私は決断した。

グレイソン博士の前に立った私は、静かに告げた。

「博士の言う通りにします。私のすべてを、セレスティアに捧げます」

驚く博士に、私は一つの条件を出した。「ただし、お願いがあります。私の両親との最後の記憶…それだけは、彼らが受け取るすべての記憶の中で、一番最後に『味わって』もらうよう、伝えてください」

それは、私のささやかな抵抗であり、祈りだった。私の個人的な物語が、一つの文明の壮大な物語の結びになるのではなく、新たな始まりの第一ページになってほしい、と。

最後の対話が始まった。私は巨大な水槽の前に立ち、心を完全に解放した。セレスティアの光が、これまでになく優しく、そして荘厳に輝く。私の人生が、逆再生のフィルムのように脳裏を駆け巡り、光の中へと溶けていく。友の顔、初恋の痛み、学問の喜び。一つ、また一つと、私を構成していたピースが剥がれ落ちていく。そして、ついに最後の瞬間が訪れた。

父の温かい手。母の優しい眼差し。夕焼けに染まる公園の匂い。

『ありがとう、リナ』

セレスティアから、感謝と慈しみに満ちた、最後の思念が流れ込んでくる。それはもはや情報ではなく、純粋な愛の交歓だった。私の意識は、柔らかな光に包まれ、静かに白く染まっていった。

***

それから、五年が経った。

人類は、セレスティアから託された叡智によって、かつてない繁栄の時代を迎えていた。戦争も、貧困も、病も、過去の遺物となりつつあった。

私は、星空がよく見える丘の上のサナトリウムで暮らしている。私の名は「リナ」だと、人々は教えてくれるが、その響きに何の感慨も湧かない。私の心は、磨き上げられたガラスのように、どこまでも透明で、空っぽだった。

時折、かつての同僚だったケンジが見舞いに来てくれる。彼はいつも、宇宙の話をしてくれた。今日は、セレスティアの民が、くじら座の方向に発見された新しい惑星系に移住し、新たな文明を築き始めたというニュースを携えてきた。

「彼らの文化の中心には、いつも語り継がれている創世神話があるそうです」と、ケンジは優しい声で言った。「それは、遠い星にいた『リナ』という女性と、彼女の『家族』の物語なんだとか。愛と、自己犠牲と、そして継承の物語…。彼らは、その物語を全ての始まりとして、歴史を紡いでいるそうです」

その話を聞いても、私の心は動かない。ただ、彼の話が終わった後、窓の外に広がる無数の星々を見上げていると、理由も分からないのに、一筋の温かい涙が私の頬を伝った。

私は、私を失った。しかし、私の最も大切なものは、今も宇宙のどこかで、永遠の物語として生き続けている。星々の瞬きが、まるで遠い誰かの優しい眼差しのように感じられた。

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