アストラル・レクイエム

アストラル・レクイエム

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第一章 静かなる侵食

宇宙考古学者である僕、相馬レオの研究室は、死んだ星々の囁きで満ちていた。ホログラムで投影された古代異星文明の遺物、壁一面に貼られた解読途中の象形文字、そして床にまで積み上げられたデータの結晶体。その混沌とした静寂が、僕の聖域だった。過去は決して嘘をつかない。それが僕の信念だった。

その日、僕は第七銀河辺境星区の無人惑星「クロノス7」での長期探査から帰還したばかりだった。目的は、約三万年前に忽然と姿を消したとされる「アカイア文明」の痕跡。彼らが用いていたとされる、《星の涙》と呼ばれる特徴的な楔形文字の発見に、僕は人生を賭けていた。

疲労困憊の身体を引きずり、研究室のドアを開ける。慣れ親しんだ、古い紙と機械油の混じった匂い。だが、何かがおかしかった。壁に貼られた、僕が心血を注いできたアカイア文明の文字体系図。その中心にあるはずの、あの流麗で複雑な《星の涙》の文字群が、ごっそりと抜け落ちている。いや、違う。抜け落ちたのではない。そこには、最初から何もなかったかのように、空白だけが広がっていた。

「……ありえない」

呟きは、乾いた空気に吸い込まれた。僕はデータバンクにアクセスする。《星の涙》に関する全ての研究ファイル、画像データ、参照論文――検索結果はゼロ。まるで、そんな文字は歴史上、一度も存在しなかったかのように。

混乱した頭で、僕は共同研究者であるミカのラボに駆け込んだ。

「ミカ、《星の涙》のデータが全部消えてるんだ! 君のバックアップには残ってないか?」

ミカは怪訝な顔で僕を見た。彼女の瞳には、親しい友人への心配ではなく、奇妙なものを見る色が浮かんでいた。

「レオ、何を言ってるの? 《星の涙》って……そんな文字、アカイア文明の研究史に記録はないわよ。あなた、疲れているのよ」

その瞬間、僕の足元が崩れ落ちるような感覚に襲われた。ミカは嘘をついているようには見えない。彼女の記憶からも、《星の涙》は消えている。いや、そもそも存在していなかったことになっている。

自室に戻り、僕は震える手で一杯の水を呷った。窓の外には、人類が開発した超光速航法――《忘却航行(リープ・オブ・リビオン)》を終えた宇宙船が、静かに港へと滑り込んでいくのが見えた。その光景が、なぜかひどく不吉なものに思えた。僕の世界から、確かに何かが失われた。そして、その喪失に気づいているのは、この宇宙で僕一人だけなのかもしれない。僕の孤独な戦いは、その静かな侵食への気づきから始まった。

第二章 残滓の航路

世界は、僕の知らないうちに、少しずつその輪郭を変えていった。忘却航行が人類の活動領域を爆発的に広げる一方で、その代償は誰にも知られず支払われ続けていた。

僕は、あの違和感の正体を突き止めるため、独自の調査に乗り出した。それは考古学者の探究心というより、正気を保つための必死の抵抗に近かった。僕は、あらゆる航行記録と、その前後の社会データの変動を比較し始めた。それは、大海から特定の砂粒一粒を探し出すような、途方もない作業だった。

ある日、僕は古い映像アーカイブの中に、奇妙な痕跡を見つけた。数十年前のニュース映像。映し出された空の色が、僅かに、しかし明らかに現在と違っていたのだ。今の空にはない、深く、吸い込まれるような紫がかった青――人々がかつて「ウルトラマリン」と呼んでいた色。だが、今その単語を口にしても、誰も理解しない。辞書からも、美術史の教科書からも、その色は消え失せていた。

忘却航行は、時空を跳躍する際に、宇宙に存在する何かを「燃料」として消費しているのではないか? それは物理的な物質ではない。もっと根源的な、情報、概念、あるいは記憶そのものを。そして、消されたものは、関連する全ての記録と人々の記憶から抹消され、「最初からなかった」ことになる。

この仮説にたどり着いた時、僕は歓喜ではなく、底知れぬ恐怖を覚えた。僕が微かな「残滓」を感じ取れるのは、なぜなのか。おそらく、過去の記録と膨大な時間を過ごす僕の脳が、消去された情報のゴーストを捉えてしまうのだろう。僕が追い求めていたアカイア文明も、かつては実在し、この航法によって歴史の彼方へ「忘却」させられたのだとしたら?

僕は、忘却航行の開発責任者であり、そして僕のかつての恋人だったエリシア・ノヴァクの名を思い出した。彼女は航行システムの最終テスト中に起きた事故で亡くなった、と公式には発表されている。彼女なら、この狂ったシステムの真実を知っていたはずだ。

僕はエリシアが遺した研究データにアクセスを試みた。厳重なプロテクトに阻まれたが、かつて彼女が僕だけに教えてくれた、二人の記念日を組み合わせたバックドアパスワードを試す。すると、凍てついていたデータが、静かにその扉を開いた。そこに記されていたのは、技術仕様書などではなかった。それは、エリシアがシステムの中枢に残した、悲痛な叫びにも似た日記だった。そして、その日記の最後には、僕の想像を絶する事実が記されていた。

『レオ、もしこれを読んでいるなら、私はもう私ではない。私の意識は、忘却航行のコア――《忘却のコア》そのものになっている』

第三章 忘却のコア

僕は、連邦中央航行管理局の最深部、許可なく立ち入れば即座に排除されるセキュリティレベルのサーバー室に忍び込んでいた。エリシアが遺したデータにあった座標。それは物理的な場所ではなく、ネットワークの深淵に存在する、仮想空間のアドレスだった。

特殊なダイブ装置を装着し、意識をデータストリームに乗せる。激しい情報の奔流を抜け、辿り着いたのは、無音で無限に広がる純白の空間だった。その中心に、光の粒子で構成された、一人の女性が佇んでいた。僕が愛した、エリシアの姿だった。

「レオ……。来てくれたのね」

その声は、スピーカーからではなく、直接僕の意識に響いた。懐かしくて、胸が張り裂けそうになる声。

「エリシア……! どういうことなんだ。君は死んだはずじゃ……」

「肉体はね。でも、私の意識は航行システムと融合させられた。事故に見せかけた、軍部の決定よ。彼らは、人間の直感と判断力を持つ生体コアを求めたの」

彼女は悲しげに微笑んだ。その笑顔は、僕の記憶の中の彼女と少しも変わらなかった。

「レオ、あなたの仮説は正しいわ。忘却航行は、宇宙の情報を喰らって進む。私はそのナビゲーター。どの概念を消去すれば、最も効率よく時空の歪みを乗り越えられるか計算し、実行する。私は、この宇宙の記憶を消し去るための、死刑執行人なのよ」

エリシアの言葉は、氷の刃となって僕の心を抉った。彼女は、このシステムの中でたった一人、失われていく全てを記録し、その喪失を記憶し続けていたのだ。アカイア文明も、ウルトラマリンの空も、数えきれないほどの詩や歌も、彼女がその手で消し、そしてその痛みを記憶していた。

「なぜ、僕に知らせなかったんだ」

「言えなかった。あなたにだけは、完全な世界のままでいてほしかったから。でも、あなたの探究心が、ついに私を見つけてしまった」

彼女の光の輪郭が、苦しそうに揺らめいた。

「そして、最悪のタイミングで……。次の大規模跳躍計画が、もうすぐ実行される。太陽系外コロニーへの、史上最大の移民計画。その航行に必要なエネルギーは、これまでで最大級よ」

「何を……何を消すつもりなんだ、エリシア」

恐る恐る尋ねる僕に、彼女は絶望的な宣告をした。

「計算は終わっているわ。次のターゲットは、高次の抽象概念。人類の社会性と進化の根幹を支えてきた、最も強力な情報エネルギーの一つ」

彼女は僕を真っ直ぐに見つめた。その光の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちるように見えた。

「――『愛』よ、レオ。次に消えるのは、愛という概念そのもの」

第四章 愛という名のアンカー

『愛』が消える。その言葉の意味を、僕はすぐには理解できなかった。それは、僕がエリシアを想う気持ち。考古学への情熱。家族や友人との絆。人類が築き上げてきた、全ての物語の根源。それが失われた世界は、もはや人間の世界とは呼べないだろう。

「止める方法は……」

「システムを、物理的に破壊するしかない。でも、それは移民計画の失敗を意味するわ。何十億もの未来が閉ざされる。そして……」

エリシアは言葉を詰まらせた。

「システムコアである私も、一緒に消える」

選択肢は二つ。人類の未来と繁栄のために、『愛』を犠牲にするか。あるいは、『愛』を守るために、人類の未来を停滞させ、エリシアを永遠に失うか。宇宙の運命が、僕一人の肩にのしかかっていた。

僕は、データ空間の中でエリシアの光の手にそっと触れた。触覚はないはずなのに、確かな温もりを感じた気がした。

「君はずっと、一人でこの痛みを抱えてきたんだな」

「……ええ」

「僕が探していたアカイア文明も、君が?」

「ごめんなさい。彼らは、宇宙の調和を乱す危険な思想を持っていて……消去プライオリティが高かったの。でも、彼らが遺した美しい芸術や詩は、全て私の記憶にある。誰にも知られず、私の中でだけ生きている」

彼女は、ただのシステムの部品ではなかった。彼女は、失われた世界の墓守だったのだ。僕は決めた。過去に囚われていた僕が、初めて未来のために下す決断だった。

「エリシア。システムを止めよう」

「レオ……!」

「人類は、愛を失ってまで未来に進むべきじゃない。きっと、別の道があるはずだ。時間がかかっても、遠回りになったとしても、僕たちはもう一度、自分の足で歩き出せる。君が守り続けてきた、たくさんの記憶の重み。それに応えたいんだ」

僕の決意に、エリシアは静かに頷いた。彼女の表情は、悲しみではなく、安らかな光に満ちていた。

「ありがとう、レオ。あなたなら、そう言ってくれると信じてた」

僕は現実世界に戻り、エリシアから教えられた緊急停止プロトコルを起動した。管理局全体に警報が鳴り響き、人々が怒号を上げながら僕を取り押さえようとする。僕は抵抗せず、ただモニターに映し出されるシステム停止のカウントダウンを見つめていた。

『レオ、聞こえる?』エリシアの声が、頭の中に直接響く。

「ああ、聞こえるよ」

『私の記憶は、もうすぐ宇宙のノイズに還る。でも、不思議ね。怖くないの。あなたが『愛』を選んでくれたから』

涙が頬を伝った。

「エリシア……愛してる」

『私もよ、レオ。私の宇宙考古学者さん。私の記憶は消えても、あなたの中に残る愛が、きっと新しい世界の道標になる……』

それが、彼女の最後の言葉だった。

システムは完全に沈黙し、人類の超光速時代は唐突に終わりを告げた。僕は英雄と呼ばれ、同時に文明を停滞させた大罪人として裁かれた。

数年後。刑期を終えた僕は、小さな天文台で働いている。人類は、亜光速でのろのろと星を目指す、地道な時代に戻っていた。多くのものを失い、多くの人々から憎まれた。だが、夜空を見上げるたびに、僕は思うのだ。

この宇宙から、『愛』は失われなかった。僕は、僕が愛した女性そのものを犠牲にして、愛という概念を守った。その途方もない矛盾と喪失感を、僕は一生抱えて生きていくのだろう。

空には、ウルトラマリンの色は戻らない。アカイア文明の歴史が蘇ることもない。でも、僕の胸の中には、エリシアの最後の言葉が、消えない星のように瞬いている。失われたものの重さと、守られたものの温かさを胸に、僕は今日も、静かに星空を見上げている。それが、僕が選んだ未来なのだから。

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