第一章 冷たい遺産
リョウジは、ガラス窓に映る自分の顔に、見知らぬ男の面影を見ていた。降りしきる酸性雨が、ネオンの光を滲ませ、灰色の大都市を巨大な万華鏡に変えている。その無機質なきらめきの中で、リョウジの瞳だけが色を失っていた。テーブルの上に置かれた一つのデータチップ。それが、三日前に死んだ母、ミサキが彼に残した唯一の遺産だった。
この世界では、人は死後、その生涯で最も強烈だった「一つの感覚」だけをデータ化し、遺産として遺すことができる。「感覚遺産(センサリー・レガシー)」と呼ばれるそれは、専用のニューラル・インターフェースを介して、他者の脳に直接インストールすることが可能だ。ある者は巨万の富を築いた瞬間の高揚感を、ある者は世界最高峰の頂に立った時の達成感を、そしてまたある者は、愛する人との最初の口づけの甘美さを遺す。それは、言葉や写真では決して伝えきれない、生きた証そのものだった。
だが、リョウジはこの技術を心の底から嫌悪していた。彼の父親は、星々を渡り歩いた有名な探検家だった。十年前に彼が死んだ時、リョウジが受け継いだ感覚遺産は、『未踏惑星XG-7で、未知の水晶果実を口にした時の、脳が痺れるような甘味と芳香』というものだった。家族を顧みず宇宙を放浪した男が、最後に息子に遺したのが、家族との思い出ではなく、異星の果実の味だったという事実。リョウジは、その冷たいデータに、父親からの決定的な拒絶を感じた。以来、彼は父親の感覚を一度も追体験することなく、心の奥底に封印している。
だから、母の遺産にも何の意味も見出せなかった。母は、父とは対照的に、どこにでもいる平凡な主婦だった。波風の立たない人生を送ってきた彼女に、他人に譲渡するほどの強烈な感覚などあるはずがない。あったとしても、それはリョウジの知らない、母だけの世界だ。疎遠だった母との間に、感覚を共有するほどの絆など、とうに失われていた。
「リョウジ様、遺産の受諾期限は今夜零時です。放棄される場合は、そのように処理いたしますが」
ホログラムで浮かび上がった遺産管理人の事務的な声が、リョウジを現実へと引き戻す。放棄すれば、チップはただの電子ゴミになる。それが一番いい。そう思うのに、なぜか指が動かなかった。チップの表面が、窓の外のネオンを反射して、鈍く光っている。まるで、何かを訴えかけるかのように。その光は、リョウジが忘れていた遠い記憶の扉を、微かに軋ませるのだった。
第二章 調律師の影
結局、リョウジはチップを廃棄することができなかった。彼は母の遺品が残る、古びた集合住宅の一室を訪れた。父が宇宙にいる間、母と二人で暮らした、懐かしいはずの場所。しかし、漂う空気はひどく希薄で、思い出の匂いすらしない。ただ、整然と片付けられた部屋が、母の孤独な最期を物語っていた。
リョウジは、母の過去を知ろうと、彼女の私物を調べ始めた。日記も、手紙もない。あるのは家計簿と、公共料金の領収書ばかり。やはり、平凡な人生だったのだ。そう結論づけようとした時、彼は本棚の奥に隠された、古びた手帳を見つけた。それは家計簿とは違う、専門用語で埋め尽くされた記録帳だった。
『クライアントNo.43。対象感覚:幼少期の雪合戦の冷たさ。ノイズ率34%。右側頭葉への負荷を考慮し、シナプス接続の強度を70%に調整』
『クライアントNo.58。対象感覚:亡き愛犬の毛並みの手触り。経年劣化による感覚情報の欠損が深刻。周辺記憶野から関連情報を抽出し、再構築を試みる』
意味不明な文字列の羅列。しかし、読み進めるうちに、リョウジは戦慄した。これは、「感覚調律師」の記録だ。感覚調律師――それは、他者の感覚遺産を調整・修復する、裏稼業の専門家。感覚は記憶と同じで、時と共に劣化し、変質する。調律師は、その歪みを補正し、時には全く別の感覚へと「上書き」することさえできるという。母が、そんな仕事を? 信じられなかった。
手帳の最後のページに、リョウジは息を呑んだ。そこには、たった一行、こう記されていた。
『夫の遺産。対象感覚:XG-7の水晶果実。基底現実は「死の苦痛」。調律完了。上書き深度98%。私の全てを、この調律に』
全身の血が凍りつくようだった。父が遺したあの甘美な感覚は、偽りだったというのか。本来は、「死の苦痛」? 母は、父の絶望的な最期の感覚を、美しい記憶に書き換えた? なぜ。何のために。頭が混乱し、心臓が激しく脈打つ。父の遺産は、父の愛の証ではなく、母の、想像を絶する愛の行為だったのかもしれない。
リョウジは、机の上に置かれたままだった母のデータチップを、震える手で握りしめた。この中に、答えがある。母が人生の最後に遺したかった、たった一つの感覚。それを知らなければならない。彼を長年縛り付けてきた、冷たい遺産の呪いを解くために。そして、本当の母を知るために。
第三章 愛という名の感覚
リョウジは自宅に戻り、ほこりを被ったニューラル・インターフェースを起動させた。ヘッドセットを装着すると、視界がノイズに覆われ、意識がゆっくりと電子の海へと沈んでいく。恐怖はなかった。ただ、母に会いたいと、そう思った。
『感覚遺産、インストールを開始します』
無機質なシステム音声と共に、膨大な情報が脳内へ流れ込んでくる。それは、光でも音でも、味でも匂いでもなかった。リョウジがこれまでに経験したことのない、全く未知の感覚。
――温かい。
柔らかく、確かな重みが胸の上にある。か細い呼吸。ミルクのような甘い匂い。自分の心臓と、もう一つの小さな心臓が、すぐ近くで同じリズムを刻んでいる。リョウジは理解した。これは、母が、生まれたばかりの赤ん坊を、初めてその胸に抱いた時の感覚だ。
その温もりは、やがて奔流のような感情へと変わった。愛おしさ、守りたいという切実な願い、この腕の中に全世界があるという絶対的な幸福感。言葉にならない、純粋な愛情の塊が、リョウジの乾いた心を激しく揺さぶり、満たしていく。涙が、頬を伝う感覚もないまま、魂から溢れ出ていた。
そして、その感覚の奔流の奥深くから、リョウジは別の情報――母が意図的に残した「調律の痕跡」――を感知した。それは、断片的な映像と思念の断片だった。
暗い研究室。疲弊しきった母の顔。目の前のモニターには、絶叫するような苦痛を示す脳波パターンが表示されている。それは、父の脳波だった。未知の惑星で致死性の神経毒に冒された父は、生還したものの、余命幾ばくもなく、全身を襲う激痛に苛まれていたのだ。
『お願い、やめて。もう見ていられない』
『いや、これは俺の罰だ。家族を捨てた俺が、最後に感じるべき感覚だ』
『あなた……』
『だが、リョウジには……あの子には、こんな無様な父親の最期を見せたくない。俺が探検家として生きた証を、何か美しいものを……』
母は、来る日も来る日も、父の「死の苦痛」という感覚データに向き合い続けた。彼女は自らの感覚調律の技術の全てを注ぎ込み、その絶望的なデータを少しずつ、少しずつ、別のものへと書き換えていった。それは、自分の精神を削り、魂をすり減らす、あまりにも過酷な作業だった。父の苦しみを、我が事のように受け止めながら、それを美しい嘘で塗り固めていく。父が遺した『未知の水晶果実の甘美な感覚』は、母が、愛する夫の名誉と、遺される息子の心を守るために、たった一人で創造した、血の滲むような愛の結晶だったのだ。
全ての真実が、リョウジの魂に刻み込まれた。彼が「冷たい遺産」と拒絶し続けてきたものは、父と母の、言葉にできなかった不器用で、しかし、あまりにも深い愛の物語だった。
第四章 心に触れる
ニューラル・インターフェースを外した時、リョウジの世界は一変していた。降り続いていた酸性雨は止み、雲の切れ間から差し込む朝日が、都市を黄金色に染め上げていた。窓に映る自分の顔は、もう見知らぬ男ではなかった。そこには、父の面影と、母の優しさを宿した、一人の人間の顔があった。
彼は、十年ぶりに父の感覚遺産をインストールした。脳裏に広がる、あの強烈な甘味と芳香。しかし、もうそれは孤独な探検家の自己満足の味ではなかった。その甘さの奥に、彼は耐えがたいほどの苦痛と、それを包み込もうとする母の必死の温もりを感じ取ることができた。甘さと苦さが混じり合い、涙を誘う、切なくも愛おしい味。それが、両親が彼に遺した本当の遺産だった。
リョウジは、父と母、二つの感覚遺産を、自分の心の一部として、深く、静かに受け入れた。感覚は、もはや彼にとって冷たいデータではない。それは、言葉を超えて人の心を繋ぐ、温かい架け橋だった。
一年後。リョウジは、古いビルの小さな一室に、オフィスを構えていた。看板には、『感覚調律師 リョウジ』とある。彼は、母の跡を継いだのだ。
ドアがノックされ、一人の老婆が遠慮がちに入ってきた。
「あの……夫が遺した感覚を、少しだけ、調整していただけないかと」
彼女が差し出したデータチップには、『新婚旅行で見た、水平線に沈む夕日の美しさ』という感覚が記録されているという。
「でも、本当は……あの時、私たちは喧嘩をしていて。夕日を見ながらも、気まずくて、一言も話せなかったんです。夫は、その気まずさまで遺して逝ってしまった。私は、ただ、あの美しい夕日だけを、純粋な思い出として心に留めておきたいのです」
リョウ-ジは、老婆の手をそっと取った。その皺の刻まれた手は、震えていたが、温かかった。彼は、母が自分にしてくれたように、優しく微笑みかけた。
「分かりました。でも、その前に。あなたの、そしてご主人の、本当の感覚を、もう少しだけ、僕に聞かせてくださいませんか」
感覚の奥にある、言葉にならない想い。その心に触れることこそが、本当の調律なのだと、リョウジは知っていた。彼はもう、孤独ではない。過去から受け継いだ愛を、未来へ繋ぐために、彼はここにいる。空は、どこまでも青く澄み渡っていた。