第一章 笑いのスコアボード
佐藤健太の目には、世界が少しだけ違って見えていた。例えば、満員電車で誰かが豪快なくしゃみをした時、周囲の人々の口元から漏れるクスクス笑いは、淡い水色のシャボン玉のようにふわりと浮かんで消える。テレビのドッキリ番組で、芸人がクリーム砲を浴びるのを見て腹を抱える若者たちの笑いは、トゲトゲした紫色の稲妻となって空間を裂く。
健太は、人の「笑い」をオーラとして視認できる、稀有な能力の持ち主だった。それは、物心ついた頃からの、彼だけの秘密の色彩だった。
「だから、俺は向いてないんだって」
薄暗い居酒屋のカウンターで、健太は目の前のハイボールグラスに浮かぶ気泡を睨みつけながら呟いた。三日前、彼は五年続けたお笑いコンビ「アストロ・ノーツ」を解散した。相方の雄二から「お前の目は死んでる。客じゃなくて、わけのわかんねぇ何かを見てる」と、三行半を叩きつけられたのだ。
その通りだった。健太は、観客の顔ではなく、彼らから放たれる笑いのオーラばかりを見ていた。ネタがウケて、客席が色とりどりのオーラで満たされる瞬間は、麻薬的な快感があった。しかし、同時に彼は気づいていた。大爆笑を誘うネタほど、オーラは攻撃的で、派手なだけの空虚な色をしていた。嘲笑、見下した笑い、優越感に浸る笑い。それらは高得点だが、後味は悪かった。
「本当に良い笑いって、何なんだよ…」
自問自答は、アルコールと共に喉の奥へ消えていく。芸人を辞める潮時かもしれない。そんな諦めが胸に広がり始めた、ある晴れた日の午後だった。
目的もなく公園のベンチに座っていると、砂場の近くに人だかりができていた。中心にいるのは、腰の曲がった小柄な老婆。彼女は、数人の子供たちに囲まれ、何かをゆっくりと話している。健太は興味もなく、ぼんやりと眺めていた。
「…そうしたらな、おむすびはコロコロと転がって、穴の中にすとんと落ちてしもうたんじゃ」
老婆の声はしわがれていて、抑揚がない。あまりにも有名な昔話の、あまりにも平凡な一節。健太は思わず欠伸を噛み殺した。面白さの欠片もない。オーラなんて、発生するはずも…
その瞬間、健太は息を呑んだ。
子供たちから、爆発的なオーラが立ち上ったのだ。しかし、それは健太が今まで見たことのある、どんな色とも違っていた。紫でも、青でも、赤でもない。それは、まるで溶かした純金のような、温かく、柔らかく、巨大な黄金の光だった。トゲトゲしさも、シャボン玉のような儚さもない。ただただ穏やかで、公園全体を包み込むような、圧倒的な存在感。数値化するなら、計測不能。スコアボードを振り切るほどの、神々しいまでの「笑い」。
子供たちは、キャッキャと声を上げて笑い転げている。
「おむすび、かわいそー!」
「穴の中、まっくらだね!」
健太は混乱した。なぜ?どこに笑う要素があった?この退屈極まりない話の、一体どこに、あんな黄金の光を生み出すほどのエネルギーが隠されているというのだ。
彼の芸人としてのプライドと、彼の特殊能力が根底から揺さぶられた。目の前で起きている現象が、どうしても理解できなかった。健太はベンチから立ち上がると、まるで聖遺物でも見るかのように、老婆と子供たちが放つ黄金のオーラを、ただ呆然と見つめ続けるしかなかった。
第二章 黄金の笑いを求めて
謎を解き明かさなければ、前に進めない。芸人を続けるにせよ、辞めるにせよ、あの黄金の光の正体を知る必要があった。健太は翌日から、公園に通い詰めた。幸い、その老婆――ハルさんと名乗った――は、毎日決まった時間に公園を散歩するのが日課だった。
「あの、ハルさん!弟子にしてください!」
数日間のストーキングの末、健太は意を決して頭を下げた。ハルさんは、鳩に餌をやりながら、きょとんとした顔で健太を見上げた。
「はて…?何の弟子じゃな?」
「笑いです!あなたの笑いには、世界を平和にする力がある!」
意味不明な弟子入り志願にもかかわらず、ハルさんは「まあ、好きにしなされ」とあっさり受け入れた。それから健太の、奇妙な観察生活が始まった。
しかし、観察すればするほど、謎は深まるばかりだった。ハルさんの日常は、退屈そのものだった。スーパーでは、レジのパート主婦と「今日の卵は高いねえ」「ほんと、嫌になっちゃうわねえ」などと、面白みのない会話を交わす。すると、パート主婦の口から、ふわりと小さな黄金の光が漏れる。道端に咲くタンポポに「今日も元気かね」と話しかける。すると、まるでタンポポが応えるかのように、ハルさん自身の周りに、穏やかな黄金のオーラが漂う。
健太には全く理解できなかった。会話にオチはない。ボケもツッコミもない。ただ、事実が並べられているだけだ。健太はハルさんの真似をしてみた。スーパーで「今日の卵、高いっすね!」と別の店員に話しかけてみたが、「はあ、そうでございますね」と無表情で返され、気まずい空気が流れただけだった。灰色の愛想笑いのオーラすら発生しなかった。
「どうして…どうしてハルさんの周りだけ、黄金の笑いが生まれるんですか?」
ある日、健太は耐えきれずに尋ねた。ハルさんは、縁側で日向ぼっこをしながら、ゆっくりとお茶をすすった。
「さあねえ。わしは、ただお天道様が気持ちいいなあとか、おなかが空いたなあとか、そう思うとるだけじゃよ」
「それだけじゃ、人は笑わないじゃないですか!笑いには、緊張と緩和が!フリとオチが必要なんです!」
健太は焦っていた。自分の信じてきた「笑いの理論」が、目の前の老婆によって木っ端微塵にされている。彼は自室にこもり、再びネタ作りに没頭した。黄金の笑いを、理論的に構築しようと試みたのだ。ハルさんの「退屈さ」をフリにして、最後に予想外の展開を持ってくる。完璧な構成のはずだった。
数日後、健太は完成したネタを携え、再びハルさんの前に立った。
「聞いてください、ハルさん!渾身の新作です!」
健太は、ハルさんの日常を模倣した、技巧的で複雑なコントを演じた。しかし、演じ終えた時、健太の目に映ったのは、ハルさんの困惑した表情と、彼女から立ち上る、か細く、弱々しい、灰色のオーラだけだった。それは、無理に笑顔を作ろうとする「困惑の笑い」だった。
スコアは、限りなくゼロに近い。健太は膝から崩れ落ちた。自分の才能の無さ、能力の無意味さを突きつけられ、目の前が真っ暗になった。
第三章 見えないオーラ
数日後、ハルさんが軽い肺炎で入院したという知らせが届いた。健太は、果物かごを手に、寂寥感の漂う病院へと向かった。ガラス越しに見えるハルさんは、いつもよりずっと小さく、弱々しく見えた。
「ハルさん…」
ベッドの脇に座ると、ハルさんはゆっくりと目を開け、健太を見てかすかに微笑んだ。その笑顔が、健太の胸を締め付けた。何か、何か彼女を元気づけなければ。そうだ、笑わせるんだ。俺は、お笑い芸人なんだから。
「ハルさん、聞いてください!俺、また新しいネタを…」
健太は必死だった。病室という不謹慎な舞台で、彼は汗だくになりながら、これまで作ったネタを片っ端から披露した。しかし、彼の目には、ハルさんから何のオーラも見えなかった。黄金どころか、灰色すら浮かんでこない。ただ、静かな病室に、自分の空回りする声だけが響いていた。
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。もうダメだ。俺には、才能がない。人を笑わせる資格なんてない。うなだれた健太の脳裏に、ふと、遠い記憶が蘇った。
それは、まだコンビを組んだばかりの頃。オーディションに落ち続け、金もなく、二人で一杯の牛丼を分け合って食べた夜のことだ。相方の雄二が、真剣な顔で言った。
「なあ健太。俺たち、いつか武道館で単独ライブやったらさ、客席に向かって牛丼、降らせようぜ。アホみたいに」
「なんだよそれ、頭おかしいだろ!紅しょうがもか?」
「当たり前だろ!七味もだ!」
腹を抱えて笑った。あの時の雄二の顔。薄暗い牛丼屋の、オレンジ色の照明。湯気の向こうで、涙を流しながら笑っていた。
健太は、その思い出話を、まるで独り言のように、ポツリ、ポツリとハルさんに語り始めた。オチもなければ、面白い展開もない。ただの、貧乏で、馬鹿な若者たちの、くだらない夢物語。
語り終えた時、健太はハルさんの顔を見た。彼女は、静かに目を閉じ、穏やかな表情で聞いていた。そして、薄く目を開けると、本当に楽しそうに、小さく息を漏らした。
「ふふっ…あんたも、ずいぶんと馬鹿な子だねえ」
その瞬間、健太は雷に打たれたような衝撃を受けた。
ハルさんから、オーラは一切出ていない。彼の能力は、何も捉えていなかった。
しかし。
病室の冷たい空気は、確かに温かいものに変わっていた。ハルさんのしわくちゃの顔には、心からの慈愛に満ちた笑みが浮かんでいる。そして何より、健太自身の心の中に、じんわりと、陽だまりのような温かさが広がっていくのを感じたのだ。
健太は悟った。
彼の能力で見えていた色とりどりのオーラは、笑いの本質ではなかった。それは、感情が爆発する際に発生する、表層的なエネルギーの飛沫に過ぎなかったのだ。嘲笑や爆笑はエネルギーが強いから、派手な色で見える。
ハルさんが生み出していた黄金の光は、「笑い」そのものではなく、その手前にある「誰かの幸せを願う気持ち」や「共感する心」が可視化されたものだったのかもしれない。
そして、本当に心と心が通じ合った時に生まれる、最も深く、静かで、温かい笑い。それは、どんな能力でも測定できない、「見えないオーラ」なのだと。
健太は、自分の見ていた「スコア」が、いかに無意味なものだったかを、ようやく理解した。彼は、最も大切なものを見ようとせず、カラフルな幻ばかりを追いかけていたのだ。
第四章 牛丼とカーテンコール
退院したハルさんを、健太は小さな定食屋に招待した。そこには、健太が頭を下げて呼び出した、元相方の雄二の姿もあった。
「雄二、ごめん」
健太は、牛丼の丼を前に、深々と頭を下げた。「俺、ずっと間違ってた。客の顔じゃなくて、自分の能力が見せる幻ばかり見てた。お前と一緒に笑ってた、あの頃のこと、忘れてた」
雄二は、黙って牛丼をかき込んでいたが、やがて顔を上げ、ぶっきらぼうに言った。
「…今さら気づいたのかよ、バカ」
その目元は、少しだけ赤かった。
それから数週間後、健太は都心から離れた、小さなライブハウスの舞台に立っていた。客席は、まばらだ。最前列に、ハルさんと雄二が座っている。
健太は、もう自分の能力を意識的に使わなかった。色とりどりのオーラがちらつくこともあったが、彼はそれを無視し、ただ客席の、一人ひとりの顔を見つめた。ざわつく心を落ち着かせ、彼はマイクを握りしめた。
「どうも、佐藤健太です。今日は、俺の、昔の話をさせてください」
健太は語り始めた。売れない芸人が、相方と交わした、牛丼の約束の話を。不器用で、たどたどしい語り口だった。大きな笑いは起きない。しかし、客席のあちこちから、クスクスという温かい笑い声が聞こえてきた。
それは、水色のシャボン玉でも、紫の稲妻でもなかった。健太の目には、もう何も見えない。ただ、そこにいる人々の優しい眼差しと、頷きながら聞いているハルさんの穏やかな微笑み、そして、少しだけ誇らしそうに腕を組む雄二の姿だけが、はっきりと見えた。
舞台袖に下がると、雄二が「…悪くないじゃん」と、背中を叩いた。健太の胸に、これまで感じたことのない、静かで、しかし確かな充足感が満ちていく。スコアボードを振り切る黄金の光よりも、ずっと尊い何かが、確かにこの空間に生まれた。数値化できない、本物の「繋がり」が。
健太は心の中で呟いた。
真のコメディアンとは、人々を爆笑させる人間ではないのかもしれない。誰かの心に、ふっと小さな灯をともせる人間。凍えた心を、ほんの少しだけ温めてあげられる人間。それこそが、本物のコメディアンなのかもしれないな。
ライブが終わり、三人は夜の街を歩いていた。
「腹、減ったな」と雄二が言った。
「そうじゃのう」とハルさんが笑った。
「じゃあ、行きますか」と健太が応えた。
三人が向かう先は、もう決まっていた。
煌々と光る看板の、牛丼屋。彼の芸人人生がこれからどうなるかは、まだ分からない。でも、今夜の牛丼は、きっと世界で一番美味しいだろう。健太の心は、カラフルな憂鬱から解放され、かつてないほど晴れやかに澄み渡っていた。