忘れ路の巡礼者

忘れ路の巡礼者

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第一章 欠片の道標

気がつくと、カイは苔むした倒木に腰掛けていた。

ひんやりとした朝霧が肌を撫で、名も知らぬ鳥の声が遠くで響く。ここはどこだろう。なぜ自分はここにいるのだろう。頭の中にも、同じように濃い霧がかかっている。思い出そうとすればするほど、思考はぬかるみに足を取られ、沈んでいく。

確かなのは、右手で握りしめている一つの石の感触だけだった。ひんやりとして、驚くほど滑らかな黒い小石。それを握ると、理由のわからない温かい感情が胸に広がる。「昨日の温もり」。言葉にならない記憶の残滓が、それだけを告げていた。

カイは立ち上がり、おもむろに腰に下げた革袋の口を開いた。ずしりと重いその袋の中には、彼自身にも由来の分からないガラクタが詰まっている。乾いた木の葉、ざらついた砂岩の欠片、鳥の羽根、色褪せた青い布切れ。それら一つ一つに、この黒い小石と同じように、断片的な感情やイメージがこびりついている。ざらついた砂岩は「焦燥」、乾いた木の葉は「静かな悲しみ」、鳥の羽根は「束の間の解放感」。これが彼の地図であり、日記であり、唯一の道標だった。

彼は一歩、前へ踏み出した。

その瞬間、先ほどまで座っていた倒木の光景が、陽炎のように揺らぎ、急速に色褪せていく。苔の湿った匂いも、鳥の声も、霧の冷たさも、まるで夢から覚めるように現実感を失っていく。これが彼の呪いであり、彼の日常だった。一歩進むごとに、一歩前の記憶が世界から剥がれ落ちていくのだ。

だから、彼は記録する。忘却の濁流に抗うように、心に引っかかった風景や感情を、足元に転がるモノに託す。森で拾った奇妙な形の木の実。「孤独という名の安らぎ」と名付け、袋に仕舞う。そうして、彼の袋は記憶の重みで少しずつ膨らんでいく。

「北へ」。

彼の内なる声が、それだけを命じている。なぜ北なのかは分からない。北の果てに何があるのかも知らない。だが、そこに行かなければならないという強烈な衝動だけが、忘却の霧の中で唯一、決して揺らがない羅針盤だった。

すれ違う旅人が、親切に街の場所を教えてくれることがあった。カイは礼を言い、笑顔を交わす。しかし、角を曲がり、相手の姿が見えなくなった瞬間には、もうその顔も声も、交わした言葉も思い出せない。ただ、手のひらに残ったパンの温かさだけが、「親切」という名の記憶として、道端の白い小石に託される。

孤独だった。世界と自分の間に、常に一枚、薄いガラスがあるような感覚。触れることはできても、その温もりを留めておくことはできない。カイの冒険とは、果てしない喪失の連続だった。重くなっていく袋とは裏腹に、彼の心はすり減り、軽くなっていくようだった。それでも彼は歩き続ける。いつか、この袋が満たされた時、失った「何か」を取り戻せると、漠然と信じて。

第二章 ささやく影

川沿いの道を北へ向かっていたある日の午後、カイは一人の女性に出会った。亜麻色の髪を風になびかせ、旅人らしい丈夫な服を着た彼女は、カイから少し距離を置いた場所で、ただじっと彼を見ていた。

「こんにちは」

彼女の声は、澄んだ泉の水のように穏やかだった。カイは警戒しながらも頷いた。どうせすぐに忘れてしまうのだから、言葉を交わす意味などない。そう思った。

「あなたのこと、見ていました」と彼女は続けた。「あなたは、歩きながら何かを拾っては、袋に仕舞っている。まるで、景色を少しずつ集めているみたいに」

カイは驚いて足を止めた。自分のこの奇妙な行動を、誰かに指摘されたのは初めてだった。彼は答えに窮し、ただ袋の口を固く握った。

「もし、よかったら。少しだけ、ご一緒してもいいですか」彼女はエナと名乗った。「あなたの旅が、どこへ向かうのか、興味があるんです。邪魔はしません。ただ、時々、後ろから声をかけるだけ」

その日から、奇妙な二人旅が始まった。エナは約束通り、カイの数歩後ろをついて歩いた。そして、カイが一つの風景を忘れ去る寸前に、ささやくように語りかけるのだ。

「さっき渡った橋、少し軋む音がしたね。でも、下を流れる川の水が光を反射して、宝石みたいに綺麗だった」

「あの丘の上で食べた木の実、すごく酸っぱかったけど、空の青さに目が覚めるようだった」

カイは戸惑った。忘却は、彼にとって当たり前の生理現象だった。しかし、エナの言葉は、消えゆく記憶の輪郭を淡く縁取り、その余韻をほんの少しだけ長引かせてくれるようだった。彼は彼女と直接言葉を交わすことは少なかったが、彼女の声が紡ぐ「失われた今」を聞くのが、いつしか慰めになっていた。

ある夜、焚き火を囲んでいる時、エナが尋ねた。

「あなたのその袋の中身、見せてもらえませんか」

カイは一瞬ためらったが、静かに袋を逆さにした。焚き火の光を受けて、様々な形の石や葉、木の実が地面に転がる。それは、傍目にはただのガラクタの山にしか見えないだろう。

「これは?」エナが、ひときゆわ白く、丸い石を指差した。

「……親切」カイは呟いた。「誰かがくれた、パンの温かさ」

「じゃあ、この歪んだ枝は?」

「悔しさ。ぬかるみに足を取られて、転んだ時の」

エナは一つ一つ、カイの言葉に耳を傾けた。彼女は決して笑ったり、馬鹿にしたりしなかった。その眼差しは、まるで失われた物語の断片を慈しむように、どこまでも優しかった。カイは、ガラスの向こう側から、誰かがそっと手を差し伸べてくれているような感覚を覚えた。生まれて初めて、自分の孤独が、誰かと分かち合えた気がした。

「あなたの失くしたものを、私が見ているから」

いつかエナが言った言葉の意味が、少しだけ分かったような気がした。この旅は、もはや一人ではない。カイの心に、これまで感じたことのない微かな光が灯り始めていた。

第三章 泉の真実

幾多の季節が過ぎ、カイの袋ははちきれんばかりに膨らんでいた。そしてついに、二人は旅の目的地である「始原の泉」にたどり着いた。雪を頂いた山々の麓、古びた石の祠の奥に、その泉は静かに水を湛えていた。水面は鏡のように空を映し、不思議な静寂が辺りを支配している。伝説によれば、この水を一口飲めば、失われた全ての記憶が奔流のように蘇るという。

これですべてが終わる。この果てしない喪失の旅が。カイの胸は高鳴っていた。彼は震える手で水差しを泉に浸し、それを口元へ運ぼうとした。

その瞬間、強い力で腕を掴まれた。

「待って」

エナだった。彼女は、これまで見たこともないような、悲痛な表情でカイを見つめていた。

「本当に、それを望むの?全てを思い出すことを」

カイは訝しんだ。「何を言うんだ、エナ。僕はそのために旅をしてきたんだ。君も知っているだろう」

「いいえ」エナは首を横に振った。その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。「あなたは、思い出すために旅をしていたんじゃない。忘れるために、旅を始めたのよ」

カイの頭が混乱する。何を言っているんだ、この人は。

「始原の泉は、記憶を取り戻す場所じゃない」エナの声は、嗚咽に震えていた。「ここは、最後の記憶さえも完全に消し去り、人を空っぽにしてしまう……忘却の泉なのよ」

そして、エナは信じがたい真実を語り始めた。

彼女は、カイの妹だった。

数年前、彼らが暮らしていた山間の村を、大規模な土砂崩れが襲った。濁流と岩塊が、一瞬にして全てを飲み込んだ。カイは、目の前で両親が呑まれていくのを見た。そして、彼を庇うように覆いかぶさった幼い妹の、小さな背中も。

あまりに凄惨な光景。耐え難い絶望と罪悪感。その衝撃に、カイの心は悲鳴を上げた。そして、自らを守るために、奇妙な能力を発現させた。――記憶を捨てる能力。彼は、あの日の記憶を心の奥底に封じ込め、それを思い出すきっかけとなる故郷の全てから逃げるように、あてもなく歩き始めた。それが、この「冒険」の始まりだった。

「私は……奇跡的に助かったの。でも、やっとの思いであなたを見つけた時、あなたはもう私のことを覚えていなかった。ただ、『北へ』と呟いて、空ろな目で歩き続けていた。声をかけられなかった。あなたの心が、これ以上の苦しみに耐えられないと分かっていたから」

エナは、影のように兄を見守り、彼の「逃避行」に付き添っていたのだ。彼女が語り聞かせていたのは、カイが忘れた「今」だけではなかった。それは、彼が捨てた「過去」の、幸せだった頃の村の風景や、家族との会話の断片でもあった。少しずつ、思い出のかけらを彼に返すように。いつか彼が、真実を受け止められる日が来ることを願って。

カイはその場に膝から崩れ落ちた。

冒険ではなかった。これは、ただの逃避だった。彼の旅は、希望へ向かう道ではなく、虚無へと続く道だったのだ。足元で、泉の水が静かに揺らめいている。それはまるで、全てを忘れて楽になれと、甘く誘っているかのようだった。

第四章 新しい袋

絶望が、カイの全身を叩きのめした。記憶とは、自分とは、何だったのか。積み上げてきたはずの旅の全てが、意味のない砂の城のように崩れていく。彼は泉の水面に映る自分の顔を見た。そこには、ただ途方に暮れた、空っぽの男がいるだけだった。もう、何もかも終わりにしたい。この泉の水を飲み干し、苦しみも、悲しみも、そして罪悪感さえも全て手放してしまいたい。

その時、彼の視界の端に、革袋が映った。旅の始まりからずっと、彼の腰で揺れ続けていた、記憶の欠片が詰まった袋。

彼は、まるで何かに導かれるように、その袋に手を伸ばした。中から一つ、石を取り出す。初めてエナに声をかけられた川辺で拾った、平たい石。「戸惑い」と名付けた記憶。次に、歪んだ枝を取り出す。エナと焚き火を囲んだ夜に拾った、「安らぎ」という記憶。そして、色とりどりの落ち葉、鳥の羽根、木の実。

それらは、逃避の道程で生まれたものではあった。しかし、それらは紛れもなく、彼が「生きてきた」証だった。エナと出会い、孤独を分かち合い、微かな光を感じた日々の記録だった。これら全てを、虚無の中に消し去ってしまっていいのだろうか。

カイはゆっくりと立ち上がった。そして、手に持っていた水差しを、泉の脇の地面にそっと置いた。彼は水を飲まないことを選んだのだ。

彼は、涙で顔を濡らすエナに向き直った。

「君のことも……きっと、明日には忘れてしまうだろう。この泉のことも、ここで話したことも、全部」

その言葉に、エナの肩が小さく震えた。

「でも」とカイは続けた。彼は袋の中から、旅の間ずっと大切に磨き続けてきた、一番綺麗で、光沢のある瑪瑙の石を取り出した。

「この石は、『君といた時間』だ。僕がこの温もりを忘れても、この石が覚えている。そして、君が僕に、また思い出させてくれる。そうだろう?」

カイは、その石をエナの手に優しく握らせた。それは、過去の全てを受け入れた証であり、未来への契約だった。彼はもう、失われた記憶を取り戻そうとは思わない。全てを忘れ去ろうとも思わない。このどうしようもない忘却と共に、それでも「今」を拾い集め、生きていくことを決めたのだ。それが、彼の見つけ出した、新しい冒険の意味だった。

カイとエナは、静かに泉を後にした。行き先は決まっていない。これからどこへ向かうのか、二人とも知らなかった。

カイの記憶は、相変わらず一歩ごとに世界から剥がれ落ちていくだろう。明日になれば、彼はまた見知らぬ場所で目を覚まし、隣にいる女性が誰なのか分からずに戸惑うのかもしれない。

しかし、彼の隣には、彼の物語を記憶しているエナがいる。そして彼の腰には、思い出で満たされた古い袋と、これから満たされるべき、新しい空の袋が一つ、並んで揺れていた。

彼の旅は終わらない。だが、それはもはや逃避のための放浪ではなかった。失われ続ける世界の中で、それでも確かな絆を紡いでいくための、希望に満ちた、果てしない巡礼が始まったのだ。

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