第一章 悪夢の残響
指先が琥珀に触れた瞬間、俺の皮膚がじゅっと音を立てた気がした。
熱い。
いや、違う。
俺の肉体が、数千年前の業火に焼かれているのだ。
視界が赤黒く塗り潰される。
湿った洞窟の岩肌は消え失せ、代わりに崩れ落ちる巨塔の残骸と、逃げ惑う人々の影が網膜に焼き付く。
焦げた肉の臭い。
赤子の泣き声が、轟音にかき消されてブツリと途切れる。
「あ、あぁ……。空が、落ちて……くる……」
喉が勝手に痙攣し、知らない男の声で絶叫していた。
肺の中が煤(すす)と灰で満たされる。
この石を握りしめて死んだ男の、最期の絶望。
それが濁流となって俺の精神(なか)へ雪崩れ込んでくる。
「エリウス! 息をしろ、エリウス!」
頬を強烈に張られ、俺は現実に弾き出された。
咳き込むと、胃液と共に恐怖がこみ上げる。
目の前には、引き攣った顔のガドがいた。
その瞳は、俺の中に潜む「何か」を見て怯えている。
「……はぁ、はぁ。すまない、ガド」
「お前の目が、一瞬、金色に染まってたぞ。……死人の目だ」
ガドの声が震えている。
俺は手の中の琥珀――「記憶の結晶」をポケットに押し込んだ。
心臓が早鐘を打っているが、それは俺の鼓動なのか、それとも石に残った死者の未練なのか、判別がつかない。
「行こう。この奥だ」
俺は震える膝を叩いた。
境界が曖昧になっていく。
俺という個が、死者たちの記憶に塗り潰される前に、終わらせなければならない。
第二章 歪む時間
一歩踏み出すたびに、世界の法則が狂っていく。
足元の石畳が、泥のように波打ち、また硬化する。
壁の松明から伸びる影が、勝手に動き出し、俺たちの首を絞めようと蠢(うごめ)く。
「おい、冗談だろ……」
ガドが呻き声を上げ、自身の右腕を押さえた。
彼の腕を覆う革の小手が、見る見るうちに朽ち果て、ボロボロの塵となって剥がれ落ちる。
次の瞬間、それはピカピカの新品へと戻った。
「時間が狂ってる。俺の体も、巻き戻ったり進んだりしてやがるのか?」
「『理(ことわり)』が崩壊しかけているんだ。過去と現在、未来がここで衝突している」
俺の視界にも、ノイズが走る。
廊下の向こうから、半透明の兵士たちが隊列を組んで歩いてくる。
かつてここで戦い、敗れ去った者たちの残留思念。
彼らは俺たちの体をすり抜け、無言のまま背後の闇へと消えていく。
すれ違いざま、冷たい指で心臓を撫でられたような寒気が走った。
『……引き返せ』
脳髄に直接、重苦しい響きが突き刺さる。
俺が追い求めてきた、あの伝説の冒険者の声だ。
『真実を知れば、お前は二度と安寧(やすらぎ)には戻れない』
「お節介な幽霊だ」
俺はこめかみの血管が切れそうなほどの頭痛を堪え、吐き捨てた。
「あんたが何に絶望し、何を封印したのか。それを見届けるまで、俺の旅は終わらない」
「誰と話してるんだ? エリウス、お前マジでやべぇぞ」
ガドが俺の肩を掴む。その手は冷たい汗で濡れていた。
彼は剣の柄に手をかけているが、斬るべき敵がいないことに苛立っている。
「急ぐぞ、ガド。ここに長居すれば、俺たちもあの亡霊の列に加わることになる」
俺たちは平衡感覚を失いそうな回廊を駆けた。
空間がねじれ、上下左右が逆転する吐き気をねじ伏せ、最奥の巨大な石扉へと体を叩きつける。
第三章 魂の牢獄
扉が開くと、そこには「全」があった。
無限に広がる星の海のような空間。
だが、その星の一つ一つは、この世界で生きた誰かの人生そのものだ。
無数の記憶の光が、螺旋を描いて渦巻いている。
その中心に、光で織られた人影が立っていた。
濃密な魔力の圧力が、肌をチリチリと焼く。
『……よくぞ、この“円環の最果て”へ辿り着いた』
人影が顔を上げる。
夢で何度も見た、あの冒険者の顔だ。
だが、その瞳には感情がない。
まるで磨き上げられた鏡のように、虚無だけを映している。
「あんたが、世界の守り人か」
『私は観測者であり、牢番だ』
男が腕を振るうと、周囲の光が形を変えた。
都市が炎に包まれ、大地が裂け、全てが無に帰す光景。
そしてまた、塵の中から芽が吹き、文明が興る。
そのサイクルが、吐き気がするほどの速度で繰り返される。
「なんだよ、これ……」
ガドが後ずさり、へたり込む。
圧倒的な滅びの奔流に、魂が圧し潰されそうになる。
『世界は、一定の繁栄を迎えるたびに“理”の限界を迎え、崩落する。私はその周期を管理し、箱庭を作り直すための楔(くさび)を手に入れた』
男の掌の上に、七色の光を放つ結晶が現れる。
それはあまりにも美しく、見る者の理性を溶かす魔力を秘めていた。
『受け取れ、継承者よ。これをその身に宿せば、お前は“個”という小さな器を捨て、世界の理そのものとなれる』
男の声が、甘い蜜のように脳を浸していく。
『悲しみも、喪失も、肉体の痛みもない。全ての時間を統べ、愛した者と永遠に微睡(まどろ)むことができるのだ』
目の前に、死んだはずの母の笑顔が浮かぶ。
かつて救えなかった仲間の声が聞こえる。
そうだ。これを受け取れば、もう誰も失わなくて済む。
俺は全能の神となり、この悲劇的な世界を、ただ安らかに見守る存在になれるのだ。
「エリウス……?」
ガドの悲痛な叫びが、遠く聞こえる。
俺の手は、魅入られたように結晶へと伸びていた。
指先が光に触れ、皮膚が透明な硝子へと変質し始める。
あぁ、なんて心地よい冷たさだ。
苦悩に満ちた俺という存在が溶けて消えていく――。
「ふざけんな! 戻ってこい、馬鹿野郎!!」
ガキンッ!
硬い感触が横っ面を襲った。
ガドが剣の柄で、俺の顔面を全力で殴りつけたのだ。
第四章 螺旋を砕く
激痛。
口の中に鉄錆の味が広がる。
その鮮烈な痛みが、俺を甘美な夢から引きずり出した。
「……ッ!」
俺はよろめき、伸びかけた自分の手を凝視する。
透明になりかけていた指先に、赤黒い血が巡り始める。
俺は「人間」に戻った。
『愚かな。久遠の安らぎを拒むか』
「安らぎ、だと……?」
俺は血の混じった唾を吐き捨て、守り人を睨み据えた。
「ただ同じ悲劇を繰り返し、それを眺めているだけの永遠なんて、地獄以下の牢獄だ!」
俺の怒りに呼応するように、ポケットの中の琥珀が熱を帯びる。
これは、諦めきれずに死んでいった者たちの「悔恨」だ。
彼らは安らぎなんて求めていなかった。
明日を掴もうとして、泥に塗れて足掻いたんだ。
「俺たちは、神様の箱庭で飼われるつもりはない。どんなに無様でも、自分の足で、未知の明日へ進む!」
俺は琥珀を取り出し、目の前に浮かぶ「管理者の楔」へ向かって振りかぶった。
全身全霊の力を込め、叩きつける。
「その円環を、断ち切る!!」
パァンッ!!
世界が割れる音がした。
完全無欠に見えた結晶に亀裂が走り、そこから目も眩むような奔流が噴き出す。
管理されていた記憶たちが、鎖を解かれて暴走を始めたのだ。
『貴様! 理を壊せば、世界は混沌に飲まれるぞ!』
「上等だ! 決まりきった破滅より、混沌とした希望の方がマシだ!」
空間そのものが悲鳴を上げ、足場が崩落していく。
天井が剥がれ落ち、その向こうに、見たこともない色の空が覗いていた。
「走れ、ガド! ここが崩れるぞ!」
「まったく、とんでもねぇ野郎だ! 惚れ直したぜ!」
ガドが血相を変えて走り出す。
その背中を追いながら、俺たちは崩壊する「昨日までの世界」を駆け抜けた。
轟音と共に、光の牢獄が粉砕される。
背後から迫る虚無の波を振り切り、俺たちは瓦礫の隙間から差す、強烈な光の中へと身を投げた。
振り返りはしない。
頭の中に響いていた死者たちの嘆きは、もう聞こえない。
今、俺の鼓膜を震わせているのは、荒々しい風の音と、自身の激しい心臓の音だけだ。
それは、俺たちが生きているという確かな証。
光の向こうに何が待っているのか、それは誰にも分からない。
だが、それこそが、俺たちが求めていた「未来」だ。
俺たちは迷うことなく、真っ白な地平へと飛び込んだ。