空の羅針盤

空の羅針盤

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カイが住む村は、切り立った崖に囲まれた盆地の底にあった。空はいつも、手のひらで覆えるほどに狭い。村の誰もが、この窮屈な世界が全てだと思い込んでいた。だが、カイだけは違った。彼の宝物は、伝説の地図職人だった祖父が遺した、一枚の未完の地図と、奇妙な真鍮の羅針盤だった。

地図には、村の周辺と、誰も近づかない「風切り谷」の入り口までが几帳に描かれていた。その先は、空白。ただ一言、『雲海の向こうへ』とだけ記されている。そして、羅針盤の針は決して北を指さず、いつも風切り谷の方角を向いて、微かに震えているのだった。

「あそこへ行ってはいけない。風に魂を喰われるぞ」
村の長老は、しわがれた声でカイを諭した。しかし、カイの耳には届かない。夜ごと、彼は屋根に上り、崖の向こうから流れてくる雲を見つめた。あの雲の上には、どんな世界が広がっているのだろう。祖父が見ようとした景色を、この目で見たい。その想いは、日に日に熱を帯びていった。

ある満月の夜、カイは決意した。小さな革袋に干し肉と水筒、そして未完の地図と羅針盤を詰め込む。夜陰に紛れて村を抜け出し、彼は風切り谷へと続く険しい道へ足を踏み入れた。背後で心配そうに瞬く村の灯りを一度だけ振り返り、彼は二度と戻らない覚悟で前を向いた。

風切り谷は、その名の通り、絶え間なく風が吹き荒れる場所だった。まるで意思を持つ獣のように、風は岩を削り、甲高い咆哮を上げてカイの体を叩く。一歩踏み外せば奈落の底だ。カイは何度も岩陰にうずくまり、心臓の早鐘をやり過ごした。帰りたい。その弱音が喉まで出かかった時、革袋の中で羅針盤がカチリと音を立てた。

手に取ると、針がこれまで以上に激しく震え、谷の奥深くを指している。祖父もこの風の中、この羅針盤を握りしめていたのだろうか。そう思うと、不思議と力が湧いてきた。カイは風の唸りの中に、微かな旋律のようなものを聞き取ろうと努めた。風を読むのだ。祖父が地図の余白に書き残した言葉を思い出す。

道なき道を進むうち、彼は谷の底で奇妙な光景を目にした。無数の風受けの石が、まるで古代の遺跡のように立ち並んでいる。風が石の間を通り抜けるたび、心地よい和音が響き渡っていた。ここが、風の旋律の源泉か。羅針盤は、その遺跡の中心にある巨大な滝を指していた。

滝壺の轟音に耳を塞ぎながら近づくと、流れ落ちる水のカーテンの裏側に、ぽっかりと口を開けた洞窟があった。吸い込まれるように中へ入ると、風の音は嘘のように止み、しんとした静寂が彼を包んだ。湿った壁を伝い、羅針盤が導くままに奥へと進む。

洞窟の最深部は、広間になっていた。そして、カイは息を呑んだ。壁一面に、色鮮やかな壁画が描かれていたのだ。それは、雲の上に浮かぶ壮麗な都市の絵だった。翼を持つ人々が、地上へと降り立ち、この地に文明を築く物語。彼が追い求めてきた『雲海の向こう』は、目指すべき場所ではなく、自分たちのルーツ、始まりの場所だったのだ。

壁画の最後、ひときわ大きく描かれた人物の足元に、見慣れた文字が刻まれているのを見つけた。祖父の筆跡だった。

『羅針盤が指し示すは、目的地にあらず。我らが心引かれる故郷の調べ。この地図の完成を、我が血を継ぐ者へ託す』

カイは全てを理解した。祖父は雲海へ行こうとしたのではない。その存在を確かめ、自分たちの起源を証明したかったのだ。この羅針盤は、雲海から発せられる微弱なエネルギー――故郷の調べ――に引かれていただけだった。涙が頬を伝った。祖父の冒険は、孤独な挑戦ではなかった。遥かな時を超え、自分へと繋がる壮大な旅だったのだ。

カイは壁画の前に膝をつき、未完の地図を広げた。そして、空白だった部分に、震える手で描き込んでいく。風切り谷の風受けの石を、滝の裏の洞窟を、そして壁画に描かれた雲上の故郷を。

彼が最後の線を引いた瞬間、洞窟全体が淡い光に包まれた。壁画の中心が輝きを放ち、目の前の空間が陽炎のように揺らめく。やがて、その向こうに信じられない光景が広がった。どこまでも続く雲の海。その上に浮かぶ、陽光を浴びて白く輝く島々。祖父が、そしてカイ自身が追い求めた世界の真の姿が、そこにあった。

カイは、その光の扉をくぐることはしなかった。彼の冒負は、未知の世界を征服することではない。失われた繋がりを見つけ、それを地図という形で未来へ残すことだった。彼は完成した地図を大切に革袋へしまうと、静かに踵を返した。

村へ戻ったカイの顔つきは、旅立つ前とはまるで違っていた。その瞳には、狭い空ではなく、雲海の広がりが映っている。彼の冒険は終わった。しかし、その手の中にある完成された一枚の地図は、これから始まるであろう、二つの世界を繋ぐ新たな物語の、確かな第一歩となるのだった。

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