リオンの世界は、インクの匂いと羊皮紙のざらついた感触でできていた。辺境の村で地図職人として生きる彼にとって、冒険とは書物の中にのみ存在する、遠い憧憬だった。だが、彼の心の奥底には、いつも風の音が響いていた。それは、十年前に「空の果て」を目指して旅立ち、二度と戻らなかった冒険家の父が遺した音だった。
父の十七回忌を終えた夜、リオンは屋根裏で古びた木箱を見つけた。中に入っていたのは、奇妙な意匠が施された真鍮のコンパスと、一枚の不完全な地図。羊皮紙には、インクのかすれた文字で『アトラスの天庭へ』とだけ記されていた。村の誰もが「呪われた空域」と恐れる、積乱雲の壁の向こう側。父が最後に目指した場所だ。
「無謀だ。お前の親父さんと同じことになるぞ」
長老のしわがれた声が、リオンの決意を揺さぶる。だが、コンパスの針が北でも南でもなく、地図の中心を指して微かに震えるのを見た時、彼の迷いは消えた。父はなぜ戻らなかったのか。その答えは、地図の空白を埋めることでしか見つからない。リオンは父が遺した小型の飛行艇<シルフィード号>を修理し、夜明けと共に蒼穹へと飛び立った。
眼下に広がるのは、どこまでも続く雲の海。リオンは父の日誌を頼りに、危険な空域を進んだ。巨大な鳥の影が翼をかすめ、稲妻が迷路のように空を裂く「鳴神の海峡」を抜ける。日誌に綴られていたのは、壮大な冒険譚ではなかった。故郷に残した息子への想い、孤独との戦い、そして未知への純粋な探求心。ページをめくるたび、伝説の冒険家という偶像は剥がれ落ち、臆病で、それでも前に進もうとした一人の男の姿が浮かび上がってくる。リオンは、初めて父の背中に触れたような気がした。
幾多の困難を乗り越え、ついにリオンは目的地である巨大な積乱雲の壁「世界の帳(とばり)」の前にたどり着く。だが、そこには突破口など見当たらず、日誌の記述も『これ以上は進めない。帰ろう、リオンの待つ我が家へ』という絶望の言葉で終わっていた。父ですら、諦めたのか。リオンが操縦桿を握る手に力を失いかけた、その時だった。
懐のコンパスが、まるで心臓のように熱く脈打ち始めた。その針が示す光の筋が、分厚い雲の壁を貫き、細く頼りない道筋を照らし出す。父が知らなかった道だ。リオンは一瞬ためらったが、すぐにシルフィード号の機首を光に向けた。轟音と激しい揺れが止み、ふっと機体が静寂に包まれる。雲を抜けた先には、信じがたい光景が広がっていた。
巨大な大樹の蔓に吊るされるようにして、いくつもの島が宙に浮いている。逆さまに流れる滝の水しぶきが虹を描き、光る苔が地面を宝石のように彩っていた。ここが『アトラスの天庭』。あまりの美しさに息を呑むリオンだったが、すぐに異変に気づく。風がない。鳥の声も、虫の羽音すら聞こえない。あまりにも完璧で、死んだように静かな世界。
庭園の中心、ひときわ大きな島の祭壇に、人影があった。駆け寄ったリオンの目に映ったのは、巨大な水晶の中で、眠るように目を閉じた父の姿だった。その足元に、最後の日記が開かれている。震える手でそれを拾い上げ、リオンは戦慄の真実を知る。
『この庭園は、訪れた者の最も大切な「時間」を糧に、その美しさを保っている。私は気づいてしまった。この楽園に魅入られるほどに、故郷の記憶が、リオンとの思い出が薄れていくことに。息子よ、お前を忘れるくらいなら、私はここで永遠の石になろう。だから、決してここへ来てはならない』
美しい庭園は、記憶を喰らう甘美な罠だったのだ。
父の深い愛情に、リオンの頬を涙が伝った。この静謐な美しさは、父から奪った時間で出来ていたのか。彼は水晶にそっと手を触れる。ひんやりとした感触の下に、確かに父の温もりを感じた。選択の余地などなかった。
リオンは懐からあの真鍮のコンパスを取り出し、水晶に包まれた父の胸の上に置いた。
「父さん、俺の冒険は、あなたに会うためにあったんだ」
コンパスは眩い光を放ち始めた。リオンがこの空を旅してきた時間、恐怖も、喜びも、父を想った全ての瞬間が、光の奔流となって水晶に注ぎ込まれる。ミシリ、と硬質な音を立てて水晶に亀裂が走り、同時に庭園全体が悲鳴を上げるように崩壊を始めた。
逆さの滝は流れを止め、光る苔は色を失っていく。リオンは、ゆっくりと目を開けた父の手を強く握りしめ、崩れゆく島からシルフィード号へと走った。
故郷の村に戻った父は、冒険家だった頃の記憶のほとんどを失っていた。だが、一つだけ。目の前に立つ息子の名前と、その温もりだけは、固く握りしめて離さなかった。
リオンはもう、羊皮紙に空想の地図を描くことはない。彼の机の上には、真っ白な新しい地図が広げられている。それは、父と共に歩む、明日という名のまだ見ぬ世界を描くための地図だった。
天空の地図と忘れられた庭
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