天空の羅針盤と浮島の心臓

天空の羅針盤と浮島の心臓

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古物商の埃っぽい屋根裏部屋で、僕、レオが見つけたのは一つの奇妙な羅針盤だった。祖父の遺品に紛れていたそれは、北を指さず、ただひたすらに空の一点を指し示して微かに震え続けていた。そして、その羅針盤に呼応するかのように、羊皮紙の古地図がインクの染みを浮かび上がらせたのだ。「天空の浮島、アヴァロンの心臓」と。

僕の心臓が、羅針盤よりも激しく脈打った。臆病で、本の中の冒険にしか胸をときめかせたことのなかった僕が、本物の冒険への扉を見つけてしまったのだ。

「馬鹿げてる。雲の上に島なんてあるわけないでしょ」

飛行船乗りが集う酒場で、僕の話を聞いたサラは、グラスの蒸留酒をあおりながら鼻で笑った。彼女は、オンボロだが頑丈な飛行船『イカロス号』を駆る、この空域で最高のパイロットだ。日に焼けた肌と、オイルの匂いが染みついた革ジャケットがよく似合う。

「でも、この羅針盤は確かに空を指しているんです!それに、アヴァロンの心臓は莫大な富を生むと…」
「富、ねぇ」サラの目がキラリと光った。彼女が多額の借金を抱えているのは有名な話だった。「いいわ、乗ってあげる。そのおとぎ話に付き合って、一攫千金の夢でも見させてもらうわ。ただし、ガソリン代と私の腕前、高くつくわよ」

こうして、僕たちの冒聞は始まった。灰色の雲が渦巻く下界を離れ、『イカロス号』は羅針盤が指し示す遥か上空へと機首を向けた。

最初の試練は、伝説の「風の回廊」だった。剃刀のような風が船体を叩き、雷鳴がすぐ側で轟く。視界はゼロ。頼りはこの小さな羅針盤だけだ。
「右!もっと右に切れ!」僕が叫ぶ。
「分かってるわよ!」サラが操縦桿を握る腕に青筋を立てる。巨大な乱気流の渦に巻き込まれ、船はきりもみ状態に陥った。絶望が僕の喉を締め付ける。だが、その時、サラが叫んだ。「レオ!羅針盤を信じなさい!あんたが私の目よ!」

彼女の言葉に、僕は我に返った。恐怖を振り払い、揺れる針先を睨みつける。針は、絶望的な嵐の中心を、ただ真っ直ぐに指していた。
「真っ直ぐです!このまま突っ切ってください!」
「正気!?」
「信じて!」
サラは一瞬ためらった後、ニヤリと笑った。「あんた、面白いじゃない!地獄の底まで付き合ってあげるわ!」
エンジンが咆哮を上げ、『イカロス号』は嵐の心臓部へと突っ込んだ。凄まじい衝撃の後、嘘のように静寂が訪れる。僕たちは、どこまでも広がる純白の雲海の上に躍り出ていた。そして、その遥か彼方に、信じられない光景が広がっていた。

巨大な島が、空に浮いていた。滝が雲海へと流れ落ち、緑豊かな森が陽光を浴びて輝いている。アヴァロンだ。

だが、感動に浸る間もなかった。水平線の彼方から、髑髏の旗を掲げた複数の小型飛行船が迫ってきたのだ。空賊だ。彼らもまた、アヴァロンの伝説を追っていたらしい。
「お宝はいただきだ!」拡声器から下品な声が響く。レーザー光線が『イカロス号』の脇を掠めた。
「こっちはただの貨物船よ!」サラが悪態をつく。「レオ、何か策はないの!?」
僕は必死に周囲を見渡した。アヴァロンの周囲には、奇妙な岩が無数に浮遊している。そして、島から伸びる巨大な蔓。
「あの蔓です!蔓の影に隠れて!」
サラは僕の意図を即座に理解した。彼女は神業のような操縦で船体を傾け、巨大な蔓が作る影へと滑り込む。追ってきた空賊の一機が、見えなくなった『イカロス号』を探して岩に激突した。僕たちはそのまま島の裏側へと回り込み、空賊の追跡を振り切った。

アヴァロンに上陸した僕たちを、鳥の歌声と花の香りが迎えた。古代の遺跡が苔に覆われ、静謐な空気が漂っている。羅針盤は、島の中心にある巨大な洞窟を指していた。

洞窟の奥深く、僕たちが見たものを、どう表現すればいいだろう。
そこにあったのは、金銀財宝ではなかった。洞窟の中央に根を張る、天を突くほどの巨木。その根元で、青白い光を放ちながら、巨大な心臓のように脈動する結晶体があった。それが「アヴァロンの心臓」。この島を空に浮かせ、生命を育む、星のエネルギーそのものだった。
「これが…宝…」サラが呆然と呟く。
これを持ち帰ることは、この美しい島の死を意味する。僕たちは言葉もなく、その神秘的な光景に見入っていた。

その時、背後からカツリと音がした。追いついてきた空賊の頭目が、銃を構えて立っていた。しかし、彼もまた「心臓」の光景を目の当たりにし、武器を下ろした。その瞳には、強欲ではなく畏怖の色が浮かんでいた。
「…こいつは、俺たちの手に余る宝だな」

僕たちは、何も持ち帰らなかった。いや、持ち帰れなかった。金銭的な富は手に入らなかったが、僕の胸には、どんな宝石よりも輝かしい冒険の記憶が刻み込まれていた。

帰りの『イカロス号』のデッキで、夕日に染まる雲海を眺めながらサラが言った。
「さて、借金の当ては外れたけど、あんたのおかげで最高のフライトができたわ」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「また次の冒険を探しましょう、サラさん。この世界のどこかには、まだ僕たちの知らない物語が眠っているはずです」
僕は、もう本の中の冒険だけでは満足できない自分になっていることに気づき、笑った。空はどこまでも青く、僕たちの冒険はまだ始まったばかりだった。

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