星降りの谷のソナタ

星降りの谷のソナタ

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***第一章 沈黙の地図***

天野湊の仕事場は、死んだ時間とインクの匂いで満たされていた。古書の修復師である彼にとって、世界は紙魚(しみ)が蝕んだページの染みであり、脆くなった背表紙を支える糊の粘度であった。変化を嫌い、予測可能な日常の繰り返しに安らぎを見出す湊にとって、冒険とは縁遠いどころか、忌避すべき言葉ですらあった。幼い日、弟を連れて踏み入った裏山の探検ごっこ。滑落し、額に今も残る傷を負った弟の泣き声が、湊の心には楔のように打ち込まれていた。以来、彼は未知へと踏み出す一歩を、自らに固く禁じてきた。

そんな彼のモノクロームの日常に、ある日、唐突に色が投げ込まれた。半年前に亡くなった祖父の遺品整理をしていた母から、小さな桐の箱が送られてきたのだ。中に入っていたのは、一枚の古びた地図だった。

それは湊がこれまで扱ってきたどの古地図とも異なっていた。羊皮紙に似た手触りだが、どこか生温かい。描かれているインクは、歳月を経て褐色に変色しているのではなく、夜空のような深い藍色を保っている。そして何より奇妙なのは、そこに描かれた地形だった。うねるような山脈、蛇行する川、しかし、どの地名も湊の知識には存在しない。地図の中央には、美しいカリグラフィーでこう記されていた。

『星降りの谷、始まりの音を探せ』

湊は指でその文字をなぞった。すると、まるで静電気を帯びたかのように、指先に微かな痺れが走る。その夜、湊は奇妙な夢を見た。地図に描かれた鳥の絵――翼が三対ある不思議な鳥――が夢の中で鳴き、その声に導かれて窓を開けると、現実の闇の向こうから、夢と寸分違わぬ鳴き声が聞こえてきたのだ。

心臓が跳ねた。それは幻聴だったのかもしれない。だが、湊の部屋の机の上で、例の地図が月光を浴びて淡い光を放っているのを、彼は確かに見た。日常という名の堅固な城壁に、一本の亀裂が入った瞬間だった。祖父はなぜ、こんなものを遺したのか。「始まりの音」とは、一体何なのか。湊の内で、固く閉ざされていた扉が、軋みながらもゆっくりと開こうとしていた。

***第二章 神隠しの森へ***

謎は、解かれようとしない時ほど、人の心を強く惹きつける。湊は数日を費やし、書庫の奥に眠る古文書や地方の郷土史を漁った。そしてついに、一つの可能性に行き着く。地図に描かれた山脈の稜線が、彼の故郷の近くにある、今は誰も足を踏み入れない山域――地元で「神隠しの森」と恐れられる場所の古い地形図と、不気味なほど一致していたのだ。

かつては林業で栄えたその山も、度重なる遭難事故から、いつしか立ち入りが禁じられていた。湊の心に、弟の泣き顔と血の匂いが蘇る。行くな、と理性が叫んでいた。しかし、地図は毎夜のように微かな光を放ち、湊を誘う。それはまるで、祖父からの声なき呼びかけのようだった。このまま知らないふりをして、死んだ時間の中に埋もれていくのか。それとも、一度だけ、あの日の自分と向き合ってみるのか。

湊は決意した。彼は押し入れの奥から、祖父が使っていた古い登山リュックを引っ張り出した。中には、使い込まれた水筒やナイフと共に、古風な真鍮製のコンパスが収められていた。その蓋には、地図に描かれた三対の翼を持つ鳥と同じ紋様が、精緻に彫り込まれていた。これこそが道標なのだと、湊は直感した。

週末、湊は夜明け前に車を走らせ、神隠しの森の入り口に立った。朽ちかけた「立入禁止」の看板が、不吉な門番のように彼を迎える。森へ一歩足を踏み入れると、ひやりとした空気が肌を撫でた。太陽の光は鬱蒼と茂る木々の葉に遮られ、昼なお暗い。湊がリュックからコンパスを取り出すと、針は北を指さず、あらぬ方角を指して微かに震え始めた。彼はごくりと唾を飲み込み、コンパスが示す方角へと、おそるおそる歩みを進めた。

道なき道を進むにつれて、森は次第にその様相を変えていった。木々の幹を覆う苔は、エメラルドのように青白い光を放ち、足元には見たこともない形状のキノコが群生している。空気は澄み、都会の喧騒に慣れた耳には、風が木々を揺らす音や、遠くで響く鹿の鳴き声が、まるで音楽のように聞こえた。恐怖心はいつしか、未知の世界への畏敬と好奇心へと変わっていた。ここにあるのは危険だけではない。圧倒的な、生命の美しさだった。

***第三章 始まりの音***

コンパスの針がぴたりと止まった時、湊は息を呑んだ。木々の切れ間から、信じられない光景が広がっていたのだ。そこは、すり鉢状の小さな谷だった。そして、谷底一面が、まるで夜空をそのまま切り取って地上に撒き散らしたかのように、無数の青白い光点で埋め尽くされている。星々が地上に降ってきたかのような、幻想的な光景。ここが「星降りの谷」なのだと、一目で悟った。

光の正体は、谷に自生する特殊な鉱石か、あるいは苔の一種なのかもしれない。だが、そんな科学的な分析は、この圧倒的な美しさの前では意味をなさなかった。湊は吸い寄せられるように谷底へ下りていく。光の粒に導かれた先、谷の中心にそびえる巨大な楠の木の根元に、それはひっそりと置かれていた。地図と同じ桐で作られた、古びた木箱。

緊張に震える手で、湊は木箱の蓋を開けた。中に入っていたのは、彼が想像していたような不思議な楽器や音の出る石ではなかった。そこにあったのは、一台の古びたポータブル・テープレコーダーと、数本のカセットテープ。そして、一枚の封筒。

湊は封筒を手に取った。それは、紛れもなく祖父の筆跡で、彼に宛てられていた。

『湊へ。もしお前がこの手紙を読んでいるのなら、私の小さな冒険の終着点にたどり着いたということだ。驚いたかい? 実はな、じいちゃんは昔、売れない小説家だったんだ』

湊の心臓が大きく脈打った。手紙は、驚くべき真実を語っていた。祖父は若い頃、小説家を志していたこと。そしてこの「星降りの谷」は、彼が重い病を患っていた妻――湊の祖母――を元気づけるために創り出した、壮大な物語の舞台だったのだと。

『お前のばあちゃんは、星を見るのが好きでね。でも、病気で遠くへは行けなくなった。だから私は、彼女のためだけの星空を創ることにしたんだ。この谷を見つけ、物語を書き、彼女をここまで連れてきた。この光る石も、二人で少しずつ集めたただの蛍光石さ。でも、彼女は「本物の星より綺麗だ」と言って笑ってくれた』

涙が、湊の頬を伝った。祖父の冒険は、名誉や発見のためではなかった。ただ一人、愛する人を笑顔にするための、ささやかで、しかし何よりも尊い冒険だったのだ。湊が恐れ、忌避してきた「冒険」という言葉が、全く違う意味を持って彼の胸に響いた。

彼はテープレコーダーの再生ボタンを押した。スピーカーから、ノイズ混じりの温かい声が流れ出す。若き日の祖父の声だった。

『……少年は、三対の翼を持つ鳥に導かれ、ついに伝説の谷へとたどり着きました。そこは、夜空の星々が、愛しい人のために地上へと舞い降りた場所……』

それは、祖母に語りかけるように、祖父が自らの物語を読み聞かせている録音だった。「始まりの音」。それは、この物語の「始まりの声」だったのだ。テープの最後には、祖父から湊へのメッセージが吹き込まれていた。

『湊。お前の心には、小さな傷があることを知っている。だが、忘れないでおくれ。踏み出す一歩は、誰かを傷つけるためだけにあるんじゃない。誰かを愛するためにも、自分自身を救うためにもあるんだ。さあ、お前の物語を始める時間だ。怖がらなくていい。世界は、お前が思うよりもずっと、美しく、優しい』

祖父の声が途切れると、谷には風の音だけが残った。湊は、嗚咽が漏れるのを止められなかった。それは後悔の涙ではなく、心の楔が溶けていく、温かい解放の涙だった。

***第四章 僕自身の冒険***

夜が明け、朝の光が谷に差し込むと、星々の光は魔法が解けたように消え、谷は静かな森の一部へと戻っていた。湊はテープレコーダーをリュックにしまい、祖父母の秘密の聖域に深く一礼すると、谷を後にした。彼は何も持ち帰らなかった。この谷の記憶と、祖父の言葉だけを胸に抱いて。

日常に戻った湊の世界は、しかし、以前とは全く違って見えた。古書の修復作業はもはや、死んだ時間を繋ぎとめる行為ではなかった。一冊一冊に込められた作者の想い、読者の手の温もり、時代を超えて受け継がれてきた物語の息吹を感じられるようになった。窓から差し込む陽光、街の喧騒、インクの匂い。そのすべてが、新しい物語を紡ぎ出すための素材のように、鮮やかに彼の五感を刺激した。

あの日以来、湊は仕事の合間を縫って、新しいノートに何かを書き留めるようになった。それは、世界を変えるような英雄譚ではない。星降りの谷のような幻想的な冒険でもない。彼が書こうとしているのは、もっとささやかな、日常の中にきらめく光のかけらを集めるような物語だ。傷つき、それでも前を向こうとする人々の、小さくとも尊い一歩の物語。

ある晴れた午後、湊はペンを置き、窓を開けた。爽やかな風が吹き込み、新しい紙の匂いを運んでくる。どこからか、一羽の鳥の鳴き声が聞こえた。それは、あの神隠しの森で聞いた、三対の翼を持つ鳥の声によく似ていた。

湊は微笑んだ。それはもう、彼を未知の恐怖へ誘う不吉な声ではない。新しい世界へ、彼自身の物語の始まりへと、優しく背中を押してくれる、祝福のソナタのように聞こえた。彼の冒険は、今、静かに始まったばかりだった。

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