地図職人の見習いである僕、リオの仕事場は、インクと古い羊皮紙の匂いで満ちていた。窓の外には、雲の上に浮かぶ島々「浮遊諸島」の壮大な景色が広がっている。いつか、まだ誰も描いたことのない、世界の果ての地図を描いてみたい。それが僕の夢だった。
師匠が亡くなって一月が経った頃、僕は彼の遺品の中から、一枚の奇妙な地図を見つけた。それは生き物のように滑らかな手触りの羊皮紙で、インクで線が引かれているわけではなく、ただ微かな紋様が浮かんでいるだけだった。師匠の書き置きにはこうあった。
『これは「風詠みの地図」。風の歌を聴き、風の言葉を理解する者だけが道を読める。相棒のシルフィと共に行け。伝説の「天頂の庭」へ』
肩で、師匠が遺した小鳥、シルフィが「ピルル!」と高く鳴いた。その瞬間、地図の紋様が淡い光を放ち、複雑な航路となって浮かび上がった。風が道を示す地図だと? 胸の高鳴りを抑えきれなかった。
僕は、なけなしの金で手に入れた中古の小型飛行船「エアドリフター号」に乗り込んだ。
「行くぞ、シルフィ! 世界の果てを見つけに!」
プロペラが唸りを上げ、船体がふわりと浮き上がる。シルフィが風を読んで鳴くたび、地図上の光の道が変化し、僕に進むべき方角を教えてくれた。
最初の試練は「雷雲の海峡」だった。渦巻く黒雲の中、銀色の稲妻が絶え間なく空を引き裂く。一瞬でも風を読み違えれば、僕の船など黒焦げだ。
「ピィィッ、ピルルル!」
シルフィが激しく鳴き、右へ左へと進路を指示する。僕は必死で舵を切り、稲妻の牙をかいくぐった。数時間の死闘の末、黒雲を抜けた時の空の青さは、生涯忘れられないだろう。
次に辿り着いたのは、荒くれ者たちが集う中継島の酒場だった。情報を集めようとした僕に、屈強な女空賊、ヴァネッサが絡んできた。
「坊や、そんなおもちゃみたいな船でどこへ行くんだい? まさか、おとぎ話の『天頂の庭』を探してるとか言わないだろうね?」
彼女の背後には、重武装した巨大な飛行戦艦が停泊していた。彼女もまた、天頂の庭の財宝を狙っていたのだ。
ヴァネッサは僕の地図を力ずくで奪おうとしたが、彼女にはただの紋様にしか見えない。僕がシルフィと協力して航路を読み解くのを見て、彼女はニヤリと笑った。
「面白い。その小鳥と地図、気に入った。競争しようじゃないか、坊や。先に庭に着いた方が、お宝総取りだ!」
ヴァネッサの戦艦と僕のエアドリフター号の、奇妙なレースが始まった。巨大な空の怪物「スカイマンタ」の群れに襲われた時は、ヴァネッサが大砲で怪物を蹴散らし、その隙に僕がシルフィと共に安全な風の通り道を見つけ出す、という奇妙な連携プレーで乗り切った。彼女は乱暴だったが、どこか気持ちのいいライバルだった。
幾多の困難を乗り越え、ついに僕たちは巨大な積乱雲の壁の向こうに、目的地を発見した。
「あれが……天頂の庭……」
そこは、島ではなかった。天を突くほど巨大な、古代樹の枝の上に広がる、光る苔と水晶の花々に覆われた幻想的な空中庭園だった。
庭園の中心には、世界の風を生み出すという「風の源泉」が、か細い光を放って揺らめいていた。だがその輝きは弱々しく、だからこそ世界の天候が乱れていたのだ。
僕たちが源泉に近づくと、地面が揺れ、蔦と岩でできた巨大な守護者、エンシェント・ゴーレムが目覚めた。
「侵入者……排除……スル……」
ゴーレムが巨大な腕を振り上げたその時、ヴァネッサが僕の前に立ちはだかった。
「坊や! あんたの地図には、まだ何か書いてあるんじゃないのかい!? こいつはあたしが引き受ける!」
彼女の言葉に、僕は地図に隠された最後の仕掛けに気づいた。それは、源泉を活性化させるための「風の古き歌」の楽譜だった。
僕は目を閉じ、シルフィの鳴き声に全ての意識を集中させる。それは単なる鳥の声ではなく、風が奏でるメロディーそのものだった。僕は震える声で、その古の歌を歌い始めた。ヴァネッサはゴーレムの猛攻を巧みにかわし、必死に時間を稼いでくれている。
歌がクライマックスに達した瞬間、源泉がまばゆい翠色の光を放ち、庭園全体が生命力に満ち溢れた。ゴーレムは動きを止め、僕たちに深々と頭を下げた。
世界の風は、再び穏やかな流れを取り戻した。
「ふん、宝はなしか。まあ、退屈はしなかったよ」
ヴァネッサはそう悪態をつくと、「次会うときは、本気で奪いに行くからな!」と片目をウインクし、戦艦で豪快に去っていった。
故郷に戻った僕は、天頂の庭までの正確な地図を完成させた。師匠も成し遂げられなかった、世界で初めての地図だ。
それは僕の最初の冒険の証。そして、まだ白紙のページが残る僕の冒険日誌には、風が運んでくる新たな物語の予感が、確かに満ちていた。
風詠みの地図と天頂の庭
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