空に浮かぶ島々を渡り歩く者たちの間で、決して近づいてはならない空域があった。「龍の巣」と呼ばれる、年中雷雲が渦巻く場所だ。その先に何があるのか、生きて帰ってきた者はいない。
運び屋のリオは、港町の酒場で、その「龍の巣」の先にあるという「沈黙の島」への配達依頼を受けていた。依頼主はエリオットと名乗る皺だらけの老人。報酬は破格だったが、何よりリオの心を惹きつけたのは、届け物そのものだった。精巧な歯車細工が施された、古びた真鍮のオルゴール。
「ただ、これを島の中心で鳴らしてくれればいい」
老人はそう言って、寂しそうに笑った。
リオの愛機、小型飛行船「スカイホッパー号」は、唸りを上げて雷雲に突っ込んだ。荒れ狂う風が船体を叩き、稲妻がすぐ側を走り抜ける。熟練の船乗りでさえ舵を捨てる嵐の中、リオは感覚だけを頼りに舵輪を握り続けた。どれほどの時間が経っただろうか。ふと、目の前が嘘のように開け、スカイホッパー号は静寂の空へと滑り出した。
眼下に広がるのは、伝説の「沈黙の島」。空に浮かぶ巨大な庭園のように緑豊かで、中央には蔦に覆われた巨大な時計塔がそびえ立っていた。あまりの美しさに息を呑みながら、リオは島に着陸し、時計塔の麓へと向かった。
奇妙なほど静かだった。鳥の声も、風の音すらも聞こえない。リオはゴクリと唾を飲み込み、依頼された通りにオルゴールのネジを巻いた。
カチリ、と小さな音がして、澄んだメロディが流れ出す。それはどこか懐かしく、そして切ない音色だった。すると、大地が震え始めた。時計塔の蔦が輝きながら剥がれ落ち、足元の地面から無数の歯車がせり上がってくる。島全体が、一つの巨大な機械仕掛けだったのだ。
驚くリオの前で、時計塔の扉が開き、中から一人の少女が現れた。銀色の髪に、人形のように整った顔立ち。だが、その瞳には光がなかった。
「……起動シーケンス、完了。私はリラ。この天空の方舟『アイオーン』の管理者です」
少女――自動人形(オートマタ)のリラは言った。彼女によれば、この島は太古の天才機械技師クロノスが、世界を蝕む謎の存在「虚無(ヴォイド)」から空の世界を守るために作った最後の砦なのだという。そして、依頼主の老人エリオットこそが、老い先短いクロノス本人だった。オルゴールは、彼の魂の信号を転写し、アイオーンを再起動させるための「鍵」だったのだ。
「クロノス様は、新たな『指揮者』を待っていました。あなたです、リオ」
その言葉を証明するかのように、空の彼方が黒く染まった。空間そのものを喰らうかのような、巨大な影。虚無の到来だった。
アイオーン全土に警報が鳴り響く。時計塔はまばゆい光を放つ主砲へと姿を変え、島のあちこちから無数の小型迎撃機が飛び立っていく。リラはリオに、クロノスが遺したもう一つの贈り物――飛行船の動きとアイオーンの砲撃を同調させる「指揮者の羅針盤」を手渡した。
「行きます!」
リオはスカイホッパー号に飛び乗り、再び空へ舞い上がった。羅針盤がリオの操縦と連動し、彼の動きに合わせてアイオーンの迎撃システムが虚無に砲火を浴びせる。まるで手足のように動く巨大な要塞。リオは虚無の攻撃を紙一重でかわしながら、リラのナビゲートを頼りに、その弱点であるコアへと迫っていく。
「今です!主砲、エネルギー充填完了!」
リオはスカイホッパー号を急反転させ、全速力で虚無の懐へ飛び込んだ。巨大な顎のようなものが彼を飲み込もうと迫る。その瞬間、アイオーンの時計塔から放たれた光の奔流が、リオのすぐ脇をすり抜け、虚無のコアを正確に撃ち抜いた。
断末魔の叫びと共に、虚無は光の粒子となって霧散し、空には再び穏やかな青が戻ってきた。
「ありがとう、リオ。あなたこそが、この空の新しい守護者です」
リラの静かな声が通信機から聞こえる。リオは、自分がただの運び屋ではなく、とてつもない運命を託されたことを悟った。クロノスの遺志を継ぎ、この美しい空を守っていく。
新たな決意を胸に、リオはスカイホッパー号の舵を握った。隣には、静かに微笑むリラが座っている。彼らの果てしない旅が、今、始まった。
クロノスのオルゴール
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