空喰らいの釣師

空喰らいの釣師

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大地が砕け、空に散った世界。人々は浮遊島に街を築き、空を泳ぐ「空魚(そらうお)」を糧に生きていた。

カイの操る一人乗りの飛行艇「シーガル号」が、綿雲の海を滑る。彼の傍らには、翼を持つ相棒の小竜リッドがちょこんと座っていた。
「カイ、今日の狙いは?」
リッドが念話で問いかける。カイはニヤリと笑い、眼下に広がるエーテルの大河を指差した。
「決まってる。あそこの主、銀鱗のヴォイドカープだ」
彼の持つ釣り竿は、浮遊鉱石を組み込んだ特注品。普通の釣師が十人がかりで挑むような大物を、カイはたった一人で狙っていた。周囲からは無謀だと笑われたが、彼には夢があった。伝説の巨大空魚「空喰らい」を釣り上げること。そして、砕けた世界を繋ぎ合わせるという、祖父から受け継いだ途方もない夢が。

その日の午後、異変は起きた。空の果てが不気味な紫色に染まり、エーテルの流れが荒れ狂い始めたのだ。巨大な積乱雲が渦を巻き、故郷の浮遊島「エアロ・コル」へと迫ってくる。
「嵐じゃない……あれは……」
島の見張り台から悲鳴が上がる。雲の渦の中心から、島一つを丸呑みにできそうなほどの巨体が、ゆっくりと姿を現した。星々を呑み込み、嵐を呼ぶとされる伝説の厄災獣、空喰らいだ。
島民が絶望に顔を歪め、避難の準備を始める中、カイだけは違った。彼の目は恐怖ではなく、燃えるような決意に満ちていた。彼は祖父の遺した日誌の一節を思い出していた。『奴は厄災ではない。世界が流した涙の凝縮体だ』。

カイは自宅の地下倉庫へ走った。壁にかけられていたのは、鯨の骨のようにしなる巨大な釣り竿「星穿ち(ほしうがち)」。そして、虹色の光沢を放つ奇跡の釣り糸「天の涙線(あまのるいせん)」。祖父が空喰らいに挑み、片足を失ってなお、希望を託した遺品だった。
「リッド、行くぞ!」
カイはシーガル号に飛び乗り、嵐の中心へと機首を向けた。島民たちの制止の声が、暴風にかき消されていく。

雷鳴が轟き、稲光が巨獣のシルエットを浮かび上がらせる。空喰らいの咆哮はエーテルの衝撃波となり、シーガル号を木の葉のように揺さぶった。
「くっ……!」
カイは必死に操縦桿を握り、空喰らいの巨躯をかわしながら懐へと潜り込む。祖父の教えが脳裏に蘇る。『流れを読むな。流れを創れ』。
カイはシーガル号の浮遊石の出力を最大にした。機体は悲鳴を上げ、急激な上昇気流を自ら生み出す。その勢いを利用して、嵐の目を突き抜け、空喰らいの頭上へと舞い上がった。
眼下で、空喰らいが巨大な口を開く。世界を喰らわんとするその顎門に、カイは「星穿ち」を構えた。
「今だ!」
渾身の力で竿を振り抜く。虹色の「天の涙線」に引かれた巨大な釣り針が、流星となって空喰らいの口内へと吸い込まれていった。
ガツン、と凄まじい衝撃が腕を打つ。針は、言い伝えにあった「悲しみの核」に確かに食い込んでいた。空喰らいは苦しみ、天を揺るがす勢いで暴れ回る。
釣り上げるのではない。カイは竿を握りしめ、叫んだ。
「お前も苦しいんだろう! その溜め込んだ涙を、もう世界に還してやれ!」
カイの意志に応えるかのように、「天の涙線」が眩い輝きを放つ。その光は糸を伝い、空喰らいの体内へと流れ込んでいく。
やがて、巨獣の咆哮が止んだ。その巨躯から、無数の光の粒が溢れ出し始める。それは、砕けた世界の再生を促すという「創生の雫」だった。

光の雨が降り注ぐ中、嵐は嘘のように晴れ渡っていく。穏やかな表情になった空喰らいは、静かに空の彼方へと泳ぎ去った。
カイが傷だらけのシーガル号で帰還すると、島民たちは彼を英雄として迎えた。光の雨を浴びた浮遊島の大地が、かすかに震え、遥か彼方の他の島々と引かれ合うように、ゆっくりと動き始めているのが分かった。
カイは空を見上げ、祖父に報告するように、静かに微笑んだ。
世界を繋ぐ、彼の途方もない釣りは、まだ始まったばかりだった。

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