***第一章 灰色の妹と禁じられた森***
リアムの世界は、合理性と、目に見える事実だけで構築されていた。彼が住む村の端に広がる「灰色の森」についても、村人たちが口にするような呪いや祟りなどではなく、土壌汚染か、未知の菌類による生態系の崩壊だと結論付けていた。かつては豊かな色彩に満ちていたというその森は、今やまるで古い銀塩写真のように、すべての色が褪せ落ちてしまっている。葉も、幹も、そこに潜む獣たちの毛皮さえも、濃淡の異なる灰色に沈んでいた。
そんなリアムの整然とした世界に、最初の亀裂が入ったのは、秋風が肌寒さを運び始めた日のことだった。五つ下の妹、リナの左手の指先から、色が抜け落ち始めたのだ。最初は冬の寒さによる血行不良だろうと、誰もが軽く考えていた。だが、その灰色の染みは、インクが和紙に滲むように、ゆっくりと、しかし着実に彼女の体を蝕んでいった。瑞々しい薔薇色だった頬は色褪せ、亜麻色に輝いていた髪は、まるで燃え尽きた後の灰のように白っぽく変色していく。医者は首を横に振るばかりで、村の長老たちは眉をひそめ、「森の呪いが村にまで及んだ」と囁き合った。
リアムは苛立ちを隠せなかった。非科学的な妄言だと切り捨てたいのに、目の前で色を失い、衰弱していく妹の姿が、その合理性を根底から揺さぶる。リナがベッドの上でか細い声で「お兄ちゃん、私、このまま消えちゃうのかな」と呟いた夜、リアムは決意した。呪いだろうが病気だろうが構わない。原因が森にあるというのなら、その正体をこの手で暴き出すまでだ。彼は夜陰に紛れて家を抜け出し、村の誰もが近づこうとしない禁忌の森へと、固く握りしめたランタンの僅かな光を頼りに、その足を踏み入れた。
森の中は、不気味なほど静かだった。風が枝を揺らす音さえも、どこか色を失っているように聞こえる。灰色の苔がむす倒木を乗り越え、ぬかるんだ灰色の土に足を取られながら進むうち、彼は自分が完全に方向感覚を失っていることに気づいた。その時だった。ふと、森の奥から澄んだ歌声が聞こえてきたのは。それはどんな楽器の音色よりも美しく、この色なき世界に唯一残された色彩であるかのように、リアムの心を捉えた。
***第二章 森の精霊と失われた感情***
歌声に導かれるようにして森の奥深くへと進んだリアムは、信じがたい光景を目の当たりにした。小さな泉が湧く開けた場所に、一人の少女が佇んでいたのだ。腰まで伸びる髪は月光を編み込んだかのように白く、纏う衣は霧のように淡い。だが、何よりもリアムの目を奪ったのは、彼女の瞳だった。片方は夏の空のように澄んだ青、もう片方は若葉のように鮮やかな緑。この灰色の世界で、唯一原色を宿した存在だった。
少女はセレスと名乗った。彼女はリアムの姿に驚くでもなく、まるで彼の来訪をずっと待っていたかのように静かに微笑んだ。
「あなたの妹さんのことね。森の嘆きが、あなたたちにまで届いてしまった」
セレスの言葉は、リアムの警戒心をいともたやすく解かしていく。彼女は、森が色を失ったのは呪いなどではなく、森の生命力の源であるこの泉—「原色の泉」—が枯渇しかけているからだと語った。そして、リナの病は、森の苦しみに彼女の魂が共鳴してしまった結果なのだと。
「森は病んでいるのではありません。ただ、深く眠っているだけ。泉を再び満たすことができれば、森も、あなたの妹さんも、きっと元に戻ります」
「満たすって、どうやって?水を汲んでくればいいのか?」
リアムの現実的な問いに、セレスは小さく首を振った。
「この泉を満たすのは水ではありません。人の心から生まれる、純粋な『感情』です。中でも最も力の強い三つの感情—『喜び』、『悲しみ』、そして『驚き』。それらを見つけ、泉に捧げなければなりません」
リアムは呆然とした。感情を捧げる?馬鹿げている。だが、彼の足元で、セレスがそっと触れた灰色の花が、淡いピンク色を取り戻すのを見て、彼は言葉を失った。非科学的だ、ありえない。そう頭では否定しながらも、心は藁にもすがる思いで、彼女の言葉を信じ始めていた。
「わかった。手伝う。どうすればその『感情』とやらを見つけられる?」
こうして、現実主義者の少年と、森の神秘を体現したような少女の、奇妙な旅が始まった。彼らはまず、純粋な『喜び』を探した。森の夜明け、光の粒を振りまきながら無数の蝶が一斉に羽化し、乱舞する光景に出会った時、リアムの胸に温かい感動が込み上げた。セレスがその瞬間を掬い取るように泉に祈ると、泉の水面がわずかに揺らめき、淡い黄金色の光を放った。次に彼らは『悲しみ』を探した。森の最長老と呼ばれた巨大な狼が、命の終わりを悟り、静かに横たわるその場に立ち会った。セレスと共にその亡骸を弔ううち、リアムは命の儚さと尊さに、静かな涙を流した。泉は、深い藍色の光で応えた。残るは、最後の『驚き』だけだった。
***第三章 原色の泉と最後の奇跡***
最後の『驚き』は、なかなか見つからなかった。リアムの焦りは募るばかりだった。妹の命の刻限は、日に日に迫っている。そんなある日、彼はセレスの体に異変が起きていることに気づいた。彼女の輪郭が、時折、陽炎のように揺らめいて透けて見えるのだ。そして、あれほど鮮やかだった彼女の瞳の色も、心なしか薄くなっているように感じられた。
「セレス、君は一体何なんだ?」
問い詰めるリアムに、セレスは悲しげに微笑み、ついに真実を打ち明けた。
彼女は人間ではなかった。この「灰色の森」そのものの意志が、人の形をとった精霊だったのだ。そして、森から色を奪い、原色の泉を枯渇させた元凶は、かつてこの森に住み、強大な力を持ちながらも、愛する者を失った絶望の果てに、世界そのものを拒絶した一人の魔法使いの負の感情だった。
「その魔法使いは…」セレスは躊躇いがちに続けた。「あなたたちの祖先です。だから、あなたたち兄妹の血には、森と深く繋がる力が流れている。リナさんが病に倒れたのも、彼女の魂が、血に刻まれた祖先の絶望と、森の嘆きの両方に共鳴してしまったから」
リアムは愕然とした。すべての元凶が、自分の血にあったというのか。絶望が彼の心を支配しかけたその時、セレスはさらに衝撃的な事実を告げた。
「最後の『驚き』は、もう見つかっています」
「どこにだ!?」
「ここに」
セレスは、そっと自身の胸を指差した。
「泉を完全に蘇らせる最後の鍵。それは、『森の精霊が、人間を心から信じ、自らのすべてを捧げる』という、ありえなかったはずの奇跡。それこそが、祖先が遺した絶望を打ち破る、最大の『驚き』なのです」
セレスは、リアムと旅をする中で、人間の中にある温かさ、強さ、そして愛を知った。彼が妹を想い、森のために必死になる姿を見て、彼女は人間を信じることを決めたのだ。彼女自身が泉に溶け、その存在を捧げることで、森を、そしてリナを救うという。
「やめろ!そんなこと、できるはずがない!」
リアムは叫んだ。彼が否定し続けてきた世界の神秘。その中心にいた少女が、今、彼の目の前で消えようとしている。妹を救うためとはいえ、セレスを失うことなど考えられなかった。いつの間にか、彼女はリアムにとって、かけがえのない存在になっていたのだ。彼の冷たく閉ざされていた心は、彼女との旅の中で、とっくに溶かされていた。合理性も理屈も、もはや何の意味もなさなかった。ただ、失いたくないという強い想いだけが、彼の全身を突き動かしていた。
***第四章 セレスの森***
「駄目だ、セレス!君がいなくなってしまったら、森が蘇っても意味がない!」
リアムは必死に彼女の腕を掴んだ。しかし、その体はすでに光の粒子となって、少しずつ輪郭を失い始めていた。セレスは、リアムの頬にそっと手を伸ばした。その手はもうほとんど実体を失っていたが、不思議な温かさだけが伝わってきた。
「リアム。あなたと出会えたこと、それが私にとって最大の『喜び』であり、そして、最高の『驚き』でした。あなたのその心…森を愛し、誰かを守ろうとする強い想いこそが、絶望の呪いを解く本当の光なのです」
彼女は穏やかに微笑んだ。その瞳には、恐怖も後悔もなかった。ただ、深い愛情だけが湛えられていた。
「私のことは忘れないで。でも、悲しまないで。私は消えるんじゃない。森のすべてになるの。風にそよぐ葉にも、土に咲く花にも、あなたの頬を撫でる光にも、私はいるから」
その言葉を最後に、セレスの体は完全に光の奔流と化し、原色の泉へと吸い込まれていった。次の瞬間、泉から七色の光が柱となって天を突き、巨大な光の波紋となって森全体に広がっていった。灰色の世界が、瞬く間に原色で塗り替えられていく。幹は生命力に満ちた茶色に、苔は鮮やかな緑に、そして枯れ木だと思っていた枝々からは、一斉に無数の花が咲き乱れた。それは、世界が生まれた瞬間のような、圧倒的な生命の祝祭だった。
光は村にまで届き、ベッドに横たわるリナの体を優しく包み込んだ。彼女の髪に、頬に、指先に、失われた色が奇跡のように戻っていく。やがて、彼女はゆっくりと目を開け、兄の名を呼んだ。
リアムは、息を呑むほど美しく蘇った森の中心で、一人佇んでいた。妹は助かった。世界は色を取り戻した。だが、その色彩の中心にいたはずの少女は、もうどこにもいなかった。喜びと悲しみが綯い交ぜになった、生まれて初めての感情が、彼の胸を締め付けた。彼は、自分が否定してきた世界の神秘の、そのあまりにも大きな代償を知った。
数年後。すっかり元気になったリナの手を引き、リアムは森を歩いていた。村人たちは、いつしかこの森を「セレスの森」と呼ぶようになっていた。
「お兄ちゃん、見て!虹色の蝶々!」
リナが指さす先で、美しい蝶が舞っている。リアムは、その蝶の羽ばたきに、セレスの微笑みの面影を見た。彼は、世界の美しさと、その根底にある切なさの両方を受け入れられるようになっていた。彼はもう、冷めた現実主義者の少年ではない。
「リナ」リアムは、妹の頭を優しく撫でながら言った。
「世界はね、目に見えるものだけでできているわけじゃないんだ。本当に大切なものは、時に見えなくて、そして、少しだけ悲しい色をしているのかもしれない」
風が吹き抜け、色とりどりの木の葉が、まるでセレスが歌っているかのように、さわさわと優しい音を立てていた。その音色を聴きながら、リアムは空を見上げた。そこには、セレスの瞳と同じ、澄み渡った青と緑がどこまでも広がっていた。
灰色の森と原色の泉
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