記憶の刻、心の在処(ありか)

記憶の刻、心の在処(ありか)

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***第一章 罅割れた晶石***

リオンの世界は、静寂と、磨かれた石の冷たさでできていた。
物心ついた時から、彼はこの「刻守の塔」の外を知らない。円筒状に天を衝く塔には、床から天井まで無数の棚が設えられ、そこには数えきれないほどの「記憶晶石」が眠っている。琥珀色のもの、空色を映したもの、真珠のように乳白に輝くもの。一つ一つが、誰かの失われた記憶の欠片なのだと、育ての親である老賢者エルダーは言った。
リオンの仕事は、それらの晶石を柔らかい布で磨き、曇りなき状態に保つこと。埃を払い、棚の番号と晶石を照らし合わせ、静かに一日を終える。それが彼の全てだった。自分自身の過去の記憶を持たないリオンにとって、他人の記憶を守るという行為は、自らの空虚を埋めるための儀式にも似ていた。

風の音も、鳥の声も、この塔の中では遠い。ただ、磨かれる晶石が立てる微かな音と、自分の呼吸音だけが満ちている。その変わらない日常が、ある日、音を立てて崩れた。

塔の最上階、普段はエルダーしか立ち入らない「忘れられた棚」の掃除を命じられた日のことだ。埃の匂いが鼻をつく中、リオンはいつものように晶石を手に取っていた。その時、指先に奇妙な感触が走った。見れば、一つの晶石に、蜘蛛の巣のような細かい罅(ひび)が入っている。塔の晶石は、どれも完璧な球体か、滑らかな涙滴の形をしているはずだった。こんな傷ついた晶石は初めて見た。

好奇心に抗えず、リオンはそっとその晶石を両手で包み込んだ。その瞬間だった。
―――脳髄を直接揺さぶるような衝撃。
知らないはずの光景が、奔流となって流れ込んできた。
青い空の下で揺れる黄金色の麦畑。風にそよぐ洗濯物。快活な少女の笑い声が耳元で響く。石畳の道を駆ける小さな足音。焼きたてのパンの香ばしい匂い。
次の瞬間、世界は一変する。
空が朱に染まり、黒い煙が立ち上る。悲鳴。怒号。燃え盛る家々。そして、全てを呑み込もうとする巨大な「影」――。
「いやっ!」
リオンは晶石を放り出し、喘ぎながら床に手をついた。心臓が激しく脈打ち、冷たい汗が背筋を伝う。今のは何だ? 見たこともない風景、知らないはずの少女。なのに、胸を抉るような喪失感と悲しみが、まるで自分の体験であるかのように全身を苛んでいた。
「リオン、何をしている!」
背後から、厳格な声が飛んだ。エルダーだった。床に転がる罅割れた晶石を見て、彼の顔から血の気が引いていく。
「それに触れたのか……」
「エルダー、これは……」
エルダーはリオンの言葉を遮り、震える手で晶石を拾い上げると、厳重な鍵のかかった小箱にそれを納めた。「二度とこれに近づくな。これは呪われた記憶だ。お前のような者が触れていいものではない」
その声には、普段の賢者然とした落ち着きとは違う、焦りと、そして深い悲しみが滲んでいた。リオンは何も言い返せなかった。だが、胸のうちでは、初めて経験する激しい感情の嵐が吹き荒れていた。あの少女は誰だ? あの村はどこだ? そして何より、なぜ自分は、あんなにも胸が張り裂けそうに痛むのだろう。
その日から、リオンの世界を構成していた静寂には、決して消えない不協和音が混じり始めた。

***第二章 風凪の村の幻影***

エルダーの禁令は、リオンの心を縛るどころか、むしろ燃え盛る炎に油を注ぐ結果となった。罅割れた晶石に触れた瞬間の鮮烈な体験が、頭から離れない。夜、簡素な寝台に横たわっても、瞼の裏に焼き付いているのは、炎に包まれた村と、絶望に歪む少女の顔だった。

自分は何者なのか。なぜ過去がないのか。これまで漠然と抱いていた疑問が、一つの確信めいた形を結び始めていた。あの記憶は、失われた自分の過去に違いない。あの少女は、自分の大切な誰かなのだ、と。
リオンは、エルダーの目を盗んで、再び最上階を目指すようになった。小箱は固く閉ざされていたが、彼は諦めなかった。数日かけて塔の古い鍵束を調べ、ついに適合する一本を見つけ出した。

震える指で小箱を開け、再び罅割れた晶石を手に取る。流れ込んでくる記憶は、今度はより鮮明だった。
少女の名はエリス。活発で、少しお転婆で、いつもリオンの手を引いて村を駆け回っていた。村の名は「風凪の村」。穏やかで、誰もが笑い合って暮らす、楽園のような場所。リオンは、自分がその村でエリスと共に育ったのだと確信した。記憶の中の自分は、いつもエリスの隣で、少し困ったように、けれど幸せそうに笑っていた。
そして、悲劇の日の記憶もまた、容赦なく彼を襲った。
村を襲ったのは「影の獣」と呼ばれる、実体を持たない災厄だった。それは人々の恐怖心を喰らい、絶望を糧に膨れ上がる。抵抗する術もなく、村は一夜にして焼き尽くされ、人々は影に呑み込まれて消えた。リオンは、エリスの手を握りしめ、必死に逃げた。だが、崩れる梁の下からエリスを庇ったところで、彼の記憶は途切れていた。

「……エリス」
晶石を握りしめたまま、リオンは呟いた。涙が頬を伝っていた。それは初めて流す、自分自身の涙だった。悲しみ、怒り、そして無力な自分への憤り。感情が渦を巻き、彼の内向的な殻を内側から突き破っていく。
彼は生き残ったのだ。そして、記憶を失い、この塔に流れ着いた。エルダーは、自分を哀れんで保護してくれたのだろう。
「復讐しなければ」
その思いが、雷のようにリオンの全身を貫いた。エリスの、村の人々の仇を討たねばならない。影の獣を、この手で滅ぼさなければ。
初めて、リオンの中に明確な目的が生まれた。塔の外の世界へ。自分の過去を取り戻し、果たすべき使命を全うするために。
彼は塔を出るための準備を始めた。食料を少しずつ集め、塔の古い地図を読み解き、外の世界の知識を貪欲に吸収した。晶石を磨く手は、以前よりも力強く、迷いがなかった。彼の瞳には、かつての空虚さの代わりに、揺るぎない決意の光が宿っていた。
もはや彼は、ただの記憶の番人ではなかった。失われた過去の復讐者として、彼は生まれ変わろうとしていた。

***第三章 刻守の真実***

決行の夜。月明かりが塔の細い窓から差し込み、床に埃の粒子を浮かび上がらせていた。リオンは最低限の荷物を背負い、腰には護身用の短剣を差していた。最後に、罅割れた晶石を納めた小箱を懐にしまう。これが、彼の唯一の道標だった。

一階の扉へ向かう階段を下りようとした、その時。
「どこへ行く、リオン」
闇の中から、静かだが、有無を言わせぬ声が響いた。エルダーが、杖を手にリオンの前に立ちはだかっていた。
「エルダー……どいてください。僕には、やらなければならないことがある」
「復讐か。影の獣を討つつもりか」エルダーの声は、悲しく震えていた。「やめなさい。お前が行っても、何もできはしない」
「いいや、僕は行く! エリスのために! 風凪の村のために!」
リオンは叫び、エルダーの脇をすり抜けようとした。だが、老人のものとは思えない力で腕を掴まれる。
「聞きなさい、リオン! お前は、真実を何も知らない!」
「真実だと? 僕が記憶を失った生存者だということが、真実じゃないか!」
「違う!」エルダーは絶叫した。その声は、塔の静寂を粉々に打ち砕いた。「お前は、風凪の村の人間ではない。お前は……生存者ですらないのだ」

リオンの動きが止まる。エルダーの顔は苦痛に歪み、その目からは大粒の涙が零れ落ちていた。
「では……僕は、何なんですか」
エルダーは、ゆっくりと話し始めた。それは、リオンの存在そのものを根底から覆す、残酷な真実だった。
「風凪の村を襲った影の獣は、確かに存在した。そして、村は滅び、一人の少女を除いて、全員が命を落とした」
老賢者は、そっと自らの顔に手をやった。皺の刻まれた皮膚が、まるで仮面のように剥がれ落ちていく。その下から現れたのは、老婆の顔ではない。リオンが記憶の中で、焦がれるほどに見てきた―――少女エリスが、歳月を重ねた姿だった。
「……エリス?」リオンは呆然と呟いた。
「そうよ」彼女は答えた。声はもう、老婆のものではなかった。「生き残ったのは、私だけ。あなたは……あなたは、あの村にはいなかった」
エリスは続けた。絶望の淵で、全てを失った彼女は、ただ一つのことを願ったという。「幸せだった頃の記憶だけでも、失いたくない」と。彼女は、村での幸せな日々の記憶、家族との思い出、そして―――もしも自分に、いつも隣で微笑んでくれる優しい幼馴染がいたら、という叶わなかった願い―――その全てを、自身の魔力の限りを尽くして、一つの形ある存在に注ぎ込んだ。
「それが、あなたよ、リオン」
エリスは、懐の小箱を指さした。
「その罅割れた晶石は、私の記憶そのもの。そしてあなたは、私の記憶と願いから生まれた、記憶のゴーレムなの。あなたの過去など、どこにも存在しない。あなたの体は、私の思い出でできているのよ」
塔にあなたを留めていたのは、外の世界の悲しみや憎しみに触れさせたくなかったから。あなたは、私の幸せだった記憶の結晶なのだから……。真実を知れば、あなたの存在そのものが消えてしまうかもしれない。それが、怖かった……」
足元の床が、崩れ落ちていくような感覚。世界が、意味を失っていく。リオンは、その場に膝から崩れ落ちた。

***第四章 あなたの記憶から生まれた僕***

空虚。それが、リオンの心を埋め尽くした全てだった。自分は人間ですらなかった。愛した記憶は他人のもので、抱いた憎しみさえ借り物だった。自分という存在は、エリスの孤独な願いが生み出した、精巧な幻に過ぎなかった。
「……消えてしまえばいい」
か細い声が、唇から漏れた。存在理由を失った今、自分がここに在り続ける意味などない。リオンは目を閉じ、自らの霧散を待った。
しかし、何も起こらなかった。心臓は変わらず鼓動を続け、指先には床の冷たさが伝わってくる。
「リオン」
エリスが、彼の前に静かに膝をついた。その瞳は、深い慈愛に満ちていた。
「あなたは、ただの記憶の写しではないわ」
彼女は、リオンの手にそっと触れた。
「確かに、あなたは私の記憶から生まれた。でも、この塔で過ごした時間は? 黙々と晶石を磨き、静寂の中に安らぎを見出していたのは、紛れもなくあなた自身よ。私の記憶に触れ、悩み、怒り、そして自分の意志で塔を出ようと決意した。その心の動きは、誰のものでもない、あなた自身のもの」
リオンは、はっと顔を上げた。
晶石を磨く日々の、あの静かな充足感。罅割れた晶石の記憶に心を揺さぶられた、あの痛み。復讐を誓った時の、あの熱い高揚感。それらは、エリスの記憶にはなかった感情だ。彼女の記憶を苗床にして、リオンという個別の心が、確かに芽吹いていたのだ。
「あなたは、私の過去から生まれた。でも、あなたは今、未来を向いていた。それは、私が失ってしまったものだった……」エリスの声は、かすかに震えていた。「ありがとう、リオン。私に、前を向く勇気を思い出させてくれて」

涙が、今度はリオンの目から溢れ出た。それは絶望の涙ではなかった。自分が「在る」ことを肯定された、温かい涙だった。
彼は作られた存在かもしれない。だが、彼が過ごした時間も、抱いた心も、決して偽物ではなかったのだ。

リオンは立ち上がり、背負っていた荷物を静かに床に降ろした。塔を出る理由は、もうない。だが、それは諦めではなかった。新しい目的が、彼の心に灯っていた。
「エリス。僕は、ここにいるよ」
彼は、懐から罅割れた晶石の入った小箱を取り出し、エリスに差し出した。
「僕は、君の記憶から生まれた。なら、これからは君と一緒に、失われた記憶たちを守っていきたい。それは、僕がここに存在する、確かな意味になるから」
エリスは、驚いたように目を見開いた後、ゆっくりと微笑んだ。それは、リオンが記憶の中で見た、少女の頃の屈託のない笑顔の面影を宿していた。
「ええ、一緒に。刻守として」

月明かりが、塔に立つ二人を静かに照らしていた。一人は、過去の記憶を背負う者。もう一人は、その記憶から生まれ、未来を紡ごうとする者。
リオンは、自分の手を見つめた。これは、誰かの思い出でできた体かもしれない。だが、この手で、これから誰かの大切な記憶を守っていくことができる。誰かと共に、未来を築いていくことができる。
それ以上に、確かな存在の証があるだろうか。
塔の外の世界は、今も悲しみや争いに満ちているのかもしれない。だが、この静かな塔の中には、過去を受け入れ、未来へと歩み出す、二つの確かな心が寄り添っていた。リオンの心の在処は、もう揺らぐことはなかった。

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