***第一章 星屑の唄***
世界は、大いなる沈黙に満たされていた。
風は音を立てず頬を撫で、川は飛沫の光だけを残して流れ、人々は唇を動かすことなく、眼差しと微かな身振りで想いを交わす。かつてこの世界に「音」という概念があったことさえ、遠いおとぎ話の彼方に忘れ去られて久しい。
カイは、そんな静寂の世界で、たった一人、秘密の音楽を聴いていた。
彼の仕事は「星屑の採掘師」。夜ごと、空の裂け目から零れ落ちる微細な光の粒――星屑を、夜明け前に集めて回るのだ。星屑は街の灯りや動力源として高く売れる。だがカイにとって、それは単なる生業ではなかった。
星屑は、歌っていた。
一つ一つが異なる音色を放ち、夜の闇にきらめきながら降り注ぐ様は、まるで壮大なオーケストラのようだった。か細いヴァイオリンのような光、深く響くチェロのような光、陽気に跳ねるピアノのような光。カイだけが、その旋律を聴くことができた。それは呪いであり、祝福でもあった。誰にも理解されない甘美な孤独の中で、彼は夜ごと、空が奏でる音楽に耳を澄ませていた。
ある満月の夜だった。ひときわ強い光を放つ、拳ほどの大きさの星屑が、天からゆっくりと舞い降りてきた。それはカイが今まで聴いたこともない、悲しくも力強い、魂を揺さぶるようなレクイエム(鎮魂歌)を奏でていた。彼は吸い寄せられるようにその光に手を伸ばす。
触れた瞬間、温かい光がカイの体を包み込み、頭の中に直接、一つの情景が流れ込んできた。――崩れた石造りの塔、そして、そこで祈りを捧げる一人の少女の姿。
その星屑は、ただの光の粒ではなかった。明確な意志を持って、カイをどこかへ導こうとしていた。胸の内で、星屑のレクイエムが鳴り響く。それはカイの孤独な日常が、終わりを告げる前奏曲だった。
***第二章 沈黙の都と歌う少女***
星屑が示す幻影に導かれ、カイは夜明けの薄闇の中を歩き続けていた。普段は決して近づかない、壁に囲まれた都の中心部へ。そこは「大いなる沈黙」を神聖な秩序として崇め、厳格に守護する「静寂の教団」の総本山があった。
灰色の石畳が続く都は、人々が行き交ってはいるものの、しんと静まり返っていた。足音さえも石畳が吸い込んでしまうかのように、世界は息を潜めている。カイが懐に仕舞った星屑だけが、心臓の鼓動のように、確かな旋律を奏で続けていた。
教団の巨大な聖堂が見える広場に出た時、カイの耳が、信じられないものを捉えた。
――ふふん、ふん、ふふん……。
それは、壊れかけたオルゴールのような、微かで、しかし確かな鼻歌だった。音のない世界で、ありえないはずの旋律。カイが驚いて顔を上げると、噴水の縁に一人の少女が座っていた。亜麻色の髪を風に揺らし、ぼろぼろの服を着た彼女は、カイの存在に気づくと、はっと息を呑んで歌うのをやめた。
その時だった。広場の向こうから、白いローブをまとった教団の神官たちが数人、厳しい顔つきでこちらへ向かってくるのが見えた。彼らの視線は明らかに少女に向けられている。少女は怯えたように立ち上がると、路地裏へ向かって駆け出した。
カイは咄嗟に動いていた。理由はわからない。ただ、あの鼻歌を、消させたくなかった。彼は少女の手を掴むと、入り組んだ路地へと引き込んだ。
「なぜ、助けてくれるの?」
壁に背を預け、息を切らしながら、少女は尋ねた。彼女の声は、長い間使われていない楽器のように掠れていたが、紛れもない「声」だった。
カイは言葉で答える代わりに、懐からあの大きな星屑を取り出した。星屑は再び温かい光を放ち、辺りに悲しげなレクイエムを響かせる。もちろん、その音はカイにしか聴こえないはずだった。
「……きれいな、音」
少女が、うっとりと呟いた。
カイは目を見開いた。彼女にも、この唄が聴こえるのか。
「あたしはリラ。時々、世界に忘れられた音が聴こえるの。おばあちゃんから聞いたことがあるわ。『世界は昔、歌で満ちていた。でも、星の心臓が鼓動を止めた時、世界は沈黙した』って」
リラは、音を禁忌とする教団から「異端者」として追われていたのだ。
カイは初めて、自分の秘密を他人に打ち明けた。自分も星屑の音楽が聴こえること、そしてこの大きな星屑が、自分たちをどこかへ導こうとしていることを。リラは驚きながらも、カイの瞳の奥にある孤独の色を見抜き、静かに頷いた。
二つの孤独な魂が、一つの旋律の下で、初めて交わった瞬間だった。
***第三章 忘れられた真実***
リラの祖母が遺した古い地図と、星屑が奏でるレクイエムを頼りに、カイとリラは教団の追手をかわしながら旅を続けた。目指すは、都の遥か北に位置する禁足地「響きの谷」。そこにかつて世界を満たしていた音の源、「星の心臓」が眠っていると伝えられていた。
険しい山道を越え、霧深い森を抜けた先、巨大な岩壁に囲まれた谷が姿を現した。谷底へ下りていくと、不思議なことに、空気が微かに震えているのを感じた。まるで、巨大な何かが息を潜めているかのようだ。
谷の最深部、月光が差し込む開けた場所に、それはあった。天を突くほどの巨大な水晶体。内部には無数の光の筋が走り、まるで血管のように脈打っている。これが「星の心臓」。しかし、リラの伝承とは違った。それは鼓動を止めてなどいなかった。むしろ、その脈動はあまりに力強く、何か巨大なエネルギーを内側に押し留めているように見えた。
「お待ちしておりました、星屑の末裔よ」
凛とした声が響き、カイとリラは振り返った。そこに立っていたのは、純白のローブをまとった教団の長、老神官だった。追ってきた神官たちも、武器を構えることなく静かに二人を取り囲んでいる。
「戦う気はない。ただ、真実をお伝えするために参りました」
老神官は静かに語り始めた。それは、カイたちの信じていたすべてを根底から覆す、衝撃的な事実だった。
「『大いなる沈黙』は、呪いではありません。祝福であり、先人たちが血を流して勝ち取った平和の礎なのです」
かつて、この世界は音で満ち溢れていた。歌は喜びを伝え、言葉は愛を育んだ。しかし、音は同時に、人々の憎しみや欲望を増幅させる力を持っていた。怒りの声はさらなる怒りを呼び、嘘の言葉は疑心暗鬼を生み、やがて世界は終わりのない争いの炎に包まれた。
「世界が崩壊する寸前、我々の祖先である初代の王は、自らの命と引き換えにこの『星の心臓』を使い、世界から争いの火種となる『音』を封印したのです。それが、この沈黙の世界の始まり。我々教団は、その悲しい歴史を繰り返し、世界を再び混沌に陥らせないため、音を禁忌としてきたのです」
教団は悪ではなかった。彼らこそが、世界の平和を守るために、孤独な使命を背負い続けてきた守護者だったのだ。カイが聴いていた星屑の唄は、封印された音の記憶が、空の裂け目から零れ落ちた残滓。そして、カイが持つ大きな星屑は、強大な封印を解くことができる唯一の「鍵」だった。
「その鍵を使えば、世界に音は戻るでしょう。しかしそれは、かつての混沌と争いを呼び覚ますことに他なりません。さあ、選びなさい。このまま静寂の平和を続けるか、それとも、破滅の危険を冒してまで音を取り戻すか」
老神官の言葉が、谷間に重く響き渡った。カイは、手の中の星屑を握りしめた。それは世界の運命を左右する、あまりにも重い選択だった。
***第四章 君に届けたい音***
カイは激しく葛藤した。平和だが、どこか空虚な沈黙の世界。喜びも悲しみも、すべてが色褪せて見える。だが、音を取り戻せば、人々は再び傷つけ合うかもしれない。老神官たちの背負ってきたものの重さを思うと、軽々しく封印を解くことなどできなかった。
ふと、隣に立つリラを見た。彼女はただ、真っ直ぐに「星の心臓」を見つめていた。その瞳には、恐怖も欲望もない。ただ純粋な、音への憧憬だけが宿っていた。彼女は美しい歌を歌いたいのだ。鳥のさえずりを、愛する人の笑い声を、この耳で聴きたいだけなのだ。
カイは思い出す。星屑の音楽が、どれほど孤独な自分の心を慰めてくれたか。音は、憎しみだけを伝える道具ではない。温もりを、優しさを、そして愛を伝える力があるはずだ。過去の過ちを恐れて未来の可能性まで閉ざしてしまっていいのだろうか。
「俺は……音を取り戻したい」
カイの声は震えていたが、その瞳には強い意志の光が宿っていた。
「過去と同じ過ちを繰り返すとは限らない。俺たちが、新しい音の世界を創ればいい。喜びを分かち合い、悲しみに寄り添うための音を」
それは、孤独な採掘師だった頃の彼からは想像もできない、力強い決意だった。自分のためではない。隣にいる少女に、本当の歌を届けたい。その一心だった。
カイはゆっくりと「星の心臓」に近づき、鍵である星屑をそっと結晶体に捧げた。
眩い光が溢れ、谷全体が激しく震える。星の心臓が、永い眠りから覚めたかのように、力強く、そして穏やかな鼓動を開始した。その鼓動は光の波となって世界中に広がっていく。
最初に聴こえてきたのは、優しい風の音だった。ざあっと木々の葉が揺れる音。サラサラと流れる小川のせせらぎ。そして、遠くから聞こえてくる、鳥たちのさえずり。世界が、ゆっくりと呼吸を始めたかのようだった。
老神官は、天を仰ぎ、静かに涙を流していた。彼もまた、この音がもたらす感動を知っていたのだ。彼はカイに向き直り、深く頭を下げた。「我々の役目は終わった。これからは、あなた方が、この世界で音が正しく使われるよう導いていくのです」
カイとリラは、夜が明け始めた丘の上に立っていた。蘇った世界は、優しく、そして美しい音で満ちている。朝日が地平線を染める頃、リラが、そっと息を吸い込んだ。
「……あ」
初めて紡がれた彼女の歌声は、まだ拙かったが、どこまでも透き通っていた。それは、カイがずっと一人で聴き続けてきた、あの星屑のレクイエムによく似た、温かくて優しいメロディだった。
カイは微笑んだ。彼は世界を救った英雄ではない。ただ、愛する一人の少女に、歌を届けたかっただけの青年だ。
彼の隣で、リラの歌声が風に乗って空へとのぼっていく。世界がこれからどうなるかは、誰にも分からない。だが、二人の心には、確かな希望の音がどこまでも響き渡っていた。もう、彼は孤独ではなかった。
星屑のレクイエム
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