サイレント・シンフォニア

サイレント・シンフォニア

2
文字サイズ:

この世界、アリアスでは、万物は音から生まれたと信じられている。魔法とはすなわち音楽。「奏者(アリア)」と呼ばれる者たちが紡ぐ旋律が、炎を呼び、水を操り、風を起こす。

カイは、王都随一と謳われる奏者の名門に生まれながら、致命的なまでに音痴だった。彼が奏でようとする旋律は、いつもどこか半音ズレて、調子っぱずれの不協和音(ディスコード)にしかならない。簡単な灯火の呪文すら、火花を散らすのがやっとだ。

「見ろよ、『ディスコード』様のお通りだ」
アカデミーの廊下で、生徒たちの嘲笑がカイの背中に突き刺さる。中心にいるのは、同学年の天才、リオネル。彼が優雅に指を振るうと、ハープを爪弾くような清らかな音色と共に、教室の窓という窓に美しい氷の結晶が咲き乱れた。喝采が湧き上がる。カイは唇を噛み締め、その場から逃げるように駆け出した。

行き着いたのは、埃と古紙の匂いが満ちる禁足の書庫。ここだけが、彼の唯一の安息の場所だった。無数の書架の迷路を彷徨ううち、彼は一冊の古びた革装本に指を止めた。表紙には、かすれた文字で『調和の源流』と記されている。

ページをめくると、そこにはカイが知る魔法理論とは全く異なる記述があった。
『――旋律は世界を彩るが、真の力は音の狭間にこそ宿る。至高の音楽とは、完全なる沈黙である』

「沈黙が、音楽…?」
意味が分からなかった。だが、その言葉はカイの心の奥底に不思議な波紋を広げた。彼は書庫の片隅で、目を閉じて意識を集中させた。歌うな、奏でるな。ただ、音を止めろ――。

周囲のざわめき、自分の呼吸音、心臓の鼓動。それら一つ一つを、意識の中で丁寧に消していく。世界から音が失われていく感覚。やがて、完全な静寂がカイを包んだ。その瞬間、彼の内に眠っていた何かが、奔流となって溢れ出した。それは音のない、無色の、しかし圧倒的な力の奔流だった。

目を開けると、彼の目の前にあった古い燭台が、音もなく塵になって崩れ落ちていた。

その数日後、王都を未曾有の恐怖が襲った。空が鉛色に染まり、耳を찢くような金切り声と共に、巨大な「嘆きの騒音(ハウリング・ノイズ)」が出現したのだ。それは定まった形を持たず、ただただ不快な音の塊として街を蹂躙した。奏者たちが放つ魔法の旋律は、その絶対的な騒音にかき消され、力を失っていく。

「くそっ、詠唱が乱される!」
リオネルでさえ、自慢の氷の魔法を維持できずにいた。彼の顔に初めて焦りの色が浮かぶ。騒音の魔物は、奏者たちの抵抗を嘲笑うかのように、王宮へとその触手を伸ばし始めた。

その時だった。戦場の喧騒のただ中、ふっと音が消える一角が生まれた。まるで分厚いガラスに隔てられたかのように、絶対的な静寂がそこにあった。誰もが何事かと視線を向けると、そこに立っていたのはカイだった。

「ディスコード…?なぜお前がここに」
リオネルが訝しげに呟く。

カイは彼を一瞥すると、再び瞳を閉じた。彼は歌わない。奏でない。ただひたすらに、静寂を紡ぎ出す。彼の周りに生まれた「無音の領域」は、波紋のようにじわじわと広がっていく。嘆きの騒音が、その静寂に触れた途端、悲鳴をあげるようにその勢いを失った。

「馬鹿な…!?」

音で構成された魔物は、音の存在しない空間では、その形を保てないのだ。

「世界は音だけでできているんじゃない」
カイの声は、騒音の中でも不思議とクリアに響いた。
「音と、音のない沈黙。その二つがあって初めて、本当の“調和”が生まれるんだ!」

カイが両手を天に突き上げる。彼を中心に、巨大な無音のドームが王都全体を覆い尽くした。耳を聾するほどの騒音は完全に掻き消され、世界は生まれて初めてのような静寂に包まれた。そして、力の源である音を失った「嘆きの騒音」は、陽光に溶ける影のように、跡形もなく消滅した。

静寂が破られ、王都に再び音が戻った時、人々が見たのは呆然と立ち尽くすエリート奏者たちと、その中心で静かに佇む一人の少年だった。

誰もが彼を「不協和音(ディスコード)」と呼んだ。だが、その日を境に、人々は彼に新たな名を捧げることになる。

世界の本当の調和を取り戻す者――「沈黙の調律者(サイレント・チューナー)」と。
カイの奏でる音のないシンフォニアは、まだ始まったばかりだった。

TOPへ戻る