文字喰いの少年

文字喰いの少年

1
文字サイズ:

「また『消』の字か、カイ。お前は何かを生み出す気はないのかね」

師匠であるエリオットの溜め息が、インクと古い紙の匂いがする工房に響いた。僕、カイが羊皮紙に書いたのは、ただ一文字、『消』。書術において最も単純で、最も無価値とされる文字だ。

この世界では、書かれた文字が現実の事象を引き起こす。「書術」と呼ばれるその力は、人々の生活を豊かにしていた。『灯』と書けば明かりが灯り、『橋』と書けば目の前の川に橋が架かる。一流の書術師ともなれば、『豊穣』の四文字で荒れ地を肥沃な大地に変えることすらできる。

だが僕は、複雑で力強い文字を書くのが苦手だった。僕がなんとか具現化できるのは、『石』や『水』といった単純な単語だけ。そして、なぜか昔から『消』の文字だけは、誰よりも速く、正確に書くことができた。何かを生み出すのではなく、ただそこにあるものを抹消するだけの、後ろ向きな力。同輩たちは僕を「インクの無駄遣い」と笑った。

そんなある日のことだった。王都の空が、前触れもなく黒インクをぶちまけたように闇に染まった。人々が空を見上げた瞬間、天を引き裂くように巨大な亀裂が走り、そこから無数の文字が、黒い雨となって降り注いできたのだ。

『嵐』『炎』『絶望』『憎悪』――。

王立図書館の最深部に封印されていた、禁断の『混沌の書』から逃げ出した古代の文字たちだった。街路に叩きつけられた『炎』の字は瞬く間に燃え上がり、家々を舐め尽くす。天を舞う『嵐』の字は、全てを薙ぎ倒す暴風を巻き起こした。王国最高峰の書術師たちが駆けつけ、対抗しようと試みる。

「『壁』よ来たれ!」

一人の書術師が叫び、巨大な石壁を出現させるが、猛る『炎』の文字に触れた途端、壁は脆くも崩れ去った。『水』の文字で消火を試みれば、凄まじい水蒸気爆発が起き、被害は拡大するばかり。文字の力を文字の力で打ち消そうとすれば、より大きな混沌が生まれるだけだった。世界は、自らが創り出した言葉によって滅ぼされようとしていた。

僕と師匠がいた工房にも、巨大な『嵐』の文字が迫っていた。エリオット師匠は僕を庇い、震える手で杖を構えたが、彼の顔には諦観の色が浮かんでいた。

もうダメだ。そう思った瞬間、僕の体は勝手に動いていた。

工房の床に飛びつき、懐から取り出した万年筆のペン先を走らせる。無我夢中だった。書ける文字は一つしかない。僕が唯一、誰にも負けないと信じられる文字。

『消』

僕が床に刻んだその一文字が、淡い光を放った。次の瞬間、信じられない光景が広がった。工房に吹き込もうとしていた『嵐』の文字が、まるで水に滲むインクのように、その輪郭から揺らぎ始めたのだ。それは、他の書術師たちが見せたような現象の相殺ではなかった。もっと根源的な、存在そのものが世界から剥がされていくような感覚。数秒後、『嵐』の文字は跡形もなく消え失せ、工房には静寂が戻っていた。

呆然とする僕の肩を、エリオット師匠が掴んだ。その手は、かつてないほど強く震えていた。

「カイ……お前のその力は……『相殺』ではない。『抹消』だ。言葉そのものを、この世から喰らう力……」

今まで誰も見向きもしなかった僕の力。何かを生み出すのではなく、ただ無に帰すだけの力。それが、この世界を言葉の氾濫から救う唯一の希望だと、誰もが気づいた瞬間だった。

数日後、僕は王の前にいた。震える僕に、王は深々と頭を下げた。
「少年よ、どうかその力で、この国を救ってくれ」

僕は万年筆を強く握りしめた。もう、この力を卑下するのはやめよう。僕にしかできないことがある。

「さて、次はどの厄介な言葉を消しに行こうか」

工房の外では、まだいくつかの邪悪な文字が空を舞っていた。僕はそれらを睨みつけ、新しい羊皮紙の最初のページを開いた。僕の物語は、何かを『消す』ことから始まるのだ。

TOPへ戻る