音なき旋律の紡ぎ手

音なき旋律の紡ぎ手

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世界が音で満ちていた頃、リアムは沈黙の中に生きていた。

この世界は「原初の音」から生まれ、万物は固有の響きを持つとされている。風の囁き、川のせせらぎ、そして人の心が奏でる喜怒哀楽の旋律。それらの調和を守るのが、「音紡ぎ師」と呼ばれる者たちの役目だった。

リアムもまた、音紡ぎ師の見習いだった。しかし、彼には生まれつき音が聞こえなかった。彼にとって世界は、ただ寄せては返す振動の海であり、音は指先や素足の裏で感じる微かな震えでしかなかった。彼はその振動を頼りに、心の中に広がるイメージを旋律に変えようと必死に楽器を奏でる。だが、師匠からはいつも同じ言葉を投げつけられた。
「お前の音は独りよがりだ。基礎がなっていない。それでは何も調律できん」
その厳しい言葉は、手話に込められた鋭い動きとなって、リアムの胸を深く抉った。

そんなある日、世界に異変が訪れた。「無音の魔物」と呼ばれる存在が現れたのだ。それは実体を持たない影のような怪物で、世界のあらゆる音を喰らい、存在そのものを沈黙へと引きずり込んでいった。
リアムの住む小さな村も、例外ではなかった。教会の鐘の音が消え、子供たちの笑い声が掻き消え、鳥のさえずりも聞こえなくなった。沈黙は灰色の帳のように村を覆い、人々の顔から表情を奪っていく。まるで世界の彩度が、日に日に落ちていくようだった。

師匠をはじめとする村の音紡ぎ師たちは、秘伝の楽器を手に魔物へと立ち向かった。彼らが奏でる、計算され尽くした完璧な調和の旋律。それはかつて、荒ぶる自然を鎮め、病を癒してきた奇跡の音色のはずだった。だが、魔物には全く通じない。彼らの紡ぐ美しい音は、まるで闇に吸い込まれる光のように、あっけなく喰らい尽くされてしまった。力を失い、絶望に膝を折る師匠の姿を、リアムは遠くから見つめることしかできなかった。無力感が、冷たい石のように彼の心を沈ませる。自分には何もできない。耳の聞こえぬ自分は、この沈黙の世界で最も無価値な存在なのだと。

村が完全な沈黙に支配されようとした、その時だった。リアムはふと、奇妙な「振動」を感じ取った。それは、音を失ったはずの人々の心臓の鼓動。恐怖に震える赤子の微かな呼吸。愛する者を守ろうと固く握られた拳の、血が巡る熱。音は消えても、生命の営みが発する根源的な響きは、まだここに残っていた。
(――これだ)
リアムの心に、一条の光が差し込んだ。彼は、師匠から「独りよがり」と罵られた、自分だけの旋律を紡ぐことを決意した。

彼は魔物の前に躍り出ると、古びた竪琴を構えた。そして、指を弾く。
最初に紡がれたのは、不格好で、調律もされていない、荒々しい音だった。それは、師匠たちが奏でるような洗練されたものではない。腹の底から絞り出すような戦士の雄叫び、嵐の夜に泣き叫ぶ赤子の産声、老婆が孫に語りかける嗄れた子守唄、恋人たちが交わす熱っぽい吐息――リアムが肌で感じ取ってきた、ありとあらゆる「生命のざわめき」そのものだった。
それは不協和音の奔流。楽譜という檻から解き放たれた、獰猛な獣のような音だった。
「やめろ、リアム!そんないびつな音は、世界を壊すだけだ!」
師匠が身振りで必死に制止する。だが、リアムは止めなかった。彼の心象風景の中では、混沌とした生命の響きが、巨大な渦となって世界を駆け巡っていた。
すると、信じられないことが起きた。調和した音を糧とする「無音の魔物」が、リアムの紡ぐ生命の混沌に触れ、苦しみ始めたのだ。完璧な秩序を求める魔物にとって、不揃いで予測不可能な生命の響きは、耐え難い猛毒だった。魔物は音のない悲鳴をあげ、その影のような体が端から崩れていく。やがて、朝日を浴びた霜のように、跡形もなく消え去った。

魔物が消滅すると、世界にゆっくりと音が戻り始めた。風が木々を揺らす音、小川のせせらぎ、そして人々の囁き声。だが、それは以前とはどこか違っていた。リアムが紡いだ生命の響きが、世界の根源に触れ、新たな調和を生み出したのだ。
師匠は、呆然と立ち尽くすリアムの前に進み出ると、静かにひざまずいた。そして、震える手でこう伝えた。
「間違っていたのは、私の方だった。お前の音こそが…この世界が本当に必要としていた、真の旋律だったのだ」
リアムに、師匠の声は聞こえない。だが、その瞳に浮かぶ涙の温かさは、どんな賛辞よりも雄弁に彼の心へと届いた。人々が彼を取り囲み、向ける感謝の笑顔、安堵の涙。それこそが、彼がずっと求め続けていた最高の喝采だった。
彼は空を見上げ、静かに微笑んだ。音なき世界で、彼は初めて、生命が奏でる歌を聴いた気がした。そして彼の心の中では、まだ誰も知らない、新しい世界の黎明を告げるカンタータが、力強く鳴り響き始めていた。

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