風読み師と空の羅針盤

風読み師と空の羅針盤

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雲海の下に広がる世界、スケイルフォール。人々は巨大な渓谷の底にへばりつくように町を築き、分厚い雲に覆われた空を「神々の天井」と呼んで見上げていた。

「風読み師」の一族の末裔であるカイトは、その天井の向こうにあるとされた伝説の空飛ぶ島「アエリア」に焦がれていた。祖父から受け継いだのは、一族の血と、奇妙な模様が刻まれた古地図、そして決して北を指さない真鍮の羅針盤だけ。彼の風読みの才能は未熟で、かすかな風の囁きを聞き取るのがやっとだった。

ある日、カイトの住む町に、異邦の商人が持ち込んだ「浮遊石」が波紋を広げた。拳ほどの大きさのその石は、淡い光を放ちながら宙に浮かんでいる。人々が遠巻きに眺める中、カイトの懐で羅針盤が熱を帯び、カタカタと震えだした。針が狂ったように回転し、ぴたりと浮遊石を指し示したのだ。

カイトは商人に駆け寄った。「この石はどこで?」
商人は自慢げに答える。「雲海の中でも最も危険な場所、『嵐の目』さ。並の乗り物じゃ近づくことすらできねえ、竜巻の巣だ」

その夜、カイトは広げた古地図と睨めっこしていた。地図に描かれた渦巻き模様が、商人の言った「嵐の目」と不気味に一致する。羅針盤は、この地図の先にある何かを指し示しているのだ。
「行くしかない」
決意を固めたカイトは、町で唯一の気球乗り、リナの元を訪ねた。

リナは腕利きの操縦士だったが、現実主義者で伝説を鼻で笑うような女だった。愛機の小型気球「サンドパイパー号」の修理代で多額の借金を抱えている。
「空飛ぶ島? 寝言は寝て言いな、坊や」
「浮遊石が山ほど手に入るかもしれない! それなら借金なんて……」
カイトの必死の説得と、羅針盤が浮遊石に反応する様を見せたことで、リナは渋々ながらも眉を上げた。
「……話に乗った。ただし、分け前は七三。アタシが七だ」
こうして、夢見る少年と現実主義の気球乗りの、奇妙な二人旅が始まった。

サンドパイパー号は雲海へと突入した。視界は乳白色の霧に閉ざされ、上下の感覚さえ曖昧になる。リナが経験と勘で高度を保ち、カイトは羅針盤を頼りに進路を告げる。
「右だ! 風が渦を巻いてる!」
「分かってるよ!」
二人の呼吸が少しずつ合ってきた頃、突如、霧の中から巨大な影が姿を現した。水晶の鱗を持つ翼竜、クリスタル・グリフィンだ。鋭い鉤爪が気球の側面を切り裂き、船体が大きく傾く。
「まずい、ガスが漏れてる!」リナが叫ぶ。
絶体絶命の状況で、カイトの意識が研ぎ澄まされた。風の声が、ただの囁きではなく、明確な言葉となって脳内に響く。
――不協和音を奏でよ。
カイトはとっさに羅針盤を掲げ、念を込めた。羅針盤から甲高い音が鳴り響き、周囲の気流が乱れる。グリフィンは苦しげな鳴き声を上げると、たまらず霧の奥へと逃げ去った。

「あんた……本当に風読み師なんだな」
息を切らしながら、リナがカイトを見直した。カイトは自分の内に眠る力の片鱗に、驚きと興奮を隠せないでいた。

やがて、轟音と暴風が嘘のように静まり、目の前が拓けた。そこが「嵐の目」だった。巨大な竜巻の壁に囲まれた、円形の凪いだ空間。空には無数の浮遊石が、星々のように瞬きながらゆっくりと漂っていた。息をのむほど幻想的な光景だ。
「すごい……」リナが呆然と呟く。
その時、カイトの羅針盤がこれまでになく激しく震え、渦の中心を指し示した。そこには、他を圧倒する大きさの、家ほどもある巨大な浮遊石の塊が鎮座していた。

サンドパイパー号を近づけると、カイトは吸い寄せられるように古地図を掲げた。すると、地図の模様が眩い光を放ち、巨大な浮遊石に投影された。古代の紋様が組み合わさり、カチリと錠が開くような音が響く。
次の瞬間、巨大な浮遊石が音を立てて二つに割れ、その中心から空へと向かう、螺旋状の光の階段が現れた。

それは、神々の天井を貫き、まだ誰も見たことのない雲上の世界へと続いていた。
「アエリアは……本当にあったんだ!」
カイトの歓喜の声が、静寂の空間に響き渡る。
リナは言葉を失い、ただ光の階段を見上げていた。借金のことも、現実のしがらみも、今はもうどうでもよかった。彼女の瞳には、忘れていた冒険の輝きが宿っていた。
「行くんでしょ?」
悪戯っぽく笑うリナに、カイトは力強く頷いた。
二人は顔を見合わせると、まだ見ぬ世界への期待に胸を膨らませ、雲の上へと続く光の階段を、一歩、また一歩と駆け上がっていった。本当の冒険は、まだ始まったばかりだった。

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