風詠鳥の唄と始まりの地図

風詠鳥の唄と始まりの地図

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僕の生まれた谷では、世界はそこで終わりだった。

空の果てまでそそり立つ、巨大な「風の壁」。一年中、決して止むことのない轟音が谷に響き、分厚い灰色の雲が壁の上部を覆い隠している。壁の向こうに何があるのか、誰も知らない。知ろうとすることすら、長老たちによって固く禁じられていた。

地図職人の見習いである僕、カイの仕事は、この閉ざされた谷の地図を、先祖代々寸分違わず写し続けることだった。岩の配置、小川の曲がり角、古びた木の洞。何も変わらない世界の、変わらない記録。僕は、インクの匂いが染みついた指先で空白のない地図をなぞりながら、いつも壁の向こうを夢想していた。

転機は、たった一枚の羊皮紙から始まった。亡くなった祖父の遺品箱の底から見つけたそれは、僕が知るどんな地図とも違っていた。インクは掠れ、紙は脆くなっていたが、そこには幻のような景色が描かれていたのだ。七色の羽を持つトカゲ、自ら光を放つキノコの森、そして、僕らの谷には存在しない、広大な海。羊皮紙の隅には、震えるような文字でこう記されていた。

『風詠鳥(かざよみどり)の唄を追え。始まりの地図は、その翼の先にある』

風詠鳥。年に一度、嵐が最も激しくなる日にだけ、群れをなして風の壁に突っ込んでいくという伝説の鳥。その姿を見た者はいない。大人たちは作り話だと笑う。だが、祖父の地図は、それが真実だと告げていた。

「じいちゃんも、壁の向こうへ行きたかったんだ……」

胸の奥で、何かがカチリと音を立てた。この手で、空白の地図を埋めたい。この目で、世界の本当の姿を見たい。僕は最低限の食料と寝袋、そして祖父の羊皮紙を鞄に詰め込み、夜明け前にこっそりと村を抜け出した。

風の壁に近づくにつれ、風は牙を剥き始めた。立っているのもやっとなほどの突風が、砂利や木の葉を巻き上げて頬を叩く。祖父の地図を頼りに、風を避けるように岩陰を進んでいくと、苔むした古代の遺跡が姿を現した。

「あなたも、風詠鳥を追ってるの?」

遺跡の奥から聞こえた声に、僕は飛び上がった。そこにいたのは、僕と年の変わらない、オイルと泥で汚れた服を着た少女だった。彼女はリナと名乗り、手にした奇妙な機械の部品を磨きながら言った。
「私はリナ。発明家よ。失われた飛行技術を蘇らせて、あの壁を越えるのが夢なの。風詠鳥は、物理法則を無視して風の中を飛ぶ。その秘密を解き明かせれば……!」
リナの瞳は、僕と同じように、壁の向こう側を見据えていた。僕が祖父の地図を見せると、彼女は目を輝かせた。僕には地図を読む知識があり、彼女には古代の機械を読み解く知識がある。僕たちは、自然と協力し合うことになった。

数日後、ついにその日が来た。空は不気味な鉛色に染まり、風の壁はこれまで聞いたこともないような怒号を上げていた。僕たちは遺跡の最奥、巨大な円形の広間にたどり着いていた。
「見て、カイ! この床の溝、祖父さんの地図にある模様と同じだわ!」
リナが指さす先、床には複雑な紋様が刻まれ、それは壁画に描かれた鳥の群れへと繋がっていた。そして、広場の中央には、巨大な水晶が突き立っている。

その時だった。甲高い、しかし透き通るような鳴き声が、風の轟音を貫いて響き渡った。風詠鳥だ! 銀色に輝く鳥の群れが、遺跡の天窓から乱舞するように舞い降りてくる。彼らは広場の上を旋回し、一斉に唄い始めた。

それは、ただの鳴き声ではなかった。幾重にも重なった唄は共鳴し、不思議な音階となって広間を満たしていく。すると、足元の床の紋様が淡い光を放ち始め、その光は線となって中央の水晶へと集束していく。

「まさか……鳥の鳴き声が、この遺跡の動力源だったなんて!」

リナが叫ぶのと、水晶が目も眩むほどの光を放ったのは同時だった。次の瞬間、僕たちの目の前で、信じられない光景が繰り広げられた。

ゴオオオオオッ!

地響きと共に、あの絶望的だった風の壁が、巨大な渦を巻いて裂けていく。暴力的な風が嘘のように静まり、そこには穏やかな風が流れるトンネルのような道が出現していた。道の向こう側には、僕らの世界にはない、鮮やかな茜色の空が広がっている。

「行くわよ、カイ!」
リナは背負っていた折り畳み式のグライダーを瞬時に展開する。僕たちは風の道へ向かって駆け出した。恐怖はなかった。あるのは、心の底から湧き上がる、純粋な興奮だけだ。

ふわりと体が浮き、僕たちは風に乗った。風のトンネルを抜けた先、そこに広がっていたのは、言葉を失うほどの絶景だった。

空には翠色の月と黄金色の月が並んで浮かび、眼下には光る川が蛇行する、どこまでも広大な森が広がっていた。見たこともない色の花々が咲き乱れ、空気は甘い花の香りで満ちている。

これが、世界の本当の姿。

僕は鞄から新しい羊皮紙を取り出し、震える手でペンを握った。祖父が夢見た、そして僕が今まさに目にした、新しい世界の最初の一筆を記すために。

僕たちの地図には、まだ何も描かれていない。この世界の果ては、どこまで続いているのだろう。
胸の高鳴りは止まらない。僕の、僕たちの冒険は、今、始まったばかりなのだ。

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