星屑の海を渡る船

星屑の海を渡る船

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第一章 白紙の招待状

僕の祖父は、冒険家だった。書斎の壁を埋め尽くす色褪せた世界地図には、無数の赤いピンが打たれている。アマゾンの奥地、サハラの砂丘、ヒマラヤの高峰。そのどれもが、祖父がその足で踏みしめた場所だった。子供の頃、僕はその武勇伝を聞くのが何よりも好きだった。焼けた肌に深い皺を刻んだ祖父が、羅針盤の傷を指でなぞりながら語る物語は、どんな絵本よりも僕の心を躍らせた。

しかし、僕は祖父とは似ても似つかぬ人間に育った。冒険に憧れながら、その実、未知を恐れ、変化を嫌う。僕の冒険は、古書店で手に入れた古地図の染みを眺め、そこに描かれた見知らぬ土地に思いを馳せるだけの、安全で埃っぽい机上の空論に過ぎなかった。

その祖父が、半年前、静かに旅立った。病室のベッドの上で、彼は最後の最後まで窓の外の空を見ていたという。まるで、次なる冒険の空路を探すかのように。

祖父の死後、僕は遺品整理のために、何年も足を踏み入れていなかった彼の書斎に入った。インクと古い紙の匂いが、記憶の扉を軋ませる。壁の地図、棚に並ぶ探検記、使い古された登山用具。そのすべてが、祖父という人間の生きた証だった。

整理を始めて数時間後、僕はマホガニーの机の隠し引き出しを見つけた。中には、古びた羊皮紙が一枚と、小さなメモがぽつんと置かれていただけ。羊皮紙を広げてみると、それは奇妙なことに、ただの白紙だった。染みひとつない、真っ白な地図。がっかりしてそれを置こうとした時、メモの文字が目に飛び込んできた。

『最後の冒険へ。お前も来るか?』

祖父の、見慣れた力強い筆跡だった。心臓が跳ねた。最後の冒険? 僕も来るか、だと? まるで、僕がこの引き出しを見つけることを知っていたかのような言葉だ。僕はもう一度、白紙の地図を手に取った。窓から差し込む西日が、羊皮紙を琥珀色に染める。その瞬間、僕は息を呑んだ。

光が当たった部分に、まるで秘められたインクが熱に炙り出されるように、青白い線が淡く浮かび上がったのだ。それは複雑な航路図だった。そして、その終着点には、震えるような文字でこう記されていた。

『星屑の海』

聞いたこともない地名だった。僕は書斎中の地図帳を引っ張り出したが、そんな名前の海はどこにも存在しなかった。白紙の地図、存在しない海、そして僕を誘う祖父の言葉。それは、僕の退屈な日常に投げ込まれた、謎めいた招待状だった。この日を境に、僕の机上の冒険は、終わりを告げた。

第二章 星へ向かう船

祖父の地図が示す出発点は、古びた灯台がぽつんと立つ、寂れた港町だった。潮の香りが濃く、カモメの鳴き声だけがやけに大きく響く。僕はわずかな荷物とけして多くはない貯金を手に、この町へやってきた。祖父が残した航路図だけが、僕の羅針盤だった。

港の片隅に、祖父が言い残していた小型の木造船が、静かに繋がれていた。船体には『ステラ号』と、掠れた文字で書かれている。星を意味するその名が、これから向かう旅を暗示しているようだった。僕は本で得た知識だけを頼りに、食料と水を積み込み、震える手で舫い綱を解いた。ぎしり、と船がきしむ。僕の心臓も、同じ音を立てていた。

沖へ出ると、陸の景色はあっという間に遠ざかった。見渡す限り、青。空の青と、海の青。その境界線が曖昧になるほどの、圧倒的な孤独が僕を包み込んだ。最初の数日は、凪いだ海と満点の星空に感動する余裕もあった。しかし、自然はすぐにその牙を剥いた。

三日目の夜、空が不気味な鉛色に染まり、風が唸りを上げた。海は黒い獣のように猛り狂い、ステラ号は木の葉のように翻弄された。マストが悲鳴を上げ、打ち付ける波が甲板を洗い、僕の矮小な存在を嘲笑うかのようだった。恐怖で動けず、舵にしがみつくだけで精一杯だった。ああ、ここで終わりか。祖父は、こんな恐怖を幾度も乗り越えてきたというのか。

意識が遠のきかけたその時、闇の中から、別の船の灯りが見えた。嵐の中を、まるで散歩でもするかのように悠々と進む、一回り大きな漁船だった。漁船から投げられたロープが、奇跡的に僕の腕に絡みついた。

助けられた僕は、漁船の船内で一杯の熱いスープを差し出された。目の前には、深く日焼けした顔に、白い髭を蓄えた老人が座っていた。彼はカイと名乗った。

「あんた、リョウジの孫だろう」

カイは僕の顔を見るなり、そう言った。リョウジは、祖父の名前だ。驚く僕に、彼は続けた。

「その船はステラ号。リョウジが宝物にしとった船だ。あいつ、まさか孫に無茶な冒険をさせるとはな」

カイは祖父の旧友だった。この海域で漁師をしながら、いつか祖父がここを訪れるのを待っていたのだという。彼は多くを語らなかったが、その目は海の深さにも似た、穏やかさと厳しさを湛えていた。

嵐が去った後、カイは壊れかけたステラ号を修理してくれた。そして、「リョウジとの約束がある」とだけ言い、僕の航海に同行することになった。無口だが頼もしいカイの存在は、僕の心に小さな灯台の光を灯してくれた。彼と交わす短い言葉、彼が教えてくれる星の読み方、風の匂い。その一つ一つが、本の中にはなかった、生きた知識となって僕に染み込んでいった。僕は初めて、冒険の本当の肌触りを感じ始めていた。

第三章 星屑の海と優しい嘘

カイが仲間になってから二週間が過ぎた。僕たちは祖父の地図が示す最終目的地へと、着実に近づいていた。ある晩、カイが空を指さし、「そろそろだ」と呟いた。地図によれば、この先の海域が『星屑の海』のはずだった。

夜が深まり、月が雲に隠れた、まさにその時だった。それは、起きた。

「リク、海を見てみろ」

カイの声に促され、船べりから海面を覗き込んだ僕は、言葉を失った。

海が、光っていた。

無数の、青白い光の粒が、漆黒の海の中から湧き上がるように輝いている。それはまるで、夜空の天の川をそのまま海に溶かし込んだかのようだった。船が進むたびに、航跡が光の尾を引き、幻想的な光景が目の前に広がる。夜光虫だ。知識としては知っていた。だが、目の前で繰り広げられる光景は、僕の貧弱な想像力を遥かに超えていた。ここが、星屑の海。祖父が目指した最後の場所。僕は甲板に膝をつき、その神々しいまでの美しさに涙を流した。来てよかった。心の底からそう思った。

「きれいだろう。リョウジも、この景色が大好きだった」

静かに隣に立ったカイが言った。僕は感動に震えながら、彼に尋ねた。

「じいちゃんは、ここで何をしようとしてたんですか? これが、最後の冒険の目的なんですか?」

その問いに、カイはしばらく黙り込んだ。そして、ゆっくりと、重い口を開いた。彼の声は、凪いだ夜の海のように静かだった。

「リク、よく聞け。これから話すことは、お前にとっては辛い真実かもしれん」

カイが語り始めた物語は、僕の予想を、僕が抱いていた祖父への憧れを、根底から覆すものだった。

「リョウジはな、不治の病に侵されていた。もう、長くはないと自分で分かっていたんだ」

心臓が、冷たい手で鷲掴みにされたような衝撃が走った。

「最後の冒険、というのは嘘じゃない。だが、その冒険のゴールは、新しい発見でも、未知の大陸でもなかった。あいつは……ここで、自分の人生を終えるつもりだったんだ」

星屑の海は、祖父が自らの死に場所に選んだ場所だった。この美しい海に抱かれて、静かに消えていくこと。それが、偉大な冒険家、リョウジの最後の、そして最も個人的な冒険だったのだ。

「じゃあ、あのメモは? 『お前も来るか?』っていうのは……」

「あれは、リョウジがお前に残した、最後の贈り物だよ」とカイは言った。「あいつは、お前が自分に憧れながらも、一歩を踏み出せずにいることを、誰よりも知っていた。だから、嘘をついた。お前をこの場所へ導くための、優しい嘘だ。自分の死を見せるためじゃない。お前に、本当の冒険を始めさせるために。この美しい景色を、お前自身の目で見てほしかったんだ」

僕は愕然とした。追い求めてきたゴールは、祖父の墓標だった。僕を突き動かした招待状は、僕を現実の世界へ送り出すための、祖父の巧妙で、あまりにも優しい策略だった。感動は混乱に変わり、やがて、どうしようもない悲しみと、祖父への深い愛情が入り混じった熱い塊が胸にこみ上げてきた。星屑の海は、変わらず美しく輝いている。だが、その光は今、僕にはあまりにも切なく見えた。

第四章 僕の水平線

星屑の海に、僕たちは三日留まった。その間、僕はほとんど口を利かず、ただ光る海と、頭上に広がる本物の星空を交互に眺めて過ごした。祖父の死の真実、そして彼の深い愛情。その二つが、僕の中で激しくぶつかり合っていた。憧れの冒険家は、僕が思うよりずっと孤独で、そしてずっと優しい男だった。

三日目の朝、僕はカイに言った。

「じいちゃんの気持ち、少しだけ分かった気がします」

カイは何も言わず、ただ静かに頷いた。

「じいちゃんは、僕に宝の地図をくれたんじゃないんですね。宝を探すための、最初の『一歩』をくれたんだ」

そうだ、とカイが短く答えた。

「リョウジは、お前に結果を渡したかったんじゃない。冒険という『過程』そのものを、味わってほしかったんだ。自分の足で立ち、自分の目で世界を見て、自分の心で感じる。その尊さをな」

その言葉が、僕の中の霧を晴らした。僕は祖父の死を悼む涙ではなく、感謝の涙を静かに流した。彼は死の間際まで、僕のことを見ていてくれた。臆病な孫の背中を、最も彼らしいやり方で、力強く押してくれたのだ。

僕はカイに深く頭を下げた。

「カイさん、本当にありがとうございました。もう大丈夫です」

僕の顔を見て、カイは初めて、皺くちゃの顔をほころばせて笑った。「リョウジにそっくりな目をするようになったな」

港に戻る途中、僕はカイに別れを告げた。

「僕は、このまま旅を続けます」

「どこへ行くんだ?」

「分かりません」僕は晴れやかに笑って答えた。「でも、この世界のどこかに、まだ僕の知らない『星屑の海』がきっとある。それを見つけに行きたいんです。自分の力で」

カイは僕を止めなかった。彼は僕の肩を力強く叩くと、自分の漁船へと移っていった。

「リク、いいか。冒険ってのはな、目的地に着くことじゃねえ。いつだって、水平線の向こうを目指し続ける、その心意気のことだ」

カイの船が遠ざかっていく。僕は一人、ステラ号の舵を握った。船は、僕の意思に応えるように、滑らかに進み始めた。もう、僕の心に恐怖はなかった。あるのは、これから出会うであろう未知への、静かな高揚感だけだ。

僕は、星屑の海が輝いていた方角とは違う、全く新しい方角へと舵を切った。目の前には、どこまでも続く青い水平線が広がっている。それは、誰のものでもない、僕だけの水平線だった。

「ありがとう、じいちゃん」

僕は空に向かって、そっと呟いた。

「僕の冒険は、ここから始まるよ」

風が帆を孕み、ステラ号は力強く前へ進む。その航跡は、まるで白紙の地図に新たな航路を描くように、青い海にくっきりと刻まれていった。

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