第一章 平穏なる城壁の侵入者
田中健一の人生は、精密に組まれたドミノ倒しのようなものだった。寸分の狂いもなく設計され、決められたルートを静かに、確実に進んでいく。朝六時に起床し、きっかり七分間でシャワーを浴び、白米百五十グラムと焼き鮭、ほうれん草のおひたしという完璧な布陣の朝食を摂る。家を出る時間は七時四十五分。市役所市民課のデスクに座るのは八時二十八分。全てが完璧、全てが予定調和。それが彼の美学であり、心の安寧だった。
その完璧なドミノが、ある火曜日の夜、予期せぬ指によって弾かれた。
原因は、彼の部屋のど真ん中に、突如として現れた半透明の男だった。
「よぉ、ブラザー! 今夜はパーッとやろうぜ!」
蛍光灯の光を透かす、七〇年代の映画スターのような派手なシャツを着た男が、陽気な口調で言った。田中は、夕食のために正確に計量したパスタを茹でながら、ぴたりと動きを止めた。キッチンのタイマーが刻む無機質な音だけが、部屋に響いている。
「……どなたでしょうか」
「俺か? 俺はジョー! しがないコメディアンさ!」
自称ジョーは、ウインクしながら親指を立てた。しかし、その体はゆらゆらと揺らめき、背後にある本棚の背表紙が透けて見えている。幻覚だ。過労に違いない。田中はそう結論付け、努めて冷静にパスタを湯切りした。
「不法侵入です。出ていってください。通報しますよ」
「おっと、そりゃ手厳しい! でも残念、俺っち、たぶん幽霊なんだわ。壁とか、ドアとか、スイスイだぜ?」
言うが早いか、ジョーは壁に向かって歩き出し、何の抵抗もなくその身を壁に吸い込ませ、隣の部屋から「おじゃましまーす!」とひょっこり顔を出した。
田中は、生まれて初めて自分の人生の設計図が破り捨てられる音を聞いた気がした。
その日から、田中と幽霊ジョーの奇妙な同居生活が始まった。ジョーは生前の記憶が曖昧で、自分がなぜ死んだのか、なぜここにいるのかも覚えていないらしい。ただ一つ、彼の魂に深く刻み込まれているのは、「人を笑わせなければならない」という強烈な使命感だけだった。
「なあ田中、お前、無愛想すぎんだよ。人生はショータイム! もっと笑え!」
「私の人生のモットーは平穏無事です。ショータイムなど迷惑千万です」
ジョーは田中の無表情をこじ開けようと、ありとあらゆるイタズラを仕掛けた。田中の定規コレクションを宙に浮かべて行進させたり、朝のコーヒーに塩を混入させたり(もちろん、田中が飲む直前にポルターガイストで砂糖と入れ替えるのだが)、そのたびに田中は眉間の皺を深くした。彼の完璧なドミノは、毎日毎日、予期せぬ方向へ倒れていく。平穏だったはずの城壁は、このやかましい侵入者によって、少しずつ崩壊し始めていた。
第二章 不本意な共犯者
ジョーの巻き起こす騒動は、田中のアパート内にとどまらなかった。彼が市役所に出勤すれば、ジョーも当然のようについてきた。
「よーし、今日はこのお堅い役所を笑いの渦に叩き込んでやるぜ!」
そう宣言したジョーは、市民課の窓口で、田中の背後からこっそり書類を宙に浮かせたり、自動印鑑マシーンをサンバのリズムで動かしたりと、やりたい放題だった。当然、怪奇現象の犯人だと疑われるのは田中だ。
「田中くん、最近少し疲れているんじゃないかね。少し休んだらどうだ?」
上司に心配そうな顔で言われ、田中は胃のあたりをきりきりと締め付けられる思いだった。違うんです、僕の背後にいる幽霊のせいなんです、などと説明できるはずもない。
しかし、奇妙な変化も起き始めていた。
ある日、いつも仏頂面で手続きに来る老婆が、サンバのリズムで判を押す印鑑マシーンを見て、くつくつと肩を震わせて笑ったのだ。
「あらまあ、面白い機械ねえ」
その日以来、老婆は窓口に来るたびに田中に世間話をするようになった。アパートの隣に住む、挨拶さえろくに交わしたことのない女子大生は、ベランダでひとりでに踊る洗濯物を見て腹を抱えて笑い、「田中さんって、面白い人だったんですね!」と話しかけてくるようになった。
田中は困惑した。彼の「平穏無事」な世界は、ジョーによってめちゃくちゃにされている。それなのに、皮肉なことに、世界は以前より少しだけ色鮮やかに見えた。人々が笑うと、空気が温かくなることを、彼は三十五年間の人生で初めて知った。
「どうだ、田中! 笑いってのは、世界を救うんだぜ!」
得意満面のジョーに、田中はため息をつきながらも、完全には否定できない自分に気づいていた。
「……あなたは何者なんですか。なぜ、そこまでして人を笑わせたいんですか」
田中の問いに、ジョーは一瞬、陽気な仮面の奥に寂しげな色を浮かべた。
「さあな……。思い出せねえんだ。でも、やらなきゃいけないってことだけは、分かるんだよ」
その表情に、田中は初めて、ただの迷惑な幽霊ではない、何か別の感情を抱いた。彼はジョーの過去を知りたいと思った。それは、彼の完璧なスケジュールにはない、完全に予定外の行動だった。
第三章 アッパーカットの真相
田中は行動を開始した。手がかりは、ジョーが時折口にする「アッパーカット・ジョー」という芸名と、彼がこのアパートの部屋に異常に執着していることだけだ。休日に図書館へ足を運び、古い新聞の縮刷版や地域の郷土資料を片っ端から調べ始めた。
何日もかけた調査の末、田中は十年前に発行された地方新聞の小さな囲み記事に、その名前を見つけた。
『将来有望な若手芸人、悲劇の死』
記事には、くしゃくしゃの笑顔でピースサインをする、若き日のジョーの写真が載っていた。本名は、上条譲(じょうじょう ゆずる)。芸名、アッパーカット・ジョー。
記事を読み進める田中の指が、震えた。
上条譲、享年二十八歳。死因は、交通事故。
彼は、アパートの前でトラックに轢かれそうになった小学生の男の子を、突き飛ばして庇ったのだという。男の子は軽傷で済んだが、上条は帰らぬ人となった。記事の最後は、こう締めくくられていた。
『目撃者の話によると、上条さんは息を引き取る間際、泣いている男の子を見て、「あの子を、笑わせてやりたかったなあ」と、かすかに呟いていたという』
その事故があった場所は、今、田中が住んでいるアパートの目の前の交差点だった。そして、事故の日付は、十年前の七月十五日。
田中は、自分の古いアルバムを引っ張り出した。そこには、小学六年生の時の彼が、腕に包帯を巻いて写っている写真があった。日付は、七月二十日。彼はその夏、大きな事故に遭い、その前後の記憶を一部失っていた。両親を早くに亡くし親戚の家で育った彼は、その事故をきっかけに、さらに感情を内に押し込め、波風の立たない「良い子」として生きることを自らに課したのだ。
全てのピースが、カチリと音を立ててはまった。
あの日、自分を庇って死んだのが、ジョーだった。
ジョーが記憶を失ってもなお「人を笑わせたい」と願い続けていたのは、泣いていた幼い自分に向けられた、彼の最後の、そして果たされなかった想いだったのだ。
部屋に戻ると、ジョーがいつものように「おかえり、ブラザー!」と陽気に迎えた。
田中は、その姿をまっすぐに見つめた。目の前にいるのは、迷惑な幽霊ではない。自分の命の恩人だ。
「……ジョーさん」
初めて名前で呼ぶと、ジョーはきょとんとした顔をした。
「俺は、あなたのせいで、完璧な人生を台無しにされました」
「お、おう……そりゃ、悪かったな……」
「でも、」と田中は続けた。彼の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、彼が何年も忘れていた、熱い感情の奔流だった。「あなたのせいで、僕は、十年ぶりに……ちゃんと、生きている気がするんです」
第四章 人生最初で最後のステージ
田中は決意した。ジョーの最後の願いを、自分が叶えるのだと。
「ジョーさん。僕に、お笑いを教えてください」
「はあ? 田中、お前、熱でもあるのか?」
「本気です。地域の公民館で、来月、素人演芸大会があります。僕があなたの代わりに、お客さんを笑わせます」
そこからの日々は、田中の人生で最も混沌とし、そして最も輝かしい時間となった。ジョーのスパルタ指導のもと、発声練習、表情筋のトレーニング、そしてコントの練習が始まった。ネタは、ジョーが生前、全くウケなかったという鉄板の(彼だけがそう思っている)コント、「几帳面すぎる男」。まるで田中のためのようなネタだった。
田中は必死だった。ぎこちない動きでツッコミの練習をし、鏡の前で引きつった笑顔を作る。その姿は滑稽そのものだったが、彼の目は真剣だった。
そして、演芸大会当日。
舞台袖で出番を待つ田中は、緊張で膝が笑っていた。
「おい田中、ビビってんのか?」
隣には、半透明のジョーが仁王立ちしている。
「当たり前です。僕の人生の設計図に、こんな予定はなかった……」
「設計図なんて、破り捨てちまえよ」とジョーは笑った。「お前の人生は、お前のモンだ。さあ、行ってこい! 俺の、最高の相棒!」
田中の名前が呼ばれる。彼は深呼吸を一つして、眩しいスポットライトが待つステージへと足を踏み出した。
コントは、お世辞にも上手いとは言えなかった。セリフは棒読みで、動きはロボットのようだ。客席からは、失笑とも苦笑ともつかない空気が流れる。
だが、田中は諦めなかった。彼は、舞台袖で見守るジョーの姿を思い浮かべた。命をかけて自分を救い、十年もの間、たった一つの願いを抱き続けてきた男の姿を。
コントのクライマックス。田中は、ネタの台本にはない言葉を叫んだ。
「僕は、ずっと笑い方が分かりませんでした! でも、ある迷惑で、お節介で、最高に面白い幽霊が、僕に教えてくれたんです! 誰かが笑うと、世界はこんなにも温かいんだって!」
その必死の叫びに、会場の空気が変わった。観客たちは、彼の不器用な姿の奥にある、純粋な想いを感じ取ったのかもしれない。一人、また一人と、温かい笑い声が上がり始め、やがてそれは会場全体を包む大きな拍手と喝采に変わっていった。
舞台袖で、ジョーはその光景を静かに見ていた。彼の体は、ゆっくりと金色の光に包まれ、透き通っていく。満足そうな、本当に幸せそうな笑顔を浮かべていた。
「……最高の、ショータイムだったぜ、田中」
光が強まり、ジョーの姿が消えかけたとき、彼は最後に振り向いて、最高の笑顔で親指を立てた。
「ありがとな、相棒」
その言葉を最後に、彼は光の粒子となって、穏やかに消えていった。
後日。田中健一は、市役所のデスクで相変わらず仕事をしていた。だが、彼の表情は以前とは全く違っていた。窓口に来る市民一人ひとりに、柔らかな笑顔で話しかけている。
彼の部屋は、今もきれいに片付いている。しかし、机の上には一つだけ、彼の完璧な美学からは外れたものが飾られていた。それは、演芸大会で貰った、プラスチック製の安っぽい参加賞のトロフィー。
田中はそのトロフィーを指でそっと撫でた。もう、あのやかましい声は聞こえない。けれど、彼の心の中には、確かにジョーが生きていた。
人生はドミノ倒しなんかじゃない。いつ、どこで、誰が、どんな指で触れてくるか分からない。でも、それでいい。その予期せぬ一押しこそが、人生を面白くするのだから。
田中は窓の外の青空を見上げ、誰に言うでもなく、小さく、しかし確かな声で呟いた。
「見てますか、ジョーさん。僕、今、ちゃんと笑えてますよ」
その笑顔は、彼が人生で手に入れた、最高の宝物だった。