第一章 忘れ去られた予言ノートと鳩の歌声
木ノ下悟、30歳独身。彼の人生は、まるで図書館の最奥にある、埃をかぶった哲学書のようだった。誰もが知っているが、手に取る者は稀で、結局は存在しないかのように静かに時を過ごす。悟自身、それを不満に思うこともなく、毎日同じ時間に起床し、同じルートで通勤し、同じ図書館のカウンターに座り、同じ顔ぶれの常連客に、同じ笑顔で応対する。平穏、しかし刺激とは無縁の世界。そんな彼の日常は、ある日の閉館後、たった一冊の古びたノートによって、音もなく、そして盛大に打ち破られた。
その夜、悟は閉館間際、返却された本の山を分類していた。ふと、誰もが読み終えて本棚に戻すのを忘れ去られたかのような、分厚い歴史書の陰に隠れるように、一冊の薄汚れたノートが挟まっているのを見つけた。革張りの表紙は擦り切れ、ページは黄ばみ、どう見ても数十年、いや、もしかしたら百年以上前のものに見えた。好奇心に駆られて開くと、墨で書かれたような達筆だが、妙に歪んだ文字が目に飛び込んできた。
「明日、午前十時。街の象徴、巨大時計台の針が同時に停止し、その直後、鳩が歌い、猫が踊り出すだろう」
悟は思わず吹き出した。「まさか。古文書収集家の誰かが、冗談で書いたメモだろう」と、肩をすくめた。しかし、妙に具体的な時刻と場所、そして想像を絶する事態が、なぜか彼の心に小さなしこりのように残った。彼はそのノートを一時的に自分の引き出しにしまい、いつも通りの静かな夜を過ごした。
翌朝、悟は通勤中に巨大時計台を見上げた。いつものように正確な時を刻んでいる。彼は昨晩のノートの記述を思い出し、クスリと笑った。しかし、ちょうど時計台の真下を通り過ぎようとした、その時だった。けたたましい轟音と共に、時計台の長針と短針が、まるで時が止まったかのように「十時十分前」を指したまま、ぴたりと停止した。街行く人々がざわつき、何事かと空を見上げる。悟の背筋に冷たいものが走った。まさか、本当に?
その直後だった。どこからともなく、これまで聞いたことのないような、澄み切ったソプラノの歌声が響き渡った。見上げると、時計台の屋根に留まっていた数十羽の鳩たちが、一斉に胸を張り、美しく、しかし完全に場違いな声量で、オペラのアリアを歌い始めたのだ。「ああ、麗しき故郷よ、遥かなる空よ!」――なぜか歌詞まで聞き取れる。街の人々は顔を見合わせ、恐怖と困惑、そして奇妙な笑いに包まれた。そして、さらに信じられない光景が繰り広げられた。歌声に誘われるように、路地裏から出てきた猫たちが、二足歩行でゆらゆらと立ち上がり、まるでバレエダンサーのように優雅な、あるいはシュールなステップを踏み始めたのだ。彼らはしなやかな尾を振り、時には高く跳ね上がり、時計台から響く鳩の歌声に合わせて、完璧なタイミングでポーズを決める。
悟は、その場で立ち尽くした。脳が現実を受け入れることを拒否していたが、彼の五感は、目の前の異常事態をはっきりと捉えていた。鳩のソプラノはあまりにも鮮やかで、猫たちの舞はあまりにも現実離れしていた。あのノートは、本物だったのだ。しかし、なぜこんなにもバカバカしい予言ばかりが書かれているのだろう? 悟の心は、得体の知れない不安と、これまで経験したことのない奇妙な高揚感で満たされた。彼の「埃をかぶった哲学書」のような日常は、一瞬にして、ページを捲るたびに奇妙な落とし穴が待つ、悪夢のような、それでいて目が離せないコメディへと変貌を遂げたのだった。
第二章 予言回避の悪あがき、泥沼のコメディ
予言ノートの存在を確信した悟は、一気にその薄汚れた紙切れに没頭した。図書館の裏の休憩室で、彼は誰にも気づかれないよう、ページをめくり続けた。そこに書かれていたのは、鳩と猫の歌と踊りだけではなかった。
「三日後、午後一時。隣町のパン屋『ふかふか堂』の店主は、突如として全身タイツに身を包み、店の前で空中ブランコを披露するだろう」
「一週間後、午前十時半。市長は定例記者会見で、犬の鳴き声しか出せなくなるだろう」
「二週間後、午後三時。公園の噴水から、炭酸飲料が湧き出すだろう」
どれもこれも、世界に何の影響も与えない、究極にどうでもいいが、想像すると腹筋がよじれるほど滑稽な予言ばかりだ。悟は途方に暮れた。こんな馬鹿げた予言をどうすれば阻止できるのか。あるいは、なぜ阻止しなければならないのか。彼は心配性ゆえに、この事態を放置することに耐えられなかった。
まず、パン屋の店主の予言だ。悟はパン屋の店主が腰を痛めていると知っていたので、空中ブランコなどさせたら大怪我をすると心配した。彼はパン屋の開店前に張り込み、店主が店から出てくるや否や、「申し訳ありません、店主さん! 今日はどうか、店の外に出ないでください!」と叫びながら、店のドアにバリケードを築こうとした。しかし、悟の慌てふためく様子を見た店主は、「あらあら、木ノ下さん、どうしたんです? そんなにうちのパンが食べたいの? 今日は新作のメロンパンがあるわよ!」と笑顔で招き入れた。悟が必死に説得を試みる間にも、店の前には一台のトラックが到着した。中から出てきたのは、サーカス団員らしき男たち。彼らは「店主さん、頼まれていた看板の取り付けにきました!」と叫び、巨大な空中ブランコのような構造物を店の軒先に設置し始めた。どうやらパン屋の店主は、店の宣伝のために、サーカスを模したアトラクションを企画していたらしい。悟の必死な説得は、店主の「宣伝企画」という真実の前に、ただの怪しい行動として処理された。そして、予言通り、午後一時。店主は全身タイツを着てブランコに乗り、店の名前を叫びながら、腰を痛めているとは思えない身のこなしで宙を舞った。拍手喝采の中、悟だけが冷や汗を流していた。
次に、市長の予言だ。悟は市長が犬の鳴き声しか出せなくなる、という事態を阻止するため、記者会見の会場に忍び込んだ。そして、市長が壇上に上がる直前、喉に効くという民間療法で有名なハーブキャンディを差し出そうとした。だが、心配しすぎた悟は、キャンディを渡すタイミングを誤り、市長がまさに挨拶を始めようとしたその瞬間に、慌てて市長の口元にキャンディを押し付けてしまった。市長は驚き、キャンディを喉に詰まらせそうになった。秘書たちが慌てて背中を叩くと、市長の口から出たのは「ワン! ワンワン!」という、助けを求めるような犬の鳴き声だった。記者たちは一斉にカメラを向け、シャッター音が鳴り響いた。悟は膝から崩れ落ちた。予言を阻止しようとすればするほど、より事態は混迷を極め、より滑稽な形で現実のものとなる。このノートは、彼を試しているのか?
悟は、とうとう同僚の田中浩二(たなか こうじ)に相談することにした。田中は悟の唯一の友人で、楽観的で、どんなことでも笑い飛ばす陽気な男だ。悟が興奮気味にノートの予言と、それが現実になった一部始終を語ると、田中は「ははは! お前、疲れてるんだよ、さとる! そんな古ぼけたノートに騙されちゃダメだ!」と腹を抱えて笑った。しかし、悟が「じゃあ、この予言を見てくれ! 明日、公園の噴水から、炭酸飲料が湧き出すらしい!」と次のページを指差すと、田中は半信半疑ながらも、面白半分で公園に行くことに同意した。
そして翌日、二人が公園で待機していると、予言通り、午後三時。噴水の水が突然、赤や緑のカラフルな泡を立て始めた。水ではなく、甘ったるい炭酸の香りが漂い、泡が弾ける音まで聞こえる。子供たちが大喜びで群がり、口を大きく開けて炭酸水を浴びている。田中は唖然として、口を開けたまま噴水を見つめていた。彼の顔が、信じられないものを見たという困惑と、笑いをこらえきれない滑稽さで歪んでいた。
「悟、お前…これは、とんでもないものを拾っちまったな…」田中は震える声で言った。悟はため息をついた。予言は、確実に、そして最も馬鹿げた形で現実となる。そして、それを避けようとすればするほど、自分はより深い泥沼へと足を踏み入れていく。悟の不安は増大したが、同時に、この奇妙な状況に対する、ある種の諦めと、奇妙な期待感が芽生え始めていた。次に何が起こるのか、もはや恐ろしさよりも、好奇心が勝っていた。
第三章 裸踊りの夜、価値観の転換点
予言ノートの存在を知った田中は、最初は面白がっていたものの、次第に悟の奇妙な「呪い」を真剣に受け止めるようになった。二人は予言の回避策を練るが、どれもこれも失敗に終わり、事態をより悪化させるだけだった。例えば、「商店街の会長が、なぜか『かぐや姫』の衣装で餅つきをする」という予言に対して、悟が餅つき大会を中止させようとした結果、会長が「中止は困る! 私の華麗な衣装を見てほしいのに!」と暴走し、餅つきの代わりに商店街の真ん中で「かぐや姫の舞」を披露することになったりした。
そんなある日、悟はノートの奥底に、これまでとは少し異なる筆跡で書かれた予言を見つけた。
「明後日の夜、悟は街の中心広場で、人前で裸踊りをする羽目になるだろう」
悟は血の気が引くのを感じた。これまでは他人の予言だった。しかし、今回は自分自身。しかも、人前で裸踊り。彼の人生最大の悪夢だ。極度の心配性で、人前に出るのが苦手な悟にとって、これだけは絶対に避けなければならない事態だった。彼は青い顔で田中を呼び出し、ノートを突きつけた。
「田中! これだけは、これだけは避けなければならない! 僕の人生が終わる!」
田中もさすがに神妙な顔つきになった。「うーん、これはヤバいな。だが、これまでも避けようとすると裏目に出てきたぞ…」
悟は田中と相談し、あらゆる手段を講じることにした。まず、明後日の夜は家に閉じこもる。誰にも会わない。カーテンを閉め、電話も出ない。もし無理やり連れ出されそうになったら、病気だと嘘をつく。完璧な計画だ、と悟は胸をなでおろした。
しかし、明後日の夜。その日は、よりによって田中の30歳の誕生日だった。田中は悟がいくら「体調が悪い」と主張しても聞き入れず、「何を言ってるんだ! 悟なしじゃ誕生日パーティーは始まらないぞ! 貸しがあるんだからな!」と無理やり悟を街の中心広場にあるレストランでのパーティーに連れ出した。広場は普段から人通りが多く、その日もイベントか何かで賑わっていた。悟は嫌な予感がしたが、田中の強い誘いを断り切れなかった。
レストランは盛大に飾り付けられ、DJブースまで設置されていた。田中は上機嫌で、友人たちと談笑している。悟は隅の席で、グラスを片手に落ち着かない様子で周囲を見回していた。これさえ乗り切れば、予言は外れる。そう自分に言い聞かせた。
パーティーが最高潮に達したその時、突然、会場全体が停電に見舞われた。真っ暗闇の中、客席から悲鳴と困惑の声が上がる。DJブースも沈黙し、音楽が途絶えた。悟は思わず目をつぶった。しかし、数秒後、再び電気が戻ると、DJブースからはなぜか、場違いなアップテンポのラテン音楽が流れ出した。DJが慌てて止めようとするが、機械の故障か、止まらない。
そして、そのタイミングで、誰かが悟の背中を押した。彼はよろめき、会場の中心に設置されていた小さなステージの上に上がってしまった。スポットライトが、なぜかそのステージを照らす。
「木ノ下さん、お誕生日おめでとう!」
酔っぱらった田中の友人が、悟を田中と間違えて、勢いよく悟の服を脱がし始めたのだ。悟は必死に抵抗するが、酒の入った友人の力は強く、さらに彼を田中だと勘違いした友人たちが次々に加勢し、あっという間に悟の服は剥ぎ取られてしまった。残ったのは、なぜか腰に巻かれた一枚のバスタオルだけ。
ラテン音楽が鳴り響く中、スポットライトを浴び、バスタオル一枚の姿でステージに立つ悟。彼は羞恥心で顔を真っ赤にし、全身が凍り付いたようだった。しかし、次の瞬間、彼の脳裏に閃光が走った。
「裸踊り…これだ…」
予言は回避できない。避けても、避けても、より最悪な形で実現する。ならば、いっそ。いっそ、受け入れてしまえば…?
悟は、ふっと全身の力が抜けるのを感じた。そして、これまでの人生で一度もやったことのないような、思い切った行動に出た。彼はバスタオルを振り回し、ラテン音楽に合わせて、見よう見まねでぎこちなく踊り始めたのだ。最初はまばらだった観客の視線が、次第に一点に集中する。やがて、誰かがクスクス笑い始め、それが会場全体に伝染した。そして、彼の滑稽な姿に、拍手と笑い声が響き渡った。
悟は、生まれて初めて、他人の笑いを恐れることなく、全身で受け止めた。羞恥心はあったが、それ以上に、人生の極致で体験した「解放感」が彼の心を支配した。彼は踊りながら、自分がいかにちっぽけなことで悩んでいたのかを悟った。予言は、彼にとっての「呪い」ではなく、もしかしたら「導き」だったのかもしれない。この夜、悟の価値観は根底から揺らぎ、彼は今まで閉ざしていた自分を、少しだけ解放したのだった。
第四章 最も馬鹿げた行動の先にある輝き
裸踊りの夜から数日後、悟の心境は劇的に変化していた。これまで常に最悪の事態を想定し、あらゆるリスクを回避しようとしていた彼が、今では「どうせ予言通りになるなら、いっそ楽しんでしまえ」という、ある種の達観した境地に達していた。あの夜の恥ずかしさの極致が、彼を「もうこれ以上、怖いものはない」という境地に導いたのかもしれない。彼の顔には、以前よりも少しだけ、明るい笑顔が増えていた。
そんなある日、悟は予言ノートの最後のページを開いた。これまでとは違う、力強く、しかしどこかユーモラスな筆跡で、こう書かれていた。
「来週の木曜日、悟は『真の自分』と出会い、世界は少しだけ輝きを増すだろう。ただし、それは『最も馬鹿げた行動』の先に訪れる。」
「真の自分」? そして「最も馬鹿げた行動」? これまでの予言とは異なり、抽象的で、しかし何か重要な示唆を含んでいるように思えた。悟は、これまでの経験から、予言を無理に避けようとしないことを決意していた。むしろ、「最も馬鹿げた行動」とは何かを積極的に模索することにした。
彼は図書館の仕事中、これまでなら絶対にしないような行動を取り始めた。例えば、返却された本をあえて逆さまに棚に戻したり、子供向けの絵本コーナーで、真顔でシェイクスピアを朗読してみたり。通勤では、最短ルートではなく、わざわざ遠回りをして見慣れない路地を散策したりもした。周囲の視線は奇妙だったが、悟は気にもしなかった。むしろ、これまで気づかなかった街の片隅の小さなカフェや、古びた壁画を発見し、彼の心は少しずつ豊かになっていった。
そして、来週の木曜日。悟は、とある公園にいた。手には、これまで起こった奇妙な予言の数々を題材にした、自作の紙芝居を持っていた。鳩が歌い、猫が踊る話、市長が犬の鳴き声しか出せなくなった話、そしてパン屋の店主が空中ブランコを披露した話。そして、自分の裸踊りの話も、少し脚色して盛り込んだ。
彼は公園のベンチに座り、通りすがりの親子連れに向かって、大声で呼びかけた。
「さあさあ、皆さん! 奇妙な予言の物語、始まり始まり〜!」
最初は誰も相手にしなかった。奇妙な大人が、たどたどしい絵の紙芝居を広げているだけだ。しかし、悟は諦めなかった。彼は全身全霊で、魂を込めて語り続けた。鳩の歌声を真似て裏声を出したり、猫の踊りを再現しようとして転びそうになったり。その熱演と、あまりにも馬鹿げた物語の内容に、次第に子供たちが集まり始めた。彼らは悟の紙芝居を食い入るように見つめ、時には大笑いし、時には「えーっ!」と驚きの声を上げた。
その様子を、少し離れた場所から、一人の女性が見ていた。彼女は以前、図書館で悟が不器用ながらも親身になって本の探し物を手伝ったことのある、絵本の編集者だった。彼女は悟の奇妙な熱演に惹きつけられ、彼の横にそっと座った。
紙芝居が終わると、子供たちから盛大な拍手と「もっと聞きたい!」という声が上がった。悟は満足げに汗を拭った。
「あの、失礼ですが…あなたの紙芝居、とても面白いですね。」
女性が声をかけた。「特に、あの鳩と猫の話。すごくユニークで、物語の構成も面白い。まるで、現実で起こったかのようなリアリティがありますね。」
悟は驚いた。まさか、自分の奇妙な物語に興味を持つ人がいるとは。彼は、自分の身に起こった予言の数々を、少し照れながら話した。女性は目を輝かせながら耳を傾け、やがて真剣な顔で言った。
「もしよろしければ、このお話、ぜひ絵本にしませんか? あなたのこの奇妙な体験談は、きっと多くの人を笑顔にできると思います!」
悟は、その言葉に目を見開いた。予言ノートが語っていた「真の自分」とは、これだったのかもしれない。馬鹿げた行動を受け入れ、恥を恐れず、自分自身を表現すること。それが、新たな世界への扉を開く鍵だったのだ。予言ノートは、その後の彼の人生から、ひっそりと姿を消した。まるで、その役目を終えたかのように。
悟は、以前よりも、少しだけ笑顔が増えた。目の前の小さな奇跡や、予想外の出来事を、以前のように恐れることはなくなった。むしろ、それらを楽しみ、そこから何か新しい発見があるのではないかと期待するようになった。彼の人生は、もはや埃をかぶった哲学書ではない。それは、ページを捲るたびに、奇妙で、笑えて、そして時々感動的な出来事が飛び出す、色鮮やかな絵本へと変わっていた。彼は、新しい自分として、輝き始めた世界を、軽やかな足取りで歩き始めたのだった。