第一章 英雄、余命三ヶ月にて凱旋す
鈴木三郎、六十五歳、天涯孤独。彼の人生は、うすっぺらな嘘と口先三寸のハッタリで塗り固められていた。そんな彼に、医者は色のない声で告げた。「末期の膵臓癌です。もって、三ヶ月でしょう」。
死の宣告は、不思議なほど心に響かなかった。失うものが何もない人生の終着点としては、上出来なほど静かだった。ただ、虚しかった。誰の記憶にも残らず、石ころのように道端で朽ちていくのは、あまりにも侘しい。
「どうせなら、人生最大のホラを吹いて、派手に散ってやるか」
その思いつきで、鈴木は埃をかぶったボストンバッグ一つを手に、電車を乗り継いだ。向かった先は、二十代の頃に数年だけ住んだことのある、寂れた港町。潮の香りが記憶の扉をこじ開け、錆びついた手すりの感触が妙に懐かしかった。
その夜、港の隅にある場末の居酒屋「かもめ」で、鈴木は熱燗をあおりながら、壮大な物語を紡ぎ始めた。ぎょろりとした目つきの店主と、手持ち無沙汰な数人の漁師を前に、彼は芝居がかった声で言った。
「親父さん、俺のこと、覚えちゃいねえだろうな。無理もねえ。だが、この町は俺に借りがあるはずだ」
怪訝な顔をする一同に、鈴木は畳み掛ける。
「三十五年前、この町を潰そうとした巨大リゾート開発の裏には、海外組織の土地買収計画があった。それを、たった一人で阻止した男がいた。――コードネーム『カモメ』。そう、この俺さ」
店内に、気まずい沈黙が流れる。漁師の一人が「また酔っ払いのたわごとか」と鼻で笑った。だが、カウンターの隅でハイボールを飲んでいた、人の良さそうな顔の若者だけが、目を輝かせて身を乗り出してきた。
「あの、本当ですか!?三十五年前の『磯浜リゾート計画頓挫事件』!町の資料にも、計画が謎の理由で急遽中止になったとしか書かれてなくて、七不思議の一つだったんです!」
若者は早坂健太と名乗った。町の活性化を目指すNPO法人の代表で、郷土史を調べるのが趣味らしい。鈴木は内心(しめた)とほくそ笑み、記憶の引き出しからありったけのディテールをかき集め、もっともらしい嘘を並べ立てた。深夜の埠頭でのスリリングな情報交換、謎の美女との束の間のロマンス、敵のアジトへの単身潜入。話が最高潮に達したとき、健太は感極まったように拳を握りしめていた。
「すごい……!伝説の英雄が、この町に帰ってきてくれたんだ!」
翌日、鈴木が安宿で二日酔いの頭を抱えていると、健太が血相を変えて飛び込んできた。彼の片手には、町の広報誌のゲラ刷りが握られていた。
『速報!町を救った伝説の英雄「カモメ」、三十五年ぶりの凱旋!』
でかでかと印刷された見出しを見て、鈴木は盛大にむせた。事態は、彼の想像を遥かに超える速度で、とんでもない方向へと転がり始めていた。
第二章 喝采と罪悪感のキャッチボール
鈴木のホラ話は、乾いたスポンジが水を吸うように、退屈な日常に飽いていた町の人々の心に染み渡った。彼は一夜にして「鈴木さん」から「カモメさん」になり、町を歩けばあちこちから声がかかった。
「カモメさん、昨日はうちの店の前で、怪しい奴らと睨み合ってたって?さすがだねえ!」
それは単に、野良猫と根競べをしていただけだった。
「カモメさん、この前の大嵐の時、防波堤を一人で点検してくれてたんだって?ありがとう!」
それはただ、高波を見て「死ぬ前にいいもん見たな」と感傷に浸っていただけだった。
鈴木の何気ない行動の一つ一つが、尾ひれどころか背びれ胸びれまでついて、「英雄の美談」として町中を駆け巡った。子供たちには武勇伝をせがまれ、商店街の主婦たちからは「これ食べて精つけて」とコロッケや焼き魚の差し入れが絶えない。
生まれてこの方、感謝されることなどほとんどなかった。他人を出し抜き、利用することしか考えてこなかった人生だ。差し出される温かいコロッケの湯気が目に染みて、鈴木は初めて経験する感情に戸惑っていた。心地よさと、喉に突き刺さるような罪悪感。それは奇妙なキャッチボールのように、彼の心の中で行ったり来たりを繰り返した。
健太を中心に「英雄カモメを讃える会」が正式に発足し、来たる秋祭りでは、鈴木を主役にしたパレードが企画されることになった。打ち合わせと称して公民館に集まる町の人々の顔は、誰もが活き活きとしていた。寂れていた商店街には手作りの歓迎の旗が飾られ、子供たちは「カモメごっこ」に夢中になった。
自分のついた、たった一つの嘘が、澱んでいた町に温かい血を巡らせ、人々の心を一つにしている。その光景を目の当たりにするたび、鈴木の胸は締め付けられた。
(俺は、ただのホラ吹きの末期癌患者だぞ……)
だが、今さら本当のことを言えるはずもなかった。この幸せな勘違いを壊す権利など、嘘の張本人である自分にあるのだろうか。
「カモメさん、本当にありがとう。あなたが帰ってきてくれて、この町は生き返ったようです」
そう言って涙ぐむ老婆の手を握り返しながら、鈴木は決意した。そうだ、最後まで演じきってやろう。この町の人々が望む「英雄」を。それが、ろくでもない人生を送ってきた俺にできる、最初で最後の恩返しなのかもしれない。
死への恐怖よりも、嘘が暴かれる恐怖の方が、遥かに大きくなっていた。
第三章 黒塗りの車と本物のカモメ
祭りまであと二日と迫った日の午後だった。町の唯一の海岸沿いの道路を、場違いなほどに磨き上げられた黒塗りのセダンが、静かに滑るように走ってきた。住民たちは「どこかの偉いさんが視察にでも来たのか」と噂したが、その車は、鈴木が寝泊まりする安宿の前でぴたりと停まった。
運転席から降りてきたのは、上質なグレーのスーツを着こなした、鋭い鷹のような目つきの老紳士だった。彼は宿の帳場で鈴木の名前を告げると、まっすぐに部屋へとやってきた。
ドアをノックする音に、鈴木の心臓が跳ねる。ドアを開けると、老紳士は値踏みするような視線を鈴木に注ぎ、低い、それでいてよく通る声で言った。
「鈴木三郎君、だな。いや……コードネーム『カモメ』と呼ぶべきか」
鈴木は全身の血が凍りつくのを感じた。頭が真っ白になる。なぜ。どうして。自分の考えた、居酒屋の屋号から拝借しただけの、でたらめなコードネーム。それが、なぜこの男の口から。
パニックに陥る鈴木を意にも介さず、老紳士は部屋にずかずかと上がり込むと、独り言のようにつぶやいた。
「まさか、まだ生きていたとはな。我々の組織も甘くなったものだ。あの時の始末が不完全だったとは」
彼は敵対組織の残党で、最後の決着をつけるために来たのだと、簡潔に告げた。そして、核心を突いた。
「三十五年前、お前が奪ったはずのマイクロフィルム……どこに隠した?我々はそれをずっと探していた」
マイクロフィルム。そんなもの、鈴木のホラ話にさえ出てこなかった小道具だ。
絶体絶命。これは、自分の嘘が生み出した幻ではない。本物の、暴力と死の匂いがする現実だった。嘘がバレて町中の笑いものになるか、それとも本物の悪党に消されるか。最悪の二択が、死にかけの男の眼前に突きつけられた。
汗が背中を伝う。だが、その時、鈴木の脳裏に浮かんだのは、健太の屈託のない笑顔と、コロッケをくれたおばちゃんの皺くちゃの手だった。
(ここで俺がみっともなく全部吐いちまったら、あいつらはどうなる……?)
自分を信じてくれた、あの人たちの顔が曇るのだけは見たくなかった。死ぬのはもう怖くない。だが、無様な嘘つきとして死ぬのだけはごめんだった。
鈴木は、震える膝にぐっと力を込めた。そして、生涯で培ってきたハッタリの全てを総動員して、不敵に笑ってみせた。
「ふん、今さら何の用だ。フィルムなら、とっくの昔に処分したさ。お前らには、指一本触れさせんよ」
嘘だ。全部、嘘だ。だが、その声は不思議なほど、自分でも信じられるくらい力強かった。俺は英雄「カモメ」。この町を守る、最後の砦なのだ。
第四章 人生最後の、でたらめなアンコール
「フィルムの在り処を言え」
「断る」
膠着状態の中、鈴木は一世一代の大勝負に出た。
「どうしても知りたければ、ついてこい。だが、保証はせんぞ」
鈴木が老紳士を連れて向かったのは、町の外れにある古い灯台だった。そこは、若い頃にこっそり買った宝くじのハズレ券を、願掛けのつもりで隠した場所だった。
道中、二人のただならぬ雰囲気を察した健太や漁師たちが、何事かと遠巻きについてくる。鈴木は彼らに目配せで「心配するな」と合図を送った。それはまるで、部下に指示を出す歴戦のスパイのようだった。町の人々は、事情は分からないながらも、「カモメさんが何か大変なことをしている!」と、奇妙な連帯感で団結し、老紳士の車のタイヤの空気をこっそり抜いたり、道を尋ねるふりをして時間を稼いだりと、珍妙な援護射撃を繰り広げた。
錆びた螺旋階段を上り、灯台の頂上に出る。眼下には、夕日に染まる穏やかな港が広がっていた。潮風が、二人の老人の頬を撫でる。
「さあ、ここが終着点だ。フィルムはどこだ」
老紳士の問いに、鈴木はゆっくりと首を振った。そして、海を見つめたまま、すべてを告白した。
「……フィルムなんて、初めからありゃしねえ。俺は『カモメ』なんかじゃない。ただのホラ吹きの、死にぞこないのジジイさ。あんたをここまで引っ張り回して、すまなかったな」
これで終わりだ。軽蔑されるがいい。鈴木は固く目をつぶった。
ところが、返ってきたのは怒声ではなく、腹の底からこみ上げるような、朗らかな笑い声だった。
「ぶはははは!見事だ、鈴木君!いや、カモメ君!君の勝ちだ!」
唖然として目を開ける鈴木に、老紳士――本名を佐藤というらしい――は涙を拭いながら言った。
「実は私も、とっくに引退してね。暇で暇で仕方なかったんだ。昔、敵ながら天晴れだった伝説の諜報員『カモメ』の噂を追いかけるのが、唯一の趣味でね。君のホラ話を聞いて、これは面白いことになったと、つい悪ノリしてしまったんだよ。黒塗りの車もレンタカーさ」
本物の「カモメ」は、三十年以上前に海外で病死していたという。佐藤は、ただの歴史マニアの好々爺だったのだ。
拍子抜けするほどの真実に、鈴木もつられて笑い出した。二人の老人の笑い声が、夕暮れの空に溶けていく。嘘つきと、その嘘に乗っかった男。二人は夜が更けるまで、互いの「嘘」と「本当」が入り混じった、それぞれの人生を語り合った。
祭りは、空前の大成功を収めた。神輿の代わりに担がれたオープンカーの上で、町の人々の喝采を浴びる鈴木の顔は、照れくさそうで、それでいて誇らしげだった。
その数週間後、鈴木三郎は、町の小さな病院で静かに息を引き取った。まるで、大役を終えた役者が舞台の袖に下がるように、安らかな最期だった。
彼の枕元には、町の人々から寄せられた感謝の手紙が、小さな山を作っていた。健太が遺品整理で見つけた日記の最後のページには、震えるような文字でこう記されていた。
『人生最後の、でたらめなアンコールだった。だが、この嘘は、俺にとって、生まれて初めての、たった一つの本当になった。ありがとう、我が愛すべき、世界一騙され上手な共犯者たちへ』
今も、町の小さな広場には「英雄カモメの碑」と刻まれた石碑が、控えめに立っている。それは、一人の嘘つきな男がついた優しい嘘が、確かにこの町に本当の温かい絆と活気をもたらした証として、訪れる人々を、そっと微笑ませている。