エコー・イン・ザ・シェル

エコー・イン・ザ・シェル

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第一章 歪な円盤と過去の残響

埃とオイルの匂いが混じり合う僕の仕事場は、時間の墓場によく似ていた。壁一面を埋め尽くす棚には、忘れられた歌手たちの声や、死んだ作曲家の情熱が黒い円盤の中に封じ込められている。僕はユウキ。このデジタル化の奔流から取り残された街の片隅で、アナログレコードの修復師として糊口をしのいでいた。

人々が求めるのは、指先一つでアクセスできる無限のデータ。僕が扱うような、傷つきやすく、手間のかかる物理メディアに価値を見出す者は、もはや好事家か、僕のような過去の亡霊だけだ。

三年前、僕の時間は止まった。恋人だったアオイを、雨の日の交差点で失ってから。彼女の笑顔も、柔らかな声も、温もりも、すべては脳裏に焼き付いたまま色褪せない思い出という名の牢獄になった。だから僕は、過去の音を修復するこの仕事に逃げ込んだ。レコードの溝をなぞる針のように、ただ同じ場所を繰り返し、繰り返しなぞるだけの毎日。それが僕にとっての唯一の安らぎだった。

そんなある日、店の呼び鈴が乾いた音を立てた。ドアを開けても誰もいない。ただ、足元に黒いジュラルミンケースが一つ、無言で置かれていただけだった。中には、一枚のレコードと、タイプ打ちされた短い依頼書。

『この盤に刻まれた音を、復元されたし。報酬は望むままに』

依頼主の名はなかった。手に取ったレコードは、奇妙な代物だった。漆黒の盤面には、通常の音溝とは明らかに異なる、微細な幾何学模様が螺旋を描いて刻まれている。まるで古代遺跡の壁画のようだ。レーベルは無地。重く、ひんやりとした感触が、得体の知れない存在感を放っていた。

好奇心よりも先に、プロとしての矜持が頭をもたげた。どんな盤でも再生してみせる。それが僕の唯一のプライドだった。慎重にターンテーブルに乗せ、そっと針を落とす。

スピーカーから響いたのは、音と呼ぶのもおこがましい、耳障りなノイズの奔流だった。ザザ、という砂嵐のような音の合間に、キーン、という金属的な高音が混じる。まるで壊れた機械が上げる悲鳴のようだ。僕は眉をひそめ、何度か針を落とし直したが、結果は同じだった。

これは音楽じゃない。何かの信号か、あるいはただの不良品か。だが、あの精緻な幾何学模様が、ただの失敗作だとは思えなかった。盤面の奥深くに、何か重要なものが眠っている。そんな確信めいた予感が、僕の心を捉えて離さなかった。その夜から、僕と歪な円盤との、出口の見えない対話が始まった。

第二章 針が拾う追憶のノイズ

修復作業は困難を極めた。電子顕微鏡で盤面を覗き、特殊な溶剤で汚れを落とし、ナノレベルの精度で溝の傷を修正していく。それはまるで、化石から古代生物の姿を復元するような、気の遠くなる作業だった。僕は寝食も忘れ、その黒い円盤に没頭した。仕事場の隅で、他の依頼品が静かに埃を被っていくのも構わずに。

数週間が過ぎた頃、ノイズの壁に、ほんのわずかな変化が現れた。いつものようにフィルターを調整しながら再生していると、砂嵐の向こう側から、微かに人の声のようなものが聞こえた気がしたのだ。

「……き……」

一瞬の幻聴かと思った。だが、耳を澄ますと、それは確かに、誰かの声の断片だった。僕は心臓が跳ねるのを感じた。作業を進めるにつれ、その声は少しずつ明瞭になっていく。

そして、ある雨の降る夜だった。集中力が極限まで高まった瞬間、スピーカーからノイズに混じって、はっきりと一つの単語が聞こえたのだ。

「……ユウキ……」

アオイの声だった。

そう錯覚した途端、僕の全身を電流のような衝撃が貫いた。まさか。ありえない。彼女はこの世にいない。頭では分かっているのに、心臓は狂ったように高鳴り、指先が冷たくなる。あれは、僕が落ち込んでいる時に、アオイがよく見せてくれた、少し困ったような、それでいて優しい声色そのものだった。

その日から、僕の目的は変わった。これは単なる修復作業ではない。アオイが僕に残してくれた、最後のメッセージを掘り起こすための儀式なのだ。僕は狂ったように盤面に向かった。アオイとの思い出が、次から次へと蘇る。初めてデートした海辺のカフェ。彼女が好きだった古い映画。喧嘩した後に、二人で食べたコンビニのアイス。そのすべてが、僕の指先に力を与えてくれるようだった。

「聞こえるか……ここは……」

「……時間がない……早く……」

断片的な言葉が、ノイズの海から時折顔を出す。それは紛れもなく、アオイが僕を呼ぶ声に聞こえた。彼女はどこか別の場所から、僕に何かを伝えようとしているのではないか。そんな荒唐無稽な妄想が、僕の中で確かな希望へと変わっていく。この盤を完全に修復すれば、もう一度アオイに会える。彼女の声を聞くことができる。

過去に囚われていた僕にとって、それは未来を渇望する初めての感情だった。止まっていた僕の時間が、再びゆっくりと動き出す予感がした。

第三章 クロノ・レコードの真実

一ヶ月後、僕はついにやった。盤面の最後の傷を修復し終え、完璧な状態になったレコードをターンテーブルに乗せる。深呼吸をして、僕は祈るように針を落とした。

スピーカーから流れ出したのは、クリアになったノイズだった。しかし、その奥から聞こえてきた声は、僕の期待を無慈悲に打ち砕いた。

『ユウキ、聞こえるか。私だ』

それは、アオイの声ではなかった。少し年老いて、掠れてはいるが、紛れもない、僕自身の声だった。

『驚いているだろう。信じられないかもしれないが、落ち着いて聞いてほしい。これは未来の君自身からのメッセージだ。そのレコードは、僕たちが『時間記録盤(クロノ・レコード)』と呼んでいるものだ』

未来の僕? 時間記録盤? 頭が混乱で真っ白になる。スピーカーから続く声は、僕が信じてきた世界のすべてを根底から覆す、驚くべき事実を語り始めた。

『君が今いるその世界は、現実じゃない。三年前の事故で、アオイは無事だった。だが、彼女を庇った君が、瀕死の重傷を負ったんだ。君は今も、生命維持装置の中で眠り続けている』

嘘だ、と叫びたかった。だが、声が出ない。僕の仕事場、レコードの匂い、窓から見える街並み。そのすべてが、急速に実感を失っていく。

『君の意識を保つため、我々は最新の没入型治療プログラムを適用した。それが、君のいる仮想記憶空間だ。君の精神が最も安定する環境…過去の遺物を修復する仕事も、アオイを失ったという設定も、すべては君の深層心理が作り出した、悲しい防衛機制なんだ』

アオイが、生きている?

僕が、死にかけている?

僕が愛し、慈しんできたこの喪失感に満ちた世界は、すべてが偽物だというのか?

足元が崩れ落ちるような感覚。僕が修復していたのは、過去の音ではなかった。僕がノイズだと思っていたものこそが、現実世界からの呼びかけだったのだ。あのレコードを送ってきた謎の依頼主は、現実世界で僕の回復を祈るアオイと、治療AIだった。彼らは、僕をこの心地よくも虚ろな繭から目覚めさせるために、唯一僕の心が反応するであろう「レコードの修復」という形で、トリガーを送ってきたのだ。

『アオイは、ずっと君を待っている。君の意識がこの仮想空間に沈み込んでから、彼女は何度も君にアクセスしようと試みてきた。僕がこうして君に語りかけているのも、彼女の諦めない心があったからだ』

未来の僕の声は、静かに、だが力強く続けた。

『選択してくれ、ユウキ。アオイの思い出と共に、この偽りの安らぎの中で永遠に眠り続けるか。それとも、多くのものを失い、痛みや苦しみが待っているかもしれないが、アオイが生きる現実の世界へ、もう一度帰ってくるか』

スピーカーが沈黙する。部屋には、ターンテーブルの静かな回転音だけが響いていた。

第四章 きみが待つ世界

僕は呆然と立ち尽くしていた。窓の外では、見慣れたはずの街が、まるで書き割りのように色褪せて見えた。僕が積み重ねてきた日々、アオイを失った悲しみ、レコードを修復する喜び。そのすべてが、脳が見せた幻影。

だが、不思議と絶望は感じなかった。むしろ、胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。アオイが生きている。僕を待っていてくれる。その事実が、僕の足元に崩れ落ちた世界の瓦礫の中から、確かな一本の光の柱を打ち立てていた。

この仮想空間は暖かく、穏やかだ。ここには苦痛も、本当の喪失もない。アオイの思い出は、永遠に美しいまま、僕のそばにあり続けるだろう。

しかし、それは本物ではない。

僕は、未来の僕の声が言ったことを反芻する。『アオイが生きる現実の世界へ』。僕が愛したのは、思い出の中の完璧なアオイではない。笑い、怒り、泣き、そして僕の隣で温かい体温を持っていた、あの不完全で愛おしいアオイだ。

彼女に会いたい。もう一度、その手に触れたい。

僕はゆっくりとターンテーブルに近づき、修復したばかりのレコードをそっと持ち上げた。ひんやりとした盤面が、僕の決意を肯定してくれているようだった。これは僕が過去と決別し、未来を選ぶための儀式なのだ。僕はレコードをケースに収め、仕事場の真ん中に置いた。さよならだ、僕の愛した時間の墓場。

意識が遠のいていく。埃とオイルの匂いが消え、レコードのノイズが止み、世界が白い光に包まれていく。

次に僕が感じたのは、微かな消毒液の匂いと、ピ、ピ、と単調に繰り返される電子音だった。重く、鉛のようになった瞼を、必死にこじ開けようとする。指先に、誰かの温かい感触があった。

「……ユウキ……?」

か細く、でも芯の通った声。僕が何よりも聞きたかった声。

力の入らない指を、微かに動かす。すると、僕の手を握る力が強まった。

「ユウキ! わかるの!?」

ゆっくりと、本当にゆっくりと、僕の視界が開けていく。ぼやけた光の中に、一つの影が見えた。長い間、涙を流し続けていたのだろう。少しやつれたその顔には、僕の知っているアオイの面影が確かにあった。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ち、僕の頬を濡らした。

「おかえり、ユウキ」

涙で濡れた、最高の笑顔だった。

僕の時間は、三年間止まっていたわけではなかった。これから始まるのだ。失われた時間を取り戻すのは、きっと簡単ではないだろう。動かないかもしれない身体。変わってしまった世界。だが、僕の目には、涙を流しながら微笑む、本物のアオイの姿だけが映っていた。

それで十分だった。いや、それこそが、僕のすべてだった。

僕は、きみが待つ世界に、ようやく帰ってきたのだ。

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