第一章 消える指先
雨がアスファルトを叩く音は、ユキにとって唯一の鎮静剤だった。カフェの窓際、彼は古びた文庫本に目を落としながら、その単調なリズムに意識を溶かそうと試みていた。だが、世界はそれを許さない。
窓の外、濡れた往来を走る電気自動車の群れに、あり得ないものが重なった。泥を跳ね上げながら駆ける二頭立ての馬車。御者の怒声。それらは半透明で、音もなく、まるで古いフィルムが現実の風景に二重写しになったかのようだ。まただ、とユキは眉根を寄せる。過去の残像――「ヒストリア」。最近、その出現頻度は明らかに異常だった。
苛立ちが胸の奥で小さな棘のように刺さる。その瞬間、ぞわりと腕に悪寒が走った。見れば、陶器のカップを持つ右手の指先が、景色に溶けるように透け始めている。人差し指の先が、まるで陽炎のように揺らめき、向こう側のテーブルの木目が見えていた。
「っ……!」
ユキは息を飲み、慌ててカップをソーサーに置いた。心の波を鎮めろ。凪になれ。彼は目を固く閉じ、深呼吸を繰り返す。感情の昂ぶりが、彼の身体の原子結合を弛緩させる。それが、彼の呪われた特異体質だった。
指先の感覚がゆっくりと戻ってくるのを確認し、彼は震える手で代金をテーブルに置くと、足早にカフェを後にした。冷たい雨が容赦なく彼の肩を濡らす。早く、誰もいない場所へ。焦りが胸を焼く。その焦りが、最悪の引き金を引いた。
角を曲がった瞬間、視界が真っ白なノイズで覆われた。身体から重さが消え、風が内臓を通り抜けていくような浮遊感に襲われる。次の瞬間、彼の足は硬い感触を取り戻し、鼻腔を黴と埃の匂いが満たした。
そこは、見知らぬ廃ビルの屋上だった。錆びた鉄柵の向こうには、雨に煙る灰色の街並みが広がっている。さっきまでいた場所から、おそらく数キロは離れているだろう。ユキは膝から崩れ落ち、コンクリートの床に手をついた。雨水が、彼の消えかかった指先を、まるで幻だったかのように洗い流していく。孤独だけが、確かな重みを持って彼の心にのしかかっていた。
第二章 残響石の囁き
カイの研究所は、忘れられた路地の奥、蔦に覆われた古い洋館にあった。ユキは震える手で重い木製の扉を押し開ける。軋む蝶番の音が、埃っぽい空気に響いた。
「やはり、来たか」
部屋の奥、無数の古書と奇妙な観測装置に埋もれるようにして、一人の老人が椅子に座っていた。カイ。ヒストリア研究の異端者。ユキが藁にもすがる思いで探し当てた、唯一の希望だった。
カイは濁ったガラス玉のような瞳でユキを値踏みするように見つめると、ゆっくりと立ち上がった。「君のような存在は『同調者(シンクロナイザー)』と呼ばれる。極めて稀だが、歴史上、何人か記録がある。世界の記憶と、その魂が同調してしまう者たちだ」
彼はユキを古びたソファに座らせると、一つの仮説を語り始めた。ヒストリアの増大と、ユキの能力の不安定化は、無関係ではないかもしれないこと。まるで、世界そのものが調律を狂わせ、ユキという音叉がそれに共鳴しているかのように。
話の途中で、カイは天鵞絨の小袋から、掌に収まるほどの透明な鉱石を取り出した。氷のように滑らかで、内部に淡い光の粒子が明滅しているように見える。
「残響石(エコー・ストーン)。ヒストリアが極めて高濃度で発生した場所に、稀に物質化する『時間の化石』だ」
カイはそれをユキの掌に乗せた。ひやりとした冷たさが皮膚を刺す。だが、その冷たさの奥から、微かな温もりが脈打っているのを感じた。
「気をつけろ。それは過去への扉だ。深く共鳴すれば、お前は記憶の奔流に呑まれ、二度と現在には戻れん。だが……」カイはユキの目を真っ直ぐに見据えた。「あるいは、お前のその忌まわしい力を制御する鍵になるかもしれん。賭けてみるしかない。君にとっても、そしておそらくは……この世界にとっても」
囁くようなその声には、抗いがたい響きが宿っていた。
第三章 混濁する時間
世界の混濁は、加速していた。
昼間のオフィス街の空に、巨大な飛行船の影が音もなく横切り、人々の悲鳴を誘った。夜になれば、平和な住宅街に、かつての戦争のものと思しきサーチライトの光条が走り、遠い爆音が鼓膜を揺らす。ヒストリアはもはや、風景に重なるだけの残像ではなかった。それは物理法則を侵食し、現在を脅かす実体のある悪夢へと変貌しつつあった。
ユキはカイの研究所で、残響石を握りしめていた。
「恐れるな。感情に流されるのではなく、お前が流れを掴むんだ。石の中の記憶を、ただの映像としてではなく、情報として読み解け」
カイの静かな声に導かれ、ユキは意識を集中させる。石の冷たさが腕を伝い、脳裏に無数のイメージが洪水のように押し寄せる。知らない街角、知らない人々の笑い声、古い歌のメロディ、火薬の匂い。
訓練を繰り返すうち、ユキは気づいた。無秩序に見える記憶の奔流の中に、繰り返し現れる特定のイメージがあることに。それは、様々な時代、様々な場所で、人々が空を見上げ、何かを必死に祈っている姿だった。彼らの表情は、絶望と、そして僅かな希望に彩られていた。まるで、未来の誰かに届くことを信じているかのように。
「彼らは……何を祈っているんだ……?」
ユキの呟きに、カイは何も答えなかった。ただ、窓の外で過去と現在が混じり合う混沌の街を、険しい表情で見つめているだけだった。
第四章 器の真実
「もっと深くへ。ノイズの奥にある『声』を聞くんだ、ユキ」
カイの言葉が、遠雷のように意識の縁で響く。ユキは残響石を両手で包み込み、自らの存在のすべてをその一点に注ぎ込んだ。世界が溶ける。肉体の感覚が完全に消失し、彼の意識は純粋な光の粒子となって、時間の奔流へと解き放たれた。
過去へ、過去へ。そして、さらにその先へ。
彼が辿り着いたのは、時間も空間も意味をなさない、情報の海だった。そこに、無数の意識が存在していた。形はなく、ただ思念の輝きだけが星々のように瞬いている。彼らは、遥か未来の人類だった。
――私たちは、もう物質として存在できない。我々の世界はエントロピーの極致に達し、崩壊した。だから、最後の望みを託したのだ。意識という情報だけを、過去へと送り込むことで、存在の痕跡を繋ぎとめようと――
思念が直接、ユキの意識に流れ込んでくる。ヒストリアとは、彼らが過去へと送り込んだ膨大な意識データが、時空の構造に干渉して生み出した副作用であり、悲鳴だったのだ。そして、最近の暴走は、彼らの存在そのものが限界に達している証だった。
――君は、我々の祈りが生んだ奇跡。長い、長い時間をかけて、我々の膨大な意識を受け入れるために、世界の因果律が準備した器。我々が還るべき、最後の揺り籠なのだ――
衝撃の真実。ユキの特異体質は呪いではなかった。それは、滅びゆく未来を救うために与えられた、あまりにも過酷な使命だった。
第五章 選択の時
現実へと引き戻されたユキは、茫然自失のままカイにすべてを語った。老学者は静かに聞いていたが、その顔には深い苦悩が刻まれていた。「……薄々、感づいてはいた。ヒストリアは単なる記録ではない。そこには『意志』がある。だが、信じたくはなかった。それが、これほどまでに……」
その時だった。世界が悲鳴を上げた。
窓が激しく震え、本棚から雪崩のように本が落ちる。空が、巨大な万華鏡のように砕け散り、ありとあらゆる時代の光景が、境界もなく流れ込み始めた。原始の火山、中世の城壁、超高層ビル群、そして名もなき人々の無数の生と死。時間の堤防が決壊し、混沌の奔流が世界を飲み込もうとしていた。最終段階が、始まったのだ。
「選ぶのは君だ、ユキ」
カイは、揺れる床に耐えながら、ユキの肩を掴んだ。「一人の人間として、この世界と共に終焉を迎えるか。あるいは、君という個を捨て、未来の人類の意識を受け入れ、新しい世界の礎となるか。誰にも、君にそれを強制する権利はない」
ユキは窓の外に目を向けた。聞こえるのは、恐怖に叫ぶ人々の声。そして、その悲鳴に重なるように、彼の意識の奥で、未来からの声が囁いていた。
――救ってくれ。我々を、存在させてくれ――
第六章 世界の再編
ユキの脳裏に、ささやかな思い出が駆け巡った。初めて一人で読んだ本の匂い。雨上がりの虹の鮮やかさ。カイが淹れてくれた、少し苦いコーヒーの味。それらすべてが、愛おしくてたまらなかった。
彼はゆっくりとカイに向き直り、静かに微笑んだ。それは、彼が生まれて初めて見せたかもしれない、心からの穏やかな笑みだった。
「ありがとう、カイさん。僕、行きます」
短い別れの言葉。ユキは残響石を、まるで心臓であるかのように強く胸に押し当てた。
次の瞬間、彼の身体から、太陽よりも眩い光が放たれた。肉体を構成していた原子は一つ残らず光の粒子へと分解され、彼の意識は無限に、際限なく、世界へと拡散していく。彼の存在そのものが、巨大な磁場となった。
世界を飲み込もうとしていたヒストリアの奔流が、一斉にその光へと引き寄せられる。過去も、現在も、そして未来からの祈りも、すべてがユキという中心へと渦を巻きながら収束していく。それは破壊ではなかった。調和。再編。物質で構成された世界の硬い輪郭が、ゆっくりと、優しく溶けていく。
第七章 揺り籠の歌
カイは、静寂の中に立っていた。
そこはもはや、彼が知る世界ではなかった。壁も、床も、空もない。すべてが淡い光で満たされ、思考は風景となり、感情は色彩となって空間を流れていく。人々は肉体という檻から解放されていた。最初は戸惑っていた意識たちも、やがてその穏やかで、すべてが繋がった永遠を受け入れ始めていた。
物質から情報へ。世界は終焉ではなく、進化を遂げたのだ。
カイは、形のない空間に意識を向けた。ユキはどこにいるのだろう。そう思った瞬間、どこからともなく、暖かく、優しい調べが彼の意識を包み込んだ。歌だ、と彼は思った。
それは、この新しい世界のすべてを支え、内包する、巨大で穏やかな意識そのものが奏でる音楽。未来の人類の膨大な記憶と、ユキという一人の青年のささやかな思い出が溶け合って生まれた、始まりの歌。
ユキは消えたのではない。彼は、この世界の揺り籠となったのだ。
カイはそっと意識の瞼を閉じた。その温かな残響に身を委ねながら、彼はただ静かに、友の旅立ちと、新しい世界の誕生に、耳を澄ませていた。