第一章 ずれゆく日常
僕、アキの周りでは、いつも時間が壊れている。
右手に持ったガラスのコップは、次の瞬間には一週間後の姿、つまり床に落ちて砕け散った後の鋭い破片へと変貌する。慌てて手を離せば、それはまた何事もなかったかのように、数分前の水滴がうっすらと曇る、ただのコップに戻る。僕の指先が触れるものすべてが、過去と未来の間を無秩序に行き来するのだ。
この能力は、僕に制御できない。それは呪いのように僕の身体に染みついていて、世界を絶えず歪ませていた。机の上のリンゴは、瑞々しい赤色と、腐敗して黒ずんだ茶色が瞬きのように入れ替わる。窓の外を見れば、今日の晴れやかな青空に、昨日の土砂降りの雨筋や、来週に来るであろう嵐の暗雲が、モザイク画のように混在している。人々は僕を避けた。僕の周りだけが、時間の法則から見放された混沌の孤島だったからだ。
「あなた、"時の迷い子"ね」
声をかけてきたのは、古いローブをまとった少女だった。彼女の名前はユイナ。その瞳は、まるで世界の始まりから終わりまでを見通しているかのように、深く澄んでいた。彼女は僕の周りで起こる時間の明滅を少しも恐れず、むしろ何かを確かめるようにじっと見つめていた。
「世界が、軋んでいるのを感じない? 歴史の記録が書き換わったり、ありえないはずの未来の遺物が発見されたり……。すべては『永遠』が失われたせい」
ユイナの言葉は、僕の孤独な世界に初めて差し込んだ、意味のある光のように思えた。彼女は、あらゆる概念が質量を持つこの世界で、ただ一つ「永遠」だけが具現化せず、その欠落が時空そのものを崩壊させているのだと語った。そして、僕のこの忌まわしい能力こそが、その崩壊の兆候であり、同時に、唯一の鍵なのだと。
第二章 無窮の砂時計
ユイナに導かれ、僕は街の地下深くに眠る大書庫を訪れた。埃の匂いと、乾いた紙の微かな音だけが支配する静寂の空間。彼女は巨大な星図が描かれた古文書を広げ、中央に記された一つの挿絵を指さした。それは、上下の球に満ちたまま、一粒たりとも流れ落ちない砂時計の絵だった。
「『無窮の砂時計』。伝説によれば、世界の始まりと共に創られた時の器。その砂は、過去に存在したあらゆる概念の結晶そのものなの」
彼女の声が、静かな書庫に響く。この世界では、「希望」は光る粒子となり、「絶望」は鉛のように重い霧となる。それら無数の概念が、かつては物理的な形で世界に満ちていた。しかし、時と共に失われ、その残滓だけがこの砂時計に封じられているのだという。
「『永遠』を具現化させる方法は、ただ一つ。この砂時計を完全に空にすること。砂時計に触れ、強い概念を思い描くことで、過去の概念を解放できる。でも、それを行えるのは、時間に干渉する力を持つ者だけ……あなただけよ、アキ」
信じがたい話だった。僕が世界を救う? この、触れたものすべてを壊してしまう手で?
しかし、ユイナの瞳には一点の曇りもなかった。僕の能力が呪いではなく、使命であるかのように語る彼女の言葉に、心の奥底で凍りついていた何かが、微かに溶け出すのを感じていた。世界の崩壊を止めるため、そして何より、僕自身の存在理由を見つけるために。僕たちは、その砂時計が眠るという「忘れられた神殿」を目指すことを決めた。
第三章 追憶の砂粒
忘れられた神殿は、時間の侵食から取り残されたかのように、静かに佇んでいた。蔦の絡まる石柱の奥、月光が差し込む祭壇の中央に、それはあった。「無窮の砂時計」は、淡い光を放ちながら、その内に秘めた膨大な時間を沈黙させていた。ガラスの中の砂は、星屑を閉じ込めたようにきらめき、確かに一粒も動いていなかった。
「……やってみる」
僕は意を決して、冷たいガラスに指先を触れさせた。ユイナが隣で息をのむのが分かった。
「何か、強い感情を……あなたの心にある、最も純粋な概念を思い浮かべて」
脳裏に浮かんだのは、ずっと昔、僕がまだこの能力に目覚める前に飼っていた、小さな白い犬の姿だった。病気で死んでしまった時の、胸が張り裂けそうになったあの感覚。純粋な『哀しみ』。
その瞬間、砂時計が脈動した。僕の指先から、紫色の冷たい光が流れ込む。ガラスの中で砂が一粒、淡雪のように舞い上がり、そして――砂時計の下の受け皿から、サラサラとこぼれ落ちた。紫色の砂粒は床に触れると、瞬時に凍てつき、美しい氷の結晶でできた小さな花を咲かせた。
「すごい……これが、過去の『哀しみ』の具現化……」
ユイナが感嘆の声を漏らす。見ると、砂時計の上部の砂が、ほんのわずかに減っていた。
僕にもできる。この手で、世界を救えるのかもしれない。胸の奥から、今まで感じたことのない熱い感情が込み上げてきた。それは、世界で初めて生まれた「希望」のようだった。
第四章 概念の代償
僕たちは旅を続けた。行く先々で、僕は砂時計に触れた。
街で見た恋人たちの姿から『愛』を思い描けば、砂時計からは薔薇色の砂がこぼれ、触れたものを優しく包む温かい光となった。『喜び』を念じれば、金色の砂が光の蝶となって舞い上がり、『勇気』を込めれば、鋼色の砂が鋭い剣の形を象った。砂時計の砂は、着実に減っていった。
だが、変化は僕自身にも訪れていた。
ある日、ユイナが僕に笑いかけた時、僕はどう反応していいか分からなかった。「喜び」という感情が、まるで遠い国の言葉のように感じられたのだ。かつて鮮明だったはずの、両親の顔も、好きだった本の物語も、霞がかかったように思い出せない。
概念を解放するたびに、僕の中から、その概念にまつわる記憶と感情が抜け落ちていく。僕は過去の概念を消費することで、僕自身という存在を削り取っていたのだ。
「アキ……もうやめよう。あなたの顔から、表情が消えていく……」
ユイナは僕の手を握りしめ、涙ながらに訴えた。彼女の手の温かさは感じるのに、それに対する僕の心は、静かな湖面のように何も揺れなかった。
「……止まれない。もう、これしか僕にはないから」
感情のない声で、僕は答えた。世界の崩壊は、僕らが概念を解放してもなお、その速度を増していた。空は過去と未来の風景が不気味に混ざり合い、大地はひび割れていた。もう、引き返す道などどこにもなかった。
第五章 最後の一粒
そして、その時が来た。砂時計の中に残された砂は、あと一粒。きらめく銀色の、最後の一粒だけが、静かに浮かんでいた。
世界の終わりは目前だった。空は割れ、過去の雷鳴と未来の陽光が同時に降り注ぐ。大地は悲鳴を上げ、時空の裂け目から異形の景色が覗いていた。
「お願い、アキ! もうやめて!」
ユイナが僕の腕にすがりつく。彼女の瞳から零れ落ちる涙が、僕の無機質な手の甲を濡らした。
「あなたがいなくなってしまったら、救われた世界に何の意味があるの!?」
彼女の言葉が、感情を失ったはずの僕の胸に、鈍い痛みとして響いた。なぜだろう。この痛みだけは、まだ僕の中に残っている。
最後の一粒。これを解放すれば、「永遠」が具現化し、世界は救われる。だが、僕は何を代償にすればいい? 僕の中には、もう捧げるべき強い概念など残っていない。
僕は、涙を流すユイナの顔を見つめた。彼女と出会ってからの短い旅路が、色のないフィルム映画のように脳裏をよぎる。初めて僕の能力を肯定してくれたこと。共に砂時計を探したこと。僕の変化に苦しみ、それでもそばにいてくれたこと。
名付けようのない、温かい何か。
『愛』でも『希望』でもない。ただ、この瞬間が、彼女と共にいるこの一瞬が、ずっと続けばいいという、純粋な願い。
僕はその想いを胸に、最後の一粒が浮かぶ砂時計に、そっと指を触れた。
第六章 静止した永遠
世界が、白に染まった。
あらゆる音も、色も、感覚も、すべてが無限の光の中に溶けていく。やがて光が収まった時、そこに広がっていたのは、完全な静寂だった。
舞い上がったままの砂塵。空中で停止した鳥。そして、僕の頬に触れようと伸ばされたユイナの手も、彼女の頬を伝う涙の粒も、すべてが時という額縁に収められた一枚の絵画のように、完璧に静止していた。
これが、『永遠』の具現化。時間の、絶対的な停止。
僕の意識だけが、その静止した世界を漂っていた。すると、目の前の空間が揺らぎ、人ならざる何かが姿を現した。それは光の集合体のようでもあり、深淵そのもののようでもあった。
『――見事だ、我が"鍵"よ』
声が、思考に直接響き渡る。それは、この世界の法則を創り出した『調律者』と名乗る存在だった。
『時間は変化を生み、変化は不完全さと苦痛を生む。真の調和とは、最も美しい瞬間を、揺らぐことのない永遠の中に封じ込めること。お前の能力は、時を揺らがせ、過去の概念を砂時計に還流させるためのもの。そして、お前が最後に捧げた"この瞬間が続いてほしい"という純粋な願いが、この世界を固定する最高の美となったのだ』
そうか。僕は世界を救ったのではない。
僕のたった一つの願いが、世界を、そして愛しい人を、永遠の牢獄に閉じ込めてしまったのだ。
調律者の計画は完成した。僕は、そのための精巧な道具に過ぎなかった。
僕は、時が止まった世界で、永遠に凍りついたユイナの笑顔を見つめる。彼女の瞳には、僕への憂いと愛情が、完璧な形で保存されている。
これは、究極の調和なのだろうか。それとも、究極の孤独なのだろうか。
答えを知る者は、もうどこにもいない。ただ、静止した涙の輝きだけが、永遠に僕を見つめ返していた。