涙晶の調律師

涙晶の調律師

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第一章 閉ざした心と紫紺の残滓

リアンは、他人の感情に触れるのが怖かった。

この世界では、人が流す涙は冷たい地面に染み込む前に結晶化する。「涙晶(るいしょう)」と呼ばれるそれは、内包する感情によって色と形を変え、人々の暮らしを支える魔法の源となっていた。喜びは陽光のような黄金に、深い悲しみは静かな夜の湖面を思わす蒼に、燃えるような怒りは血のように鮮やかな緋色に。

リアンは、それらを加工し、生活の道具や魔法の触媒へと調律する「涙晶調律師」の見習いだった。師である老人の工房は、様々な感情の輝きで満ちていたが、リアンはいつも厚い革の手袋を外さなかった。彼には、涙晶に直接触れると、それが生まれた瞬間の持ち主の感情や記憶を、洪水のように浴びてしまう厄介な共感体質があったのだ。

ある日の午後、工房の古びた扉が軋んだ音を立てて開いた。フードを目深に被った痩せた男が、小さな桐の箱をカウンターに置く。師は不在だった。

「これを……最高純度に磨き上げてほしい」

嗄れた声だった。リアンが箱を受け取ると、ずしりと重い。不審に思いながらも蓋を開けた瞬間、息を呑んだ。

中に鎮座していたのは、見たこともないほど深く、濁った紫紺の涙晶だった。それは光を吸い込むようで、闇そのものが結晶化したかのような禍々しさを放っていた。好奇心と恐怖がせめぎ合う。ほんの少しだけなら、と指先の感覚を研ぎ澄ませたリアンが、手袋の指を僅かにめくり、その冷たい表面に触れてしまったのは、一瞬の魔が差したからだった。

――絶望。

瞬間、紫紺の闇が精神を呑み込んだ。脳裏に叩きつけられたのは、燃え落ちる王都、人々の悲鳴なき慟哭、そして何もかもが灰色に色褪せていく世界の終焉のビジョン。愛する者を失い、希望を奪われ、生きる意味さえも砕け散った名もなき誰かの、底なしの絶望だった。それは単なる悲しみではない。世界そのものへの呪詛と、感情を持つことへの激しい憎悪が渦巻いていた。

「う、あっ……!」

リアンは悲鳴を上げて結晶から手を離し、床に蹲った。心臓が氷の爪で鷲掴みにされたように痛む。呼吸が浅くなり、工房を満たしていた色とりどりの涙晶の輝きが、すべて色褪せて見えた。

「……触れたか、小僧」

男が静かに言った。フードの奥の目が、憐れむようにリアンを見ている。

「それは呪いだ。感情という名の、呪いだ」

男は箱を奪い返すと、金貨を数枚カウンターに放り投げ、嵐のように去っていった。

リアンはしばらく動けなかった。指先に残る紫紺の結晶の冷たさと、魂に刻み込まれた絶望の残滓に震えながら。あれは何だったのか。なぜ、あんなにも世界を憎んでいたのか。日常が、音を立てて崩れ始めた瞬間だった。

第二章 旅路の少女と黄金の雫

あの紫紺の涙晶が脳裏に焼き付いて離れない。リアンは、師に事情を打ち明け、男の行方を追う旅に出ることを決意した。あの絶望の正体を知らなければ、自分の中の何かが壊れてしまう気がしたのだ。師は何も言わず、旅支度と一振りの護身用の短剣を渡してくれた。

旅は孤独だった。リアンは、行き交う人々の感情の機微にさえ怯え、心を固く閉ざしていた。そんな彼の前に、一人の少女が現れたのは、最初の街を過ぎた丘陵地帯でのことだった。

「ねえ、あなたも王都へ行くの?」

太陽をいっぱいに浴びた向日葵のような笑顔。名をエラと名乗った彼女は、赤茶色の髪を三つ編みにし、大きな荷物を背負っていた。彼女の快活さは、リアンの閉じた世界とはあまりに異質だった。

「……ああ」

「よかったら、一緒に行かない?一人旅は心細くて」

断る理由もなかった。リアンは無言で頷き、奇妙な二人旅が始まった。エラはよく笑い、よく喋り、そして、よく泣いた。道端の美しい花を見ては感動の涙を、転んで擦りむいた膝の痛みには悔し涙を、リアンが分けてくれた干し肉の美味しさに、幸せの涙を流した。

彼女の涙は、地面に落ちるたびに、小さくても純度の高い涙晶になった。リアンはそれを拾うたびに、手袋越しながらも、その温かさに戸惑った。

ある夜、野営の焚き火を囲んでいると、エラがぽつりと話し始めた。

「私ね、王都で起きた『大枯渇』で家族を亡くしたの」

大枯渇。数年前、王都を中心に発生した、人々の感情が枯渇し、涙が一切流れなくなった謎の災害だ。リアンが見た、あの灰色の世界のビジョンと重なる。

「悲しい涙も、悔しい涙も、嬉しい涙も、全部なくなっちゃった。みんな、生きる気力も失って、街は人形みたいに静かになったって。私の家族も……」

エラの瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。それは焚き火の光を浴びて、温かな黄金色の雫となった。家族を想う、愛おしさと悲しみが入り混じった、切なくも美しい涙晶だった。

リアンは無意識に手袋を外し、そのまだ温かい涙晶にそっと触れた。

流れ込んできたのは、エラの記憶。優しい父の腕、母の歌声、家族三人で笑い合った暖炉の前。悲しみだけではない。そこには、かけがえのない幸福な時間があった。悲しみは、愛した記憶があるからこそ生まれるのだと、リアンは初めて知った。

「……温かい、な」

「え?」

「君の涙は、温かい」

リアンは、自分の頬を涙が伝うのを感じていた。それは、他人の痛みに寄り添うことで生まれた、初めての「共感」の涙だった。地面に落ちたそれは、淡い水色の小さな結晶になった。リアンは、もう他人の感情を恐れてはいなかった。

第三章 虚ろなる者の告白

エラと共に旅を続けるうち、リアンは紫紺の涙晶を持つ者たちが「虚ろなる者たち」と呼ばれる集団であること、そして彼らが人々の強い感情から生まれる涙晶、特に絶望や憎悪のものを集めていることを突き止めた。彼らは大枯渇の再来を目論んでいると噂されていた。

幾多の困難の末、二人はついに「虚ろなる者たち」の首領が潜む、王都の地下遺跡に辿り着いた。遺跡の最奥、巨大な涙晶の原石が鈍い光を放つ祭壇に、一人の男が立っていた。リアンの工房を訪れた、あのフードの男だった。

「……よく来たな、共感の少年」

男はフードを取り、穏やかな、しかし深い疲労を刻んだ素顔を晒した。彼はかつて国で最も敬われた「大調律師」マキアスその人だった。

「あなたが、なぜこんなことを……」

リアンの問いに、マキアスは静かに語り始めた。彼の告白は、世界の常識を根底から覆すものだった。

「大枯渇は、天災ではない。私が起こしたものだ」

彼は、かつて調律師として、人々の涙晶に触れ続けてきた。喜びや感動の輝かしい涙。しかしそれ以上に、戦争や貧困、裏切りから生まれる、悲しみと怒りの涙晶の濁流に苛まれ続けた。緋色の涙晶は強力な攻撃魔法となり、蒼色の涙晶は城壁を築き、人々の争いを助長した。

「感情こそが、争いを生む元凶なのだ。私はそれに耐えられなかった。だから、人々から感情という苦しみを解放しようとした。これ以上、悲劇の涙が生まれぬように……」

彼が発動した大魔法は、しかし失敗に終わった。感情を消し去るどころか、人々の心を歪に枯渇させ、生きる力さえ奪ってしまったのだ。リアンが見た絶望のビジョンは、大魔法を発動したマキアス自身の、そして彼の魔法によって心を壊された人々の記憶の集合体だった。

「私が集めていた絶望の涙晶は、大枯渇を再び起こすためではない。失敗した魔法を逆転させ、今度こそ、私自身の存在を代償に、この世界から『感情』という概念そのものを完全に消し去るためのものだ」

彼は悪ではなかった。ただ、あまりにも優しすぎ、人々の苦しみに共感しすぎた故に、歪んでしまった救済者だった。価値観がぐらりと揺れる。リアンは、目の前の男が、自分と同じ苦しみを、自分よりも遥かに永い時間、一人で抱え続けてきたことを悟った。ただ絶望を撒き散らす悪党を倒せば済むという、単純な話ではなかったのだ。

第四章 君が流す、世界の色

「違う……あなたは間違っている!」

叫んだのはエラだった。彼女はマキアスの前に進み出て、涙を浮かべながら訴えた。

「悲しいことがあるのは辛いよ! 家族を失った悲しみは、今でも胸が張り裂けそうになる! でもね、その悲しみがあるから、楽しかった思い出が、もっともっとキラキラ輝くんだ! 嬉しかったことも、愛おしかったことも、全部なくなっちゃう世界なんて、いらない!」

エラの言葉は、純粋な魂の叫びだった。マキアスの瞳が、わずかに揺れる。

リアンは、マキアスの前に静かに立った。手には、旅の途中で集めた、様々な人々の小さな涙晶を握りしめている。

「俺も、あなたと同じでした」

リアンは語り始めた。

「他人の感情が怖かった。でも、旅をして、エラに出会って、たくさんの涙に触れて……知ったんです。涙は、苦しみだけじゃない。道端の花の美しさに感動する心、誰かの優しさに触れた時の温かさ、守りたいものがあるからこそ生まれる強さ……その全てが、涙晶となってこの世界を彩っている」

リアンは、握りしめた涙晶をマキアスに差し出した。そこには、エラの黄金の涙、名もなき村人の感謝の涙、そしてリアン自身が流した共感の水色の涙があった。

「あなたの絶望は、痛いほどわかる。でも、その絶望ごと、俺たちが受け止める。だから、世界の色を消さないでくれ」

リアンの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、マキアスの深い絶望への共感と、それでも世界を愛そうとする強い意志、そしてエラへの感謝が溶け合った、複雑で、どこまでも澄んだ涙だった。

地面に落ちたその雫は、これまでに誰も見たことのない輝きを放った。赤、青、金、緑……全ての感情の色を内包した、虹色の光を放つ涙晶。伝説とされる「感動の涙晶」が、そこに生まれたのだ。

虹色の光が祭壇を照らし、マキアスが集めた紫紺の絶望の涙晶に降り注ぐ。濁った闇は、まるで夜明けの光に溶けるように浄化されていった。

「……そうか。私は、この輝きを、忘れていたのだな」

マキアスは、浄化されていく涙晶を見つめ、何十年ぶりかに、穏やかな微笑みを浮かべた。彼の身体は足元から光の粒子となって、静かに消えていく。世界から感情を消す魔法ではなく、彼自身の絶望だけが、虹色の涙によって昇華されたのだ。

「ありがとう、少年……」

最後にそう言い残し、大調律師は光の中に消えた。

数年後。リアンは、王都で一番の涙晶調律師になっていた。彼の工房には、今日も様々な人々が、それぞれの物語が詰まった涙晶を携えて訪れる。

リアンはもう、手袋をしない。素手で涙晶に触れ、そこに込められた一つ一つの感情と記憶に、静かに耳を澄ませる。

ある日、小さな女の子が、初めて感じた「喜び」で生まれた、小さな黄金の涙晶をはにかみながら差し出した。リアンはそれを受け取ると、太陽にかざした。

キラキラと輝く黄金の光の中に、少女の満面の笑みが見える。

人の心に触れることは、時に痛みを伴う。しかし、それ以上に、世界はこんなにも美しい感情の輝きで満ちている。リアンは、その一つ一つを大切に紡いでいくことを誓いながら、温かな光に目を細めた。

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