クロノスの渇き
2 3571 文字 読了目安: 約7分
文字サイズ:
表示モード:

クロノスの渇き

第一章 涸れゆく渓谷

ひび割れた大地が、乾いた喉のようにどこまでも続いていた。かつてここを流れていたはずの『時間』は、今や細々とした黄金色の水たまりを点在させるのみ。人々はそれを舐めるように分け合い、あるいは他人の水筒から最後の一滴までを奪い、自らの『寿命』を延命していた。誰もが『時間泥棒』に怯え、互いの影に猜疑の目を光らせる、そんな世界だった。

俺は、自分の名前を思い出せない。

ポケットの中で、ガラスの小瓶が冷たい。中には『無名の砂』と呼ばれる、決して乾くことのない湿った砂が詰まっている。それが、俺という存在を証明する唯一の品だった。腰を下ろし、乾いた川底に転がる丸い石を拾う。その表面には、気の遠くなるような年月の流れが刻んだ滑らかな曲線があった。これを拾ったのは、何故だったか。思い出せない。

「旅の方かい」

背後からかけられた声に、俺はゆっくりと振り返った。痩せこけた老人が、濁った目でこちらを見ている。その手には錆びたナイフが握られ、俺の腰にある貧相な水筒――僅かな寿命の残滓――を値踏みするように見つめていた。

「名前は何てんだい。名乗れない奴は、ここにいる資格がねえ」

その言葉が、引き金だった。名前。俺の名前。必死に記憶の底を探る。脳裏で何かが明滅するが、霧がかかったように掴めない。その焦りが頂点に達した瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。老人の顔が溶け、ひび割れた大地が液体のように波打つ。足元から、抗いがたい力で引きずり込まれる感覚。小瓶の中の砂が、嵐のように激しく舞い上がった。

第二章 溢れる岸辺

意識が浮上した時、俺は黄金色の奔流の岸辺に立っていた。空からは絶え間なく光の粒子が降り注ぎ、それが大地に触れると、新たな『時間液』となって滔々と流れる大河に合流していく。枯渇など、まるで嘘のように満ち溢れた世界。ここでは、生命は『時間』を恐れる必要がない。

「早くしろ! 門が閉じてしまう!」

誰かの声に振り向くと、白銀の装束をまとった自分が、仲間たちを鼓舞していた。俺は『彼』だった。この溢れ続ける時間を制御し、氾濫から世界を守る『時の門番』。仲間たちの顔には疲労ではなく、使命感に満ちた高揚が浮かんでいる。俺は、いや、『彼』は巨大な歯車に手をかけ、仲間と共にそれを押し始めた。軋む金属音、ほとばしる時間液の飛沫が肌を打つ。その冷たさと、仲間たちの熱い息遣い。すべてがあまりに鮮やかだった。

だが、その記憶は泡のように弾けて消える。

気づけば、俺は再び乾いた渓谷に膝をついていた。服の裾が、幻だったはずの時間液で不自然に湿っている。ポケットの小瓶を取り出すと、中で静まった砂が、微かに甘く、そして金属が焦げるような鋭い『匂い』を放っていた。それは、先ほどの世界で感じた高揚と焦燥の残滓だった。

第三章 時間沼の少女

あてのない旅の途中、俺は奇妙な集落に迷い込んだ。時間の流れが澱み、空気さえも粘り気を帯びているかのような場所。『時間沼』のほとりに存在する、世界から忘れ去られた村だった。家の壁には苔がむし、人々はまるで古い肖像画のようにゆっくりと動いている。

「あなた、外から来た人ね」

声のした方を見ると、一人の少女が古井戸の縁に腰掛けていた。リーナと名乗った彼女は、この村の他の住人とは違い、その瞳に明瞭な光を宿していた。

「その小瓶、見せてもらってもいい?」

彼女は俺が差し出した『無名の砂』を、壊れ物を扱うように受け取った。

「これは……『世界の始まりの砂』かもしれない。伝説でしか聞いたことがないわ」

リーナは、この村の停滞した時間のおかげで、他の人々が忘れてしまった多くの伝承を記憶していた。彼女の話によれば、世界はかつて無限の時間に満たされていたという。

俺は、ふと、自分の名前を思い出そうと試みた。頭に手をやり、呻く。その瞬間、リーナの手の中の小瓶で砂が激しく渦を巻いた。彼女は目を見開く。

「今……」

小瓶から、雨上がりの土のような、悲しみの『匂い』が立ち上った。

「あなたは、他の可能性を経験しているのね」

彼女は確信に満ちた声で言った。

「この世界の謎を解く鍵は、あなた自身よ。一緒に行きましょう。『始まりの瀑布』へ」

第四章 認識の霧

リーナの案内で辿り着いた『始まりの瀑布』は、巨大な崖が無残な姿を晒しているだけの場所だった。かつてはここから世界中に時間液が流れ出していたというが、今では一滴の水音すら聞こえない。伝説も、もはやただの慰めに過ぎないのか。俺は絶望に似た感情を覚え、無意識に自分の名を問い直していた。俺は、誰だ。何のためにここにいる。

激しい頭痛と共に、再び世界が揺らぎ始めた。だが、今度は転移しなかった。

代わりに、目の前の光景が二重写しになる。乾ききった崖の向こう側。そのさらに奥。まるで薄皮を一枚剥がすように、まったく別の景色が姿を現したのだ。

ゴウッ、と地鳴りのような轟音が鼓膜を打つ。そこには、天から地へと叩きつけるように、黄金色の時間液が無限に流れ落ちる、本物の『始まりの瀑布』が存在していた。それは枯渇などしていない。むしろ、あり余るほどの力で世界を満たしていた。

「見えているのね、あなたにも!」

隣でリーナが叫んだ。彼女の瞳にも、幻のはずの瀑布が映っている。

「これが、この世界の真実!『時間液』は枯渇なんてしていない! 世界そのものが、私たちに『枯渇している』という嘘を見せているだけなのよ!」

『認識の霧』。彼女はそう呼んだ。世界は、生命による時間の過剰な消費を恐れ、自衛のためにこの霧を生み出した。人々が争い、渇きに喘いでいるこの世界こそが、巨大な幻影だったのだ。そして、俺が時折迷い込むあの溢れる世界こそが、霧の晴れた本来の姿だった。

第五章 最後の選択

真実を知った俺たちは、しかし、新たな絶望に直面した。この『認識の霧』を晴らすことは、同時に真の危機を招くことにも繋がる。生命が再び無限の時間を消費し始めれば、やがて世界は『時間』という概念そのものを使い果たし、永遠に停止した『存在しない時間』へと陥ってしまう。

「どうすれば……」

リーナが唇を噛む。彼女の横顔を見ながら、俺は静かに理解していた。答えは、俺自身の中にある。

俺が『存在しない時間』へ旅するのは、俺が『名無し』だからだ。どの時間軸にも縛られない、不確定な存在。だからこそ、霧の向こう側を垣間見ることができた。世界を救う方法は一つ。この霧を晴らし、かつ、生命に時間の有限性を教えること。それには、絶対的な指標が必要だ。『時間』を消費するのではなく、ただそこにあるものとして認識するための、新たな概念のアンカーが。

それは、どの時間軸にも属さず、永遠に『存在しない時間』そのものとして在り続ける、完全な『無名』の存在。

俺が、それになるのだ。

「リーナ」

俺は彼女に向き直った。

「俺は、行くよ」

「行くって、どこへ……?」

「俺の名前を、完全に捨てる。そうすれば、俺は世界を繋ぐ楔になれる。人々は俺という『無』を通して、時間の本当の意味を知るだろう」

それは、この世界から、そしてリーナの記憶から、俺という存在が完全に消え去ることを意味していた。彼女は何かを言おうとして、言葉を失い、ただ首を横に振った。その瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。俺は彼女の肩にそっと手を置き、最後の力で微笑んだ。

第六章 名もなき砂の囁き

俺は『始まりの瀑布』の中心へと歩みを進めた。幻影の崖を通り抜け、真の瀑布の轟音の中に身を投じる。自分の名前を取り戻したいという最後の欲望を手放した瞬間、俺の身体は光の粒子となって霧散し、世界を覆っていた『認識の霧』へと溶け込んでいった。

霧が、晴れていく。

乾いた大地に、ゆっくりと黄金色の川が戻り始めた。人々は天を仰ぎ、その恵みに歓喜した。もう誰も、他人の時間を奪う必要はない。世界には再び、穏やかで豊かな時が流れ始めた。

リーナは、瀑布の見える丘に一人佇んでいた。なぜ自分がここにいるのか、思い出せない。ただ、手の中には見慣れないガラスの小瓶が一つだけ残されている。中には、静かに眠る湿った砂。

彼女は、何かとても大切なものを忘れてしまったという、胸を締め付けるような喪失感に襲われた。時折、風が吹くと、小瓶から甘く、そしてどこか懐かしい、金属の焦げるような匂いが微かに香った。彼女はその匂いの意味を知らない。

それでも、その匂いを嗅ぐたび、空を見上げ、どうしても思い出せない誰かの名前を、呼びたくなる衝動に駆られるのだった。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る