第一章 灰の味、錆びた幻
「ねえ、色ってどんな味がするの?」
少女の問いは、乾いた風の音にかき消されそうだった。
ひび割れた大地。炭化した木々。視界の全てが、モノクロームのフィルムのように焼き付いている。
俺は口の中の砂を吐き出した。
「甘いさ。舌が痺れるほどにな」
嘘だ。味覚など、とうの昔に擦り切れている。
少女が差し出したのは、指の跡だらけのロケットペンダントだった。蓋を開く蝶番が、悲鳴のようなきしみ声をあげる。中には、顔の判別もつかないほど劣化した写真が一枚。
「お母さん……怒ってる顔しか、思い出せないの」
少女の指先が小刻みに震えている。
この世界に残された最後の熱が、彼女の小さな体から逃げ出そうとしているようだった。
俺は懐から『鏡』を取り出す。
曇った銀の表面に、俺のうつろな瞳と、少女の怯えた表情が映り込んだ。
「貸してごらん。君の奥底に眠る残り火を、少しだけ煽ってみる」
少女の手首を掴む。
脈打つ血管の感触。
俺は意識を研ぎ澄まし、彼女の記憶の澱(おり)へと深く潜行する。
胸の奥が軋んだ。
他人の感情を引きずり出す行為は、自分自身の精神を紙やすりで削るのに似ている。
指先から熱が流れ込む。
鏡面が波打ち、光の粒子が宙へと溢れ出した。
不鮮明な輪郭が結ばれる。
それは写真の女性だった。だが、怒ってはいない。
皺だらけのエプロン。小麦粉のついた手。
そして、少女に向けられた日だまりのような眼差し。
「あ……」
少女の瞳孔が開く。
灰色の風景の中に、そこだけ奇跡のように淡い橙色が灯っていた。
「愛されていたんだな」
俺の言葉は、乾いた地面に水が吸われるように響いた。
その代償として、俺の中の何かが欠け落ちる音がした。
「安らぎ」という概念の手触りが、指の間からこぼれ落ちていく。
俺はもう二度と、ベットに入った時の安心感を思い出せないだろう。
少女は幻影に触れようと手を伸ばすが、指は光をすり抜ける。
それでも、彼女の頬には血の気が戻り、瞳には涙が溜まっていた。
「ありがとう……ありがとう、お兄ちゃん」
涙がこぼれ落ち、乾いた土に染みを作る。
その一点だけ、黒く濡れた土の色が鮮烈だった。
俺はその「黒」から目が離せなかった。
美しい、と思った。
まだ俺の中に、美を感じる機能が残っていたことに驚く。
「……行きな。街はもうすぐだ」
背を向ける。
少女の小さな手が、俺のコートの裾を掴んだ。
だが、俺はそれを振りほどいた。
これ以上触れれば、彼女の感情まで食らい尽くしてしまう。
俺は鏡を懐にねじ込み、灰色の荒野へと足を向けた。
第二章 沈黙の巡礼
塔を目指す旅は、永遠にも思える静寂の中を進むことだった。
三日目、風が止んだ。
五日目、砂の擦れる音さえ消えた。
世界は「灰色」から「白」へと漂白されつつある。
歩くたびに、足元の感覚が曖昧になっていく。
俺は本当に歩いているのか?
それとも、背景だけが勝手に流れているのか?
空腹も渇きもない。
肉体的な苦痛は、とっくに「色彩」と共に失われている。
残っているのは、魂が摩耗していく不快なノイズだけだ。
地平線の彼方に、その巨塔はあった。
天を穿つ巨大な墓標。あるいは、世界という死体に突き刺さった太い注射針。
塔の足元に辿り着いたとき、脳内に直接、重低音が響いた。
『……渇……く……』
言葉ではない。
神経を直接鷲掴みにされるような、飢餓の衝動。
塔の内部は、巨大な空洞だった。
無数のパイプが壁面を這い、中央に浮かぶひび割れた球体へと繋がっている。
パイプの中を流れるはずの光は枯れ果て、ただのガラス管となっていた。
ここが世界の心臓。
そして、今まさに鼓動を止めようとしている場所。
『……足り……ない……色が……想いが……』
頭の中に響く声は、かつて言われていたような冷徹な管理者のものではなかった。
それは、死に瀕した赤子の泣き声に似ていた。
ただひたすらに、燃料を求めて泣き叫ぶシステム。
この塔は、感情を奪っていたのではなかった。
枯れゆく世界からこぼれ落ちるわずかな感情をかき集め、循環させようとしていた延命装置に過ぎない。
だが、もう限界だ。
球体の明滅が弱まるにつれ、俺の視界も彩度を失っていく。
懐の鏡が、氷のように冷たい。
「お前も、腹が減っていたんだな」
俺は鏡を取り出した。
そこにはもう、何も映らない。
俺の顔すらも。
俺にはもう、自分のために流す涙はない。
恐怖も、怒りも、絶望さえも燃料として使い果たした。
空っぽの器。それが今の俺だ。
だが、あの少女の涙の温度だけは、指先に焼き付いている。
あの一滴の「黒」の鮮やかさだけは、知っている。
「なぁ、泣き虫」
俺は震える球体を見上げた。
「とびきりの味がするやつを、食わせてやるよ」
第三章 プリズムの咆哮
俺は鏡を両手で構えた。
意識を、過去の記憶の残滓へ、心の深淵へと叩き込む。
少女の笑顔。母親の幻影。
かつて見た夕焼けの赤。深海の青。新緑の緑。
俺が奪い、食らい、運び続けてきた無数の人々の想い。
それらを鏡というレンズで一点に集約する。
「俺ごと食らえ!」
鏡を、脈動する球体の核めがけて全力で叩きつけた。
激突の瞬間、音はなかった。
代わりに、世界が裏返るような衝撃が走った。
鏡が砕け散る。
無数の破片が空中で静止し、次の瞬間、閃光となって俺の体を貫いた。
――熱い!
焼けるような感覚が戻ってきた。
それは「痛み」だった。
指先が、腕が、肩が、光の粒子となって崩壊していく激痛。
だが、その痛みこそが、かつて俺たちが生きていた証だった。
(ああ、これが……赤色か)
肉が溶ける苦痛は、情熱の赤。
骨が軋む冷たさは、哀しみの青。
そして、胸の奥から溢れ出す温かな奔流は、黄金色の希望。
俺という輪郭が溶けていく。
エヴァンという個体が消滅し、純粋なエネルギーの濁流となって球体へ注ぎ込まれる。
怖い、とは思わなかった。
むしろ、懐かしかった。
ようやく、俺は世界の一部に戻れる。
視界が虹色に染まる中で、ふと、遠くの景色が見えた気がした。
あの荒野の街。
瓦礫の山の上で、少女が空を見上げている。
鉛色の雲が割れ、光のカーテンが降り注いでいた。
枯れ木に若葉が芽吹くような、鮮烈な緑。
ひび割れた大地を潤す、透き通った水の青。
少女が目を見開き、口元を手で覆う。
その瞳に、俺が流した色が映り込んでいる。
『見てくれ。これが、世界だ』
伝えたい言葉は風になった。
彼女の頬を撫でる柔らかな風に。
俺の体はもうない。
けれど、全身で感じている。
雨の冷たさを。
太陽の暖かさを。
誰かが誰かを愛おしいと思う、その甘く切ない胸の痛みを。
世界中の色彩が、俺の新しい肉体だった。
かつて鏡を持っていた男は、無数の光の粒となって空へ舞い上がった。
そして、世界は鮮やかに、どこまでも優しく、息を吹き返した。