彩なき世界の彩織師

彩なき世界の彩織師

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第一章 色なき空の朝

リヒトが工房の窓を開けた時、世界から一つの色が失われていることに気づいた。

それは「碧(あお)」だった。

空は、まるで洗いざらしの羊皮紙のように、ただ白く広がっているだけだった。いつもなら窓の外に広がるはずの、吸い込まれるような瑠璃色も、水平線の向こうで微睡む群青色も、どこにもない。眼下の海は、活力を失った鉛のように重く淀み、波の音さえもどこか乾いて聞こえた。

「またか……」

リヒトは小さく呟き、指先で窓枠をなぞった。彼の指は、幾多の染料と糸に触れてきたせいで、常に微かに色づいている。だが、彼自身にはその色がほとんど見えていなかった。

リヒトは彩織師(いろおりし)。世界に在るべき色を紡ぎ、布に織り込むことで、世界の調和を保つ役目を担う一族の末裔だ。人々は彩織師が織った布を纏い、家に飾ることで、色の持つ魔力――赤がもたらす情熱、黄が与える歓喜、緑が育む生命力――の恩恵を受けて生きてきた。

しかし、リヒトには致命的な秘密があった。彼は、色をほとんど識別できないのだ。彼にとって世界は、濃淡の異なる灰色のグラデーションでしかなかった。先代であった祖父の死後、この工房を継いだ彼は、色に触れた時の微かな温度や、染料が放つ固有の匂い、糸が擦れる音といった、視覚以外の感覚を極限まで研ぎ澄ますことで、かろうじて彩織師の仕事をこなしてきた。赤は指先を焦がす熱、緑は湿った土の匂い、そして「碧」は……心臓の奥に響くような、静かで冷たい水底の音。それが、リヒトが知る碧の全てだった。

だが今、その「音」が世界から完全に消え失せていた。

街は静かなパニックに陥っていた。人々は理由のわからない苛立ちと不安に駆られ、些細なことで言い争いを始める。碧が司るのは「冷静」と「安らぎ」。その色が失われたことで、人々の心から余裕が奪われてしまったのだ。

リヒトは工房の奥、祖父が遺した書物が並ぶ書庫へと向かった。埃っぽい空気の中、彼は一冊の古びた革張りの本を手に取る。それは、彩織師に代々伝わる禁書。表紙には『失われた色の紡ぎ方』と記されていた。祖父はかつて、「これを開く時が来ないことを祈る」と、悲しげな目で言っていた。

ページをめくると、そこには震えるような文字で、失われた色を取り戻すための、ほとんど伝説に近い方法が記されていた。色の源泉とされる「忘れられた泉」へ赴き、色の核となる「涙の石」を捧げるべし、と。

リヒトは固く本を閉じた。色が見えない自分に、世界の色を救う資格があるのだろうか。人々が語る「空の青の美しさ」を、彼は想像することしかできない。それでも、指先に残る碧の冷たい感触の記憶が、彼を突き動かした。このまま世界が色褪せていくのを、黙って見ていることはできなかった。彼は、わずかな食料と、祖父が遺した地図、そして「涙の石」を鞄に詰め込み、夜明け前の灰色の街を後にした。

第二章 灰色の旅路と歌

碧を失った世界は、リヒトが想像していた以上に荒廃していた。大地は乾き、作物は枯れ、川は白く濁っている。かつて青々とした葉を茂らせていた森は、まるで燃え殻のように黒ずみ、生命の気配が希薄だった。旅の途中、リヒトは多くの人々に出会ったが、彼らの瞳からは冷静な光が失われ、誰もが疑心暗鬼に満ちた表情を浮かべていた。

「碧がなければ、我々は考えることさえできなくなる」

立ち寄った村の長老は、力なくそう言った。碧は思考の色でもあったのだ。人々は短絡的になり、未来を深く見通す力を失いつつあった。リヒトは、自分のハンディキャップに対する無力感と、世界の危機に対する焦燥感に苛まれた。

そんな旅の三日目のことだった。枯れた森を抜ける道で、彼は澄んだ歌声を耳にした。それは、かつてこの世界にあったであろう美しい碧を謳う歌だった。声の主は、切り株に腰掛けた一人の少女だった。年はリヒトとそう変わらないように見えたが、その瞳は固く閉じられていた。盲目の吟遊詩人だった。

「あなたの歌は、まるで色が見えるようだ」

リヒトが声をかけると、少女は歌うのをやめ、顔を上げた。

「私の名はエリアナ。色は見えませんが、母が語ってくれた世界の色を、歌にして語り継いでいるのです。あなたこそ、その手から様々な色の気配がしますわ。彩織師の方ですか?」

エリアナの言葉に、リヒトは胸を突かれた。彼女は目が見えないのに、自分以上に色の本質を理解しているように思えた。リヒトは、自分が色盲であること、そして失われた碧を取り戻すために旅をしていることを正直に打ち明けた。

「まあ……。彩織師様が色を見られないなんて」エリアナは驚いたようだったが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。「でも、だからこそ、あなたには色の『心』が分かるのかもしれませんね。私でよければ、お供させていただけませんか? 私の歌が、あなたの旅の助けになるかもしれません」

こうして、二人の奇妙な旅が始まった。エリアナは、記憶の中にある世界の色彩を歌にした。空を渡る風の碧、深い湖の藍、遠い山の紫紺。彼女の歌声は、リヒトの心の中に、見たことのないはずの碧のイメージを鮮やかに描き出してくれた。リヒトは、道中の様子をエリアナに伝えた。乾いた土の感触、枯れ葉の砕ける音、人々の表情の硬さ。彼は触覚と聴覚で世界を捉え、エリアナは記憶と想像力で世界を彩った。

互いの欠けた部分を補い合うようにして、彼らは旅を続けた。リヒトは次第に、エリアナの存在に救われている自分に気づいていた。色が見えないという孤独を、彼女の歌が優しく溶かしてくれたのだ。そして、彼は決意を新たにした。この優しい歌声が響く世界に、必ず碧を取り戻してみせる、と。

第三章 忘れられた泉の真実

幾多の困難を乗り越え、リヒトとエリアナはついに地図が示す最果ての谷、「忘れられた泉」にたどり着いた。しかし、彼らの目の前に広がっていたのは、希望とはほど遠い光景だった。泉は完全に干上がっており、ひび割れた地面が痛々しく剥き出しになっているだけだった。

「そんな……」

リヒトは膝から崩れ落ちた。ここまで来たというのに、全ては無駄だったのか。絶望が彼の心を灰色に塗りつぶそうとした、その時。

枯れた泉の中心から、淡い光が立ち上った。光は徐々に人の形をとり、透き通るような姿をした精霊が姿を現した。

『彩織師の子よ。よくぞここまで参られた』

その声は、男でも女でもなく、風の囁きや水のせせらぎのように聞こえた。

「あなたは……? 泉は枯れてしまったのですか? どうすれば碧を取り戻せるのですか?」

リヒトが矢継ぎ早に問うと、精霊は静かに首を振った。

『色は失われたのではない。隠されたのだ』

「隠された? いったい誰が、何のために!」

『世界から一つの感情を消し去るために』精霊は続けた。『悲しみ、という感情を。その感情と最も強く結びつく色、碧を、一人の人間が自らの魂に封じ込めた。悲しみを悼むあまり、世界から悲しみそのものをなくしてしまおうとしたのだ』

リヒトは息を呑んだ。そんなことが可能な人間がいるとすれば、それは……。

『その者の名は、先代の彩織師。お前の祖父だ』

その言葉は、雷鳴となってリヒトの頭を打ち抜いた。尊敬する祖父が? あの優しかった祖父が、世界をこんな姿に変えてしまったというのか。

「嘘だ! 祖父がそんなことをするはずがない!」

『彼は、最愛の妻……お前の祖母を失った悲しみに耐えられなかった。彼は、もう誰も自分のような悲しみを味わうことのない世界を望んだ。だが、彼は知らなかったのだ。悲しみを消すことは、安らぎや慈しみを消すことと同義だということを。碧とは、そういう色なのだから』

精霊の言葉が、リヒトの記憶の扉をこじ開けた。幼い頃、祖母が亡くなった後、祖父が工房に篭りきりになっていたこと。そして、ある朝を境に、祖父が二度と涙を見せなくなったこと。全てが繋がった。

『彼が碧を封じた影響は、その血を引くお前にも及んだ。お前の魂から、碧という色が欠けてしまった。それ故、お前は色が見えぬのだ』

自分が色盲である理由。それは、祖父の深すぎる悲しみと愛の代償だった。リヒトは、あまりに重い真実に言葉を失い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 碧を受け継ぐ者

絶望の淵に沈むリヒトの手に、エリアナがそっと触れた。

「リヒトさん。あなたのお祖父様は、きっと深く深く、お祖母様を愛しておられたのですね」

その声は、震えていたが、温かかった。

「悲しみがあるからこそ、喜びは輝き、出会いの大切さを知ることができる。私の母が、そう教えてくれました。きっと、お祖父様も、本当は分かっていたはずです」

エリアナの言葉が、リヒトの心に染み渡る。そうだ、祖父は間違っていたのかもしれない。だが、その根底にあったのは紛れもない愛だった。ならば、自分がすべきことは、祖父を断罪することではない。その想いを受け継ぎ、世界をあるべき姿に戻すことだ。

リヒトは顔を上げ、精霊に向き直った。

「どうすれば、祖父の魂から碧を解放できるのですか?」

『道は一つ。誰かが、その碧を……世界中の悲しみを、代わりにその身に受け入れるしかない』精霊は静かに告げた。『それは、永遠に癒えることのない痛みを、その魂に刻み込むことと同義だ』

永遠の悲しみ。それは、あまりにも過酷な宿命だった。しかし、リヒトの心は、不思議なほど凪いでいた。

「俺が、やります」

彼は、迷いなく言った。

「俺は、色が見えない。だから、色の美しさも醜さも知らない。でも、色の持つ意味なら、この旅で教わった。碧がもたらす安らぎも、それが内包する悲しみも、どちらもこの世界に必要なものだ。俺は彩織師だから」

リヒトの決意に、精霊は静かに頷いた。エリアナが、彼の成功を祈るように、澄んだ声で歌い始めた。それは、希望の歌だった。

リヒトは泉の中心に立ち、目を閉じた。精霊が儀式を始めると、彼の意識は深く沈んでいき、やがて優しかった祖父の魂のイメージに触れた。そこには、巨大な碧色の結晶が、重く、冷たく、鎮座していた。世界の悲しみの結晶。リヒトはそれを、両手でそっと抱きしめた。

その瞬間、凄まじい悲しみの奔流が、リヒトの全身を駆け巡った。愛する者を失う痛み、夢破れる絶望、癒えることのない後悔。世界中のありとあらゆる悲しみが、彼の魂に刻み込まれていく。あまりの痛みに叫びそうになるのを、彼は必死で堪えた。

どれほどの時が経っただろうか。ふと、リヒトは瞼に鮮烈な光を感じた。彼がゆっくりと目を開けると――そこに、世界が広がっていた。

生まれて初めて見る、本物の「色」が。

空は、どこまでも澄み渡った空色に輝いていた。谷を流れる川は、深い瑠璃色を湛え、エリアナの髪を飾る小さな花は、可憐な勿忘草色をしていた。そして、リヒトの目から溢れ落ちた涙を映すエリアナの瞳は、世界のどんな宝石よりも美しい、深い海の碧色をしていた。

「……きれいだ」

それは、あまりにも美しく、そして、あまりにも切ない色だった。世界の悲しみを全て知ってしまった彼の目には、この碧が、ただ美しいだけの色には見えなかった。

世界に色は戻り、人々は安らぎと、そして悲しむ心を取り戻した。リヒトは工房に戻り、再び彩織師としての仕事を始めた。彼の視界は今や、鮮やかな色彩で満ちている。

彼は今、一枚の布を織っている。彼が生まれて初めてその目で見た、あの美しい「碧」を使って。それは、悲しみの色。だが、悲しみの深さを知るからこそ紡げる、誰よりも優しい希望の色でもあった。

リヒトは、指先で碧色の糸の冷たさと、その奥にある微かな温かさを感じながら、静かに微笑んだ。彼の瞳には、世界の全ての悲しみと、それでもなお消えることのない、ささやかな希望の輝きが映っていた。

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