憶織士と空白の心臓

憶織士と空白の心臓

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第一章 空白のタペストリー

カイの指先から、淡い琥珀色の光を放つ一本の糸がするすると紡ぎ出される。それは師であるエリオットの、若き日の旅の記憶。糸に触れると、乾いた風の匂いや、遠い街のざわめきが微かに感じられた。カイはこの「記憶の糸」を紡ぎ、それを織り上げる「記憶織士」の見習いだった。

「集中しろ、カイ。糸に雑念が混じるぞ」

背後から、低く穏やかな声が飛ぶ。エリオットは、巨大な織機に向かい、複雑な模様のタペストリーを織り上げていた。その手つきは水が流れるように滑らかで、寸分の狂いもない。彼が織り上げる「憶織物(おくおりもの)」は、人々の心を癒し、時には凍える夜に暖炉よりも温かい熱を放つ、奇跡の布だった。

カイは息を詰め、意識を指先に集中させる。しかし、彼の心には常に、埋めようのない空白が広がっていた。彼には、この工房に来る前の記憶が一切ない。エリオットに拾われたという十年前からの記憶だけが、彼のすべてだった。自分の両親の顔も、生まれ故郷の風景も、何一つ思い出せない。その空白は、美しい模様の中にぽっかりと空いた穴のように、カイの心を苛んでいた。

その夜、カイは水の音で目を覚ました。工房の明かりが、ドアの隙間から漏れている。こんな夜更けに、師は何を? 好奇心に駆られ、そっと工房を覗き込んだカイは、息を呑んだ。

エリオットが、見たこともない憶織物を織っていたのだ。

それは、月光を浴びて妖しく輝く、漆黒のタペストリーだった。通常、憶織物は人々の幸福な記憶から紡がれるため、暖色系の輝きを放つ。しかし、その黒い布は、悲しみや絶望といった負の感情を凝縮したかのような、冷たく禍々しい光を放っていた。そして、その中央に織り込まれていた紋様。螺旋を描きながら、中心へと吸い込まれていくような、奇妙で、それでいてなぜか懐かしいその形に、カイの心臓がどくりと大きく脈打った。

「誰だ!」

エリオットが鋭く振り返る。その顔には、いつもの穏やかさはなく、カイが見たこともないほどの険しい表情が浮かんでいた。

「し、師匠……それは……?」

「見るな!」

エリオットは叫ぶと同時に、手にした布で慌ててその憶織物を覆い隠した。彼の肩は、わずかに震えていた。

「今夜のことは忘れろ。そして、二度とあの紋様に近づくな。いいな」

それは命令であり、懇願のようにも聞こえた。カイはただ頷くことしかできなかったが、彼の心には、消えることのない強い疑念と、あの不気味な紋様の残像が焼き付いていた。自分の失われた過去と、師が隠す秘密。その二つが、あの漆黒のタペストリーの裏で、固く結びついているような気がしてならなかった。

第二章 禁じられた紋様

師の警告は、カイの探求心に火をつけただけだった。空白だった自分の過去に、初めて手がかりが見つかったのだ。引き下がるわけにはいかなかった。

昼間は従順な弟子のふりをしながら、カイは夜ごと、工房の書庫に忍び込んだ。記憶織士の歴史、禁忌とされる技術、古の伝承。埃をかぶった書物をめくるたび、指先が微かに震えた。そしてある晩、彼はついに探し物を見つける。それは『魂の簒奪――禁断の憶織術』と題された、革装の古書だった。

ページをめくると、そこには衝撃的な内容が記されていた。他人の記憶を強制的に抜き取り、それを糧として己が力に変える邪悪な織士。さらに、その技術の究極として、死者の記憶の断片を集め、偽りの命を持つ「人形」を創造する術が存在するというのだ。その人形は、元の持ち主の記憶を己のものとして生きるが、心は常に空白で、定期的に記憶の糸を補給しなければ、やがて崩壊してしまう。

カイは息を止めた。その古書の挿絵に描かれていた紋様が、あの夜に師が織っていた漆黒のタペストリーの紋様と、寸分たがわず一致していたのだ。

「魂の簒奪者……」

カイの唇から、かすれた声が漏れた。まさか。温厚で、誰よりも記憶の尊さを知る師が、そんな禁忌に手を染めるはずがない。だが、あの時の師の動揺ぶりと、自分の空白の記憶が、恐ろしい仮説をカイの心に芽生えさせた。

俺の記憶は、師に奪われたのではないか?

疑念は一度芽生えると、毒草のように心を蝕んでいく。師の何気ない言葉も、優しい眼差しさえも、すべてが自分を欺くための芝居のように思えてきた。食事の味も、眠りの安らぎも、カイから失われた。ただ、焦燥感だけが胸の中で燃え盛っていた。

数日後、カイは意を決して、師の私室に足を踏み入れた。エリオットが街へ出かけている、わずかな時間しかない。震える手で部屋を探ると、古い木箱の中に、それはあった。あの夜に見た、漆黒のタペストリー。そして、その隣に置かれていた、一枚の肖像画。

そこに描かれていたのは、カイと瓜二つの顔を持つ少年だった。柔らかな栗色の髪、少し寂しげな瞳。違うのは、その少年の首に、カイにはない痣があることだけ。肖像画の隅には、小さな文字で『我が愛しき息子、リアム』と記されていた。

心臓が氷の塊になったようだった。訳も分からぬまま、涙が頬を伝う。この少年は誰だ? なぜ、俺とこんなに似ている? そしてなぜ、師はこれを隠していた?

その時、背後で静かに扉が開く音がした。振り返ると、そこには哀しげな瞳をしたエリオットが立っていた。

「……見つけてしまったか」

師の声は、諦観に満ちていた。

第三章 借り物の心臓

工房の真ん中で、カイとエリオットは向かい合っていた。窓から差し込む夕日が、二人の間に長い影を落とす。カイは震える声で問い詰めた。

「説明してください、師匠。この肖像画の少年は誰なんですか? 俺の記憶は……あなたが奪ったんですか?」

エリオットは深く目を閉じ、長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。その声は、ひどく乾いていた。

「お前の記憶を、私は奪ってなどいない。なぜなら……初めからお前には、お前自身の記憶など存在しなかったのだから」

「……どういう、意味です?」

エリオットは、あの漆黒のタペストリーを手に取った。それはカイが今まで紡いできた、他人の幸福な記憶の糸とは明らかに異質だった。悲しみ、後悔、そして愛情。あまりにも濃密な感情が渦巻き、触れるだけで心が張り裂けそうになる。

「これは、私の記憶だ。病で失った……たった一人の息子、リアムとの記憶のすべてだ」

エリオットは語り始めた。不治の病で日に日に衰弱していく息子。なすすべもなく、ただその命の灯が消えるのを見守ることしかできなかった父親の絶望。リアムが息を引き取った日、エリオットの世界は色を失った。彼は悲しみのあまり、禁忌に手を出した。リアムが遺した僅かな髪、愛用していた玩具、そして何より、エリオット自身の脳裏に焼き付いて離れない息子の記憶。それらすべての糸を紡ぎ合わせ、創造したのだ。

「それが、お前だ。カイ」

雷に打たれたような衝撃が、カイの全身を貫いた。言葉の意味を、脳が理解することを拒否する。

「俺が……リアムの記憶から……作られた……?」

「そうだ。お前は、私の哀れな執着が生み出した、記憶の織物人形なのだよ」

カイの足元が、ぐらりと揺らいだ。自分が立っている世界のすべてが、音を立てて崩れていく。今まで自分が感じてきた喜びも、悲しみも、師を慕う気持ちさえも、すべてが偽物だったというのか。自分は、死んだ誰かの影であり、借り物の心臓で動く、空っぽの人形に過ぎなかったのか。

「では、あの黒いタペストリーは……」

「お前の存在を維持するための、補修用の憶織物だ。お前は記憶の集合体。定期的に核となるリアムの記憶を織り込まなければ、その存在を保てずに崩壊してしまう」

エリオットの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

「すまない。私はただ、もう一度息子に会いたかった。だが、お前が自我を持ち、苦しみ始めた時、私は自分が犯した罪の重さを知った。お前はリアムではなかった。お前は、カイという、まったく別の魂を持った存在になっていたのだ」

絶望が、カイの心を完全に覆い尽くした。自分は、何者でもない。愛する師の、歪んだ愛情が生み出した怪物。彼はよろよろと後ずさり、工房の扉に手をかけた。どこでもいい。この悪夢から逃げ出したかった。

第四章 始まりの糸

カイは工房を飛び出し、夜の森をあてもなく彷徨った。冷たい雨が、彼の身体と心を容赦なく打ちつける。自分は誰だ? この胸の痛みは、本物なのか? それとも、これもリアムという少年の記憶が再生しているだけなのか? アイデンティティの崩壊は、肉体的な死よりも残酷な苦痛をカイに与えた。

夜が明け、雨が上がった頃、カイは森の奥にある湖のほとりに倒れ込んでいた。水面に映る自分の顔は、あの肖像画の少年とそっくりだった。だが、その瞳に宿る絶望の色は、紛れもなくカイ自身のものだった。

その時、彼は自分の指先が、微かに光を放っていることに気づいた。それは、記憶の糸だった。しかし、今まで紡いできた誰かの記憶とは違う。それは、師に叱られた悔しさ、憶織物が完成した時の達成感、初めて自分の過去に疑問を抱いた夜の不安、そして今この瞬間に感じている、胸が張り裂けそうなほどの絶望。それらすべてが混じり合った、不格好で、けれど力強い、新しい色の糸だった。

「……これは……俺の記憶……?」

そうだ。リアムの記憶から生まれた存在だとしても、エリオットと共に過ごした十年という歳月は、カイだけが経験した、本物の時間だったのだ。それは借り物ではない、カイ自身の物語の始まりだった。

ふと、背後に人の気配がした。エリオットだった。彼は傘もささず、カイと同じようにずぶ濡れになっていた。

「カイ」

エリオットは、カイの隣に静かに座った。

「私は、お前にとんでもない運命を背負わせてしまった。どんな罰でも受けよう。だが、これだけは信じてほしい。私がリアムを愛していたのと同じように、私は、この十年を生きたお前を、カイという一人の人間を、心から愛している」

カイは何も言わなかった。ただ、自分の指先から生まれ続ける、新しい記憶の糸をじっと見つめていた。その糸は、まだ細く、頼りない。しかし、それは確かに、カイ自身の心臓から紡ぎ出されていた。

工房に戻ったカイは、無言で空っぽの織機の前に座った。そして、自分の指先から生まれたばかりの、あの不格好な糸を手に取った。

「師匠。俺は、俺の物語を織りたい」

それは、決意の言葉だった。エリオットは驚きに目を見開いたが、やがて、深く頷いた。その目には、後悔と愛情が入り混じった、複雑な光が浮かんでいた。

カイは、織り始める。リアムの記憶という土台の上に、カイとして生きた十年の記憶を重ねていく。それは、誰の模倣でもない、彼だけのタペストリーになるだろう。空白だった心臓は、今、彼自身の記憶の糸で、ゆっくりと、しかし確実に満たされ始めていた。物語の結末はまだ誰にも分からない。だが、カイはもう、借り物の人生を生きる空っぽの人形ではなかった。彼は、自らの手で未来を織り上げる、一人の記憶織士なのだから。

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