第一章 痣の地図と来訪者
リノは、自らの肌を呪っていた。
左腕から背中にかけて広がる、まるで古びた地図のような痣。それは彼の一族に代々受け継がれる「印」であり、世間からは「地図蟲(ちずむし)」と蔑まれる呪いの刻印だった。この痣を持つ者は、大地と感応する。森を歩けば肌は樹皮のようにささくれ、川を渡れば血の巡りが水の流れと同期する。それは便利な能力などではなく、ただひたすらに世界の不快感をその身に吸い上げる、終わりのない責め苦だった。
だからリノは、人里離れた谷の奥で、世界から身を隠すように暮らしていた。彼の求めるものは静寂だけ。大地の声も、人の声も届かない、穏やかな孤独。
その静寂を破ったのは、一人の女だった。
「あなたが、最後の一人ね」
戸口に立つ女は、旅人のそれとは違う、芯の通った声で言った。エラと名乗った彼女の瞳は、まるで磨かれた黒曜石のように、リノのすべてを見透かしているようだった。彼女は、世界の果てにあるという「忘却の谷」と、そこに眠る「鳴らない鐘」を探しているのだという。
「馬鹿げたおとぎ話だ。帰ってくれ」
リノは感情を殺して言い放った。関わりたくない。彼の平穏を乱すものは、すべて敵だった。
だが、エラは動じなかった。彼女は懐から羊皮紙の巻物を取り出して広げる。それは所々が焼け焦げ、風化して判読不能な、不完全な地図だった。
「これだけでは、谷には辿り着けない。でも、あなたの『印』があれば完成するはず」
「何の話だ」
「あなたの一族は、ただの地図読みではない。あなた方自身が、失われた道のりを記す『生きた地図』なのだと、古文書にありました」
その言葉が、リノの心の壁に小さなひびを入れた。忌むべき痣が、伝説と結びつく。そんなはずはない。
リノが彼女を追い返そうと一歩踏み出した、その時だった。エラが広げた地図の、大きく欠けた部分。その輪郭が、彼の左腕の痣の形と、不気味なほど正確に一致していることに気づいてしまった。まるで、彼の体から引き剥がされた一片が、今、目の前にあるかのように。
「これは……」
「そう。これは運命なのよ、リノ」
エラの黒い瞳が、有無を言わさぬ力で彼を射抜く。リノは、長年かけて築き上げてきた静寂の砦が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていくのを感じていた。彼の呪われた肌が、遠い昔の冒険の記憶を呼び覚ますかのように、微かに疼き始めていた。
第二章 響きあう身体
リノとエラの旅は、困難を極めた。リノが拒絶しても、エラは彼の家の前を動かず、三日三晩、ただ静かに待ち続けたのだ。根負けしたのはリノの方だった。痣の謎と、エラの瞳の奥に宿る揺るぎない光に、抗うことができなかった。
旅に出て数日、リノは改めて自分の能力を呪った。ゴツゴツした岩場を越えれば、足の裏の皮膚が硬質化し、まるで岩そのものになったかのような不快な感覚に襲われる。湿度の高い沼地を歩けば、肺の中までじっとりとした水気が満ち、呼吸が重くなった。
「最悪だ……」
呻くリノの隣で、エラは彼の腕を興味深そうに眺めていた。
「すごいわ。あなたの肌の色、少し緑がかってきた。森の色を映しているのね」
「やめてくれ。見世物じゃない」
「どうして? これは世界とあなたが一つになっている証じゃない。なんて美しい能力なの」
美しい、と。リノは耳を疑った。これまで侮蔑と憐憫の言葉しか向けられてこなかったこの体を、美しいと言った人間は初めてだった。彼は戸惑い、顔を背けたが、胸の奥に小さな温かい火が灯るのを感じた。
その夜、焚き火を囲みながら、エラはぽつりと自分のことを語った。彼女には、冒険家だった兄がいた。兄は「鳴らない鐘」の伝説を追い、旅に出たまま帰らぬ人となった。
「鐘を鳴らせば、どんな願いも叶うわけじゃない。古文書には、鐘の音は、彷徨える魂をあるべき場所へと導くと記されていたわ。私は、兄の魂を安らかにしてあげたいの」
彼女の声は、悲しみを湛えながらも、不思議なほど穏やかだった。リノは、彼女の目的が単なる好奇心ではないことを知った。彼女もまた、失われた者への想いを抱えて、この過酷な旅を続けているのだ。
旅が進むにつれ、リノの感覚に変化が訪れた。彼は無意識のうちに、最も安全で、最も早く目的地に着くルートを「感じて」いた。彼の足は、硬い岩を避け、ぬかるみを避け、自然と最適な道を選んでいた。エラは、そんな彼を全幅の信頼で見守り、彼の「感覚」に従った。
ある日、巨大な渓谷に行く手を阻まれた。対岸へ渡るには、危険な吊り橋を渡るしかない。リノが橋に足をかけた瞬間、彼の全身に、風と一体化するような奇妙な浮遊感が走った。眼下の奈落の深さが、そのまま彼の内の空虚さと共鳴する。恐怖で足がすくむ。
その時、エラがそっと彼の手を握った。
「大丈夫。あなたの感じる世界を、少しだけ私に分けて」
彼女の手の温もりが、リノの凍てついた心を溶かしていく。彼は、風の感覚、谷の深さ、揺れる橋の心もとなさを、ただの苦痛としてではなく、世界を構成する一つの「響き」として受け入れ始めた。彼はエラの手を強く握り返し、一歩、また一歩と、確かな足取りで対岸へと渡りきった。
橋を渡り終えた時、リノは自分の腕の痣が、以前よりも鮮やかな文様を描いていることに気づいた。それはもはや呪いの刻印ではなく、彼がエラと共に乗り越えてきた世界の記憶そのもののように思えた。
第三章 忘却の谷の真実
幾多の困難を乗り越え、二人はついに「忘却の谷」に辿り着いた。霧に包まれた谷底には、伝説の通り、天を突くほどの巨大な鐘が静かに鎮座していた。表面には苔がむし、悠久の時を物語っている。しかし、鐘楼のどこにも、鐘を鳴らすための綱や撞木は見当たらない。まさに「鳴らない鐘」だった。
「着いた……」
リノは感無量だった。この冒険で、彼は自分の能力を呪いではなく、世界と対話する手段なのだと受け入れられるようになっていた。彼を導いてくれたエラへの感謝で胸がいっぱいだった。
だが、エラの行動はリノの予想を裏切った。彼女は鐘には目もくれず、その根本に立つ、古びた石碑へと真っ直ぐに向かったのだ。
「エラ? 鐘は……」
「私の本当の目的は、鐘を鳴らすことじゃない」
エラは石碑に手を触れ、振り返った。その表情は、リノが今まで見たことのない、深い哀しみと決意に満ちていた。
「あなたを、ここに連れてくること。それが私の使命だったの」
「……どういう意味だ?」
リノの心に、冷たい不安が広がっていく。
「あなたの一族は『生きた地図』なんかじゃない。本当の能力は『世界の記録者(アルゴラグ)』。あなた方は、その身をもって、時代の喜びも、悲しみも、憎しみも、すべてを記録し続ける存在なの」
エラは静かに、しかし残酷な真実を告げた。
「そして、この『鳴らない鐘』は、願いを叶える道具じゃない。記録された世界の記憶を、記録者ごと『忘却』させるための装置よ」
リノは言葉を失った。全身の血が凍りつくような感覚。
「私の一族は、代々、この世界に満ちる悲劇の記憶を浄化するため、『記録者』をこの谷に導いてきた。あまりに多くの血が流され、憎しみが大地に刻み込まれた時……その記憶をすべて吸い上げた記録者と共に、鐘はすべてを消し去るの」
エラの兄もまた、リノの先祖の一人をこの谷へ導き、世界の大きな悲しみの記憶と共に、この地で消滅したのだという。彼女が弔いたかったのは、兄の魂ではなかった。兄が命を懸けて消し去ろうとした、世界の悲しみそのものだったのだ。
「君は……俺を消すために、ここまで……?」
リノの声は震えていた。旅で育んだ絆も、温かい言葉も、すべてはこの瞬間のための偽りだったのか。彼の体は、今、この時代のありとあらゆる争いや苦しみを記録し終えていた。彼がこの地に立った瞬間、鐘を鳴らす準備は整ったのだ。
「ごめんなさい、リノ」
エラの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「あなたと旅した時間は、偽りじゃない。本当に、楽しかった。でも、私は選ばなければならない。一人の大切な人の命か、世界から悲しみを一つ消し去ることか……」
リノは、自分がただ消されるために利用された道具であったという事実に、絶望の淵に突き落とされた。彼がようやく見つけた自分の価値は、消え去ることでしか意味を成さないというのか。
第四章 鳴らない鐘の音
忘却の谷に、重い沈黙が流れる。リノは膝から崩れ落ちそうになるのを、必死でこらえていた。裏切られた怒り、消えゆくことへの恐怖、そして何より、エラとの旅で得た温かい記憶が、彼を内側から引き裂こうとしていた。
彼は自らの腕に刻まれた、鮮やかな痣を見つめた。そこには、岩場の無骨さも、森の息吹も、渓谷を渡る風の冷たさも、すべてが記録されている。そして、エラと交わした言葉、焚き火の温かさ、彼女がくれた信頼の眼差しもまた、確かにここに刻まれている。
(これも、すべて消えるのか……?)
悲しい記憶も、苦しい記憶も、確かにこの世界には満ちている。それらを消し去ることで、世界が救われるのかもしれない。だが、そのために、初めて得たこの温もりまで手放さなければならないのか。
ふと、彼は気づいた。自分の能力は、ただ世界を「記録」するだけではない。世界と「響きあう」ことだ。ならば、記録した記憶を選び、分離することだってできるのではないか。前人未到の試み。失敗すれば、彼の精神は崩壊するだろう。だが、このまま無為に消えるよりは、ずっとましだった。
「エラ」
リノは顔を上げた。彼の瞳には、もはや絶望の色はなかった。そこにあるのは、自らの意志で運命を引き受ける者の、静かな覚悟だった。
「君の言う通りだ。世界には悲しみが多すぎる。俺が旅で感じた痛みや苦しみも、その一部だ。それは、この鐘で浄化するべきなんだろう」
彼はゆっくりと鐘に向かって歩き出す。
「だが、俺は忘れない。君と見た夕日の色も、分かち合った温もりも。悲しみだけを鐘に渡し、喜びは俺がこの身に留め続ける。それが、俺の選ぶ道だ」
「そんなこと……できるはずがないわ!」
エラが叫ぶ。
リノは鐘の前に立つと、目を閉じ、意識を集中させた。彼の全身の痣が、淡い光を放ち始める。彼は旅で記録したすべての記憶を、その感情の質によって選り分けていく。人々の争いの残響、大地の呻き、飢えや渇きの苦痛。それら「負」の記憶を、濁流のように鐘へと注ぎ込んでいく。それは、自らの魂の一部を削り取るような、凄まじい苦痛を伴う作業だった。
その時、それまで沈黙を保っていた「鳴らない鐘」が、うなるような低い音を立て始めた。ゴォォン……。それは歓喜の音ではない。世界のすべての悲しみを一身に引き受けたような、深く、重く、哀しみに満ちた音だった。その一度きりの鐘の音が谷に響き渡ると、リノの体から、旅で負った無数の傷や疲労、そして彼を苛んできた世界の不快感が、嘘のように消え去っていた。
しかし、彼の心には、エラとの旅の記憶が、より一層鮮やかに残っていた。
鐘の音はやみ、谷には再び静寂が戻った。リノは、そこに立っていた。消えてはいなかった。彼の腕の痣は、いくつかの文様を失いながらも、新たな輝きを放っている。彼は「記録者」から、世界の記憶を管理し、その意味を問い続ける「遍歴のアルゴラグ」へと、生まれ変わったのだ。
エラは、涙を流しながら彼に駆け寄った。
「リノ……あなた……」
「俺はもう、自分の体を呪わない」
リノは、晴れやかな顔で微笑んだ。「この体は、俺が生きてきた証だ。そして、これから生きていく世界の、道標になる」
二人は、夜が明け始めた谷を後にした。世界から悲しみがすべて消えたわけではない。しかし、空は昨日よりも少しだけ青く、風は少しだけ軽やかに感じられた。リノの腕には、まだ空白の多い、未来へと続く新しい地図が、静かに刻まれ始めていた。それは、彼自身がこれから描いていく、希望の冒険の始まりだった。