忘却の空、創造の砂時計
第一章 琥珀色の追憶
カイが住む『追憶の島』は、常に琥珀色の黄昏に包まれていた。ここでは時間は緩やかに流れ、人々は過去という名の心地よい沼に浸って生きている。空気は古書の匂いがし、風が吹くたびに、誰かの遠い昔の囁きが聞こえるかのようだった。
カイは、この島の唯一の『幻影師』だった。
「頼む、カイ。この『悔恨の結晶』を視てくれ。妻が最後に何を思っていたのか、どうしても知りたいんだ」
皺深い顔の老人が、鈍く黒光りする結晶を差し出した。カイは無言でそれを受け取る。ひやりとした感触が、指先から神経を駆け上った。彼は世界のあらゆる『概念』が凝縮された結晶に触れることで、そこに刻まれた過去の物語を幻影として再現できる。
目を閉じ、意識を結晶に集中させる。途端に、冷たい奔流が精神になだれ込んできた。病床に伏す女性の、か細い呼吸。夫の手を握りたくても上がらない腕。伝えられなかった「ありがとう」という言葉が、声にならない叫びとなってカイの鼓膜を震わせた。幻影が消えた時、カイは静かに目を開け、老人に視た光景を告げた。老人は涙を流して感謝し、去っていく。
その背中を見送りながら、カイは胸に広がる微かな空虚感に耐えていた。能力を使った代償。彼の脳裏から、一つの幸福な記憶が、その色彩を失っていく。幼い頃、隣に住んでいた少女と丘の上で初めて肩を並べて笑い合った日。彼女の笑顔の輪郭が、夕焼けの光に溶けるように曖昧にぼやけていった。
懐から、古びた『無の砂時計』を取り出す。中には砕かれた概念結晶の砂が詰まっているが、決して流れることはない。今、その砂の中心で、ちり、と小さな光が灯り、名もなき微小な結晶が一つ、静かに生まれた。失われた記憶の墓標だった。
第二章 沈黙する地平線
世界は緩やかに病んでいた。『昨日』の記憶は曖昧で、『明日』の輪郭は霞んでいる。人々は今この瞬間にしか存在できなくなりつつあった。世界の時間軸を司る『始まりの島』と『終わりの島』が、数年前から完全に沈黙してしまったことが原因だと、誰もが噂していた。
新しい概念は生まれず、消えゆくべき概念は澱のように世界に溜まっていく。島々を繋ぐ『概念の道』は輝きを失い、時折、異なる概念の島が衝突する『概念の混濁』が頻発していた。
「もう行くのね、カイ」
島の端で、リラがカイを見つめていた。薄れていく記憶の中で、カイが唯一、その存在だけは忘れられずにいる女性だった。彼女の髪を揺らす風が、忘れな草の香りを運んでくる。
「このままじゃ、世界はただ終わるのを待つだけだ。俺は確かめなくちゃならない」
「あなたの記憶が、全部なくなってしまうわ」
リラの声は悲しみに震えていた。カイは彼女の顔をまっすぐに見ることができない。彼女との幸福な記憶こそが、能力を使うたびに真っ先に失われていくことを、彼女は知らない。
「それでも、行かなくちゃ」
カイは背を向けた。リラの制止を振り切るように、『概念の道』へと続く浮き橋へ足を踏み出す。彼の腰で揺れる『無の砂時計』の中で、数個の結晶が孤独な光を放っていた。
第三章 混濁する感情
『概念の道』は、かつてないほど不安定だった。カイの眼下で、『歓喜の島』と『絶望の島』が衝突する光景が広がっていた。歓喜の金色の光と、絶望の鉛色の闇が渦を巻き、島民たちは泣きながら笑い、笑いながら涙を流すという狂気に囚われている。世界の法則が、根底から崩れ始めている証拠だった。
彼は旅の途中、いくつもの結晶に触れた。道標を求めて『知識の結晶』に触れ、リラと交わした約束の言葉を失った。『勇気の結晶』に触れて活路を開き、彼女の手の温もりを失った。
そのたびに、『無の砂時計』の中の結晶は一つ、また一つと増えていく。それはカイが失った幸福の欠片であり、彼が彼であったことの唯一の証明だった。もはや彼の内側には、温かい感情の記憶はほとんど残っていなかった。ただ、世界の歪みを正さなければならないという、乾いた使命感だけが彼を突き動かしていた。
風が、彼の頬を撫でる。そこに涙の感触はなかった。泣き方さえ、とうの昔に忘れてしまったのかもしれない。
第四章 灰色の終焉
長い旅の果てに、カイは『終わりの島』にたどり着いた。そこは音も色も、あらゆる生命の気配が失われた場所だった。全てが灰色に凍りつき、時間の流れさえも完全に停止しているかのような静寂が支配していた。
島の中心には、天を衝くほどの巨大な『終わりの結晶』が鎮座していた。その表面は氷のように冷たく、内部の輝きは完全に失われている。カイはごくりと喉を鳴らし、覚悟を決めてその表面に手を触れた。
瞬間、世界が反転した。
終わるはずだった恋。終わるはずだった命。終わるはずだった時代。それらが終わることを拒絶され、出口のない回廊を永遠に彷徨い続ける無数の物語が、濁流となってカイの精神を打ちのめした。変化を恐れ、「終わり」を受け入れられなかった人々の集合的な絶望が、この島の時間を凍りつかせていたのだ。
「――ッ!」
幻影から解放された時、カイは膝から崩れ落ちた。そして、気づく。
代償として失われたものが、あまりにも大きすぎたことに。
必死に記憶を手繰り寄せる。リラ。その名前は覚えている。だが、彼女の顔が、声が、どんな風に笑うのかが、完全に思い出せない。まるで、最初から存在しなかったかのように、彼の記憶から彼女の全てが抜け落ちていた。
「あ……ああ……」
声にならない呻きが漏れる。胸にぽっかりと穴が空いたような、絶対的な喪失感。その時だった。腰の『無の砂時計』が、これまでになく強い光を放ち、カイの体を温かく包み込んだ。砂時計の中で輝く無数の結晶が、彼に先へ進めと囁いているようだった。
第五章 虚無の中心へ
『始まりの島』は、島ではなかった。光も音も、物質さえも存在しない、完全な虚無の空間だった。ただ、その中心に、闇よりも深い黒色の球体――活動を停止した『始まりの結晶』が浮かんでいた。
ここが、世界の中心。全ての物語が生まれる場所。
カイはもう、失うものを何も持っていなかった。リラの記憶さえ失った今、彼に残っているのは、名もなき少女からもらった「大丈夫」という言葉の、微かな温もりの感触だけ。それもおそらく、この結晶に触れれば消え去るだろう。
それでいい、と彼は思った。
空っぽの心で、彼は虚空を泳ぐように進み、ゆっくりと『始まりの結晶』に手を伸ばした。これが、最後の幻影になる。
第六章 無限の砂時計
指先が結晶に触れた瞬間、カイの意識は無限に拡散した。
そこは、始まり以前の空間だった。色もなく、形もなく、時間さえ存在しない。ただ、純粋な可能性だけが光の粒子として満ちている。『究極の概念』――それは、世界そのものを創造し、維持している『無限の想像力』だった。
幻影が直接、カイの魂に語りかける。
《我は、人々が物語を紡ぐことで輝きを得る。だが、人々は決められた概念に安住し、変化を恐れ、新しい物語を想像することをやめてしまった。絶望が世界を覆い、我は力を失い、自ら沈黙を選んだのだ》
その言葉と同時に、カイの最後の記憶が霧散した。「大丈夫」という言葉の温もりが、指先からすり抜けていく。彼の内側が、完全な『無』になった。
だが、その時、奇跡が起きた。
失われたはずの記憶は、結晶に吸収されなかった。それはカイの空っぽになった心の中心で、眩い光となって溢れ出したのだ。リラとの笑顔、交わした約束、手の温もり、そして最後の言葉。彼が失った全ての幸福な記憶が、新たな結晶――『創造の概念結晶』として生まれ変わり、彼の胸で力強く脈打ち始めた。
カイ自身が、新しい世界の『始まり』となったのだ。
彼の腰で揺れていた『無の砂時計』が、ゆっくりと上下逆さまに反転する。中に満ちていた無数の小さな結晶たちが、砂のようにさらさらと流れ始めた。それは砕かれた結晶の砂ではなく、純粋な光の奔流だった。新しい世界の時間軸が、その光の律動とともに、静かに、そして力強く刻まれ始めた。
第七章 想像力が紡ぐ地平線
気がつくと、カイは緑の草が生い茂る大地に立っていた。
見上げた空に、『概念結晶島』の姿はどこにもなかった。世界は一変していた。周りには、呆然と立ち尽くす人々がいる。彼らは空を見上げ、大地を踏みしめ、戸惑いながらも、その瞳には今までなかった光が宿っていた。やがて、誰かが歌を口ずさみ始め、別の誰かがその歌に合わせた物語を語り始めた。人々は、与えられた概念ではなく、自らの手で、心で、新しい概念を創造し始めていた。
カイの記憶は、完全に白紙だった。自分が誰なのかも、なぜここにいるのかも分からない。けれど、不思議と虚しさや悲しさはなかった。ただ、胸の中心に宿る、太陽のような温かい光を感じていた。
その時、彼の視界の先に、一人の少女が映った。彼女は地面に座り込み、指で土をなぞり、そこに一輪の花を描いていた。この世界に生まれた、最初の花だった。
カイは彼女を知らない。
だが、その懸命な姿を見た瞬間、彼の胸の光がひときわ強く輝いた。彼の唇から、彼自身が初めて創造する、新しい概念(ことば)が自然とこぼれ落ちた。
「――美しい」
その言葉は風に乗り、少女の元へ届いた。少女が顔を上げ、カイを見て、柔らかく微笑む。
世界は、無限の可能性という名の混沌と共に、新しい『始まり』の朝を迎えた。その地平線の中心で、カイという名の『無限の想像力』が、静かに輝いていた。