靄の向こうの君へ
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靄の向こうの君へ

第一章 灰色の協奏曲

カイが住む街は、常に薄い靄に包まれていた。建物の輪郭は曖昧で、アスファルトからは湿った土の匂いが立ち上る。人々は皆、言葉を濁し、視線を彷徨わせながら会話を交わす。ここでは、明確な言葉は無粋であり、危険ですらあった。「良い天気ですね」とは誰も言わない。「空の色も、まあ、悪くないかもしれません」と、そんな風に囁き合うのがこの街の作法だった。

カイは、自分を少しばかり運の良い人間だと思っていた。角を曲がった途端に降り出した雨、その手にはさっき拾ったばかりの忘れ物の傘。崩れかけた石畳につまづき、落とした硬貨が排水溝に吸い込まれる寸前、偶然転がってきた小石に当たって止まる。そんな些細な幸運が、彼の日常を彩っていた。本人は気づいていなかったが、それは彼の無意識が現実をわずかに捻じ曲げた結果だった。「きっと、今日は良い日になるだろうな」。そう思考することが、実際に良い日を呼び寄せる力を持っているとは、夢にも思わずに。

街の人々は、ひとつの噂に怯えていた。『絶対の語り部』。どこからともなく現れ、この世界の禁忌である『真実』を語る謎の存在。その声が響くたび、世界のどこかが音を立てて歪むのだという。人々はその存在を、世界の安定を脅かす災厄として忌み嫌い、その名を口にすることさえ避けていた。カイもまた、その噂を耳にするたび、背筋に冷たいものが走るのを感じていた。安定した、この曖昧で優しい嘘の世界が、壊れてしまうことなど想像もしたくなかったからだ。

第二章 沈黙の頁

週末の蚤の市は、がらくたと嘘が入り混じる混沌の坩堝だった。埃っぽい露店が並ぶ中、カイの足がある一冊の本の前で止まった。装飾も題名もない、ただ黒い革で装丁されただけの古書。店主の老人は、「いわくつきでね。誰も中身を読めたことがないのですよ」と、歯のない口で曖昧に笑った。カイはなぜかその本に強く惹かれ、なけなしの硬貨を渡してそれを手に入れた。それが『虚空の書簡』と呼ばれる、呪われた遺物であることを知らずに。

自室の軋む椅子に腰掛け、カイはそっと書簡のページをめくった。中は全て、インクの染みひとつない真っ白な羊皮紙だった。退屈になって指でページをなぞった、その時だった。

――指が触れた箇所に、淡い光を放つ文字が浮かび上がったのだ。

『なぜ雨は、上から下にしか降らないのか』

それは、先ほどカイがぼんやりと考えていた、他愛もない疑問そのものだった。文字はインクではなく、まるで霧を集めて形にしたかのように揺らめき、数秒も経たずに霞となって消え去った。カイは目をこすり、もう一度ページに触れた。しかし、何も起こらない。

その夜、彼は世界の「当たり前」に、初めて小さな棘が刺さったような違和感を覚えた。いつもと同じはずの部屋の壁が、呼吸するようにわずかに歪んで見える。気のせいだろうか。彼はそう自分に言い聞かせ、思考の蓋を固く閉ざした。

第三章 亀裂の谺

その声は、街の喧騒を切り裂くように、唐突に響き渡った。低く、厳かで、揺るぎない響き。

「太陽は、唯一つである」

『絶対の語り部』の声だった。瞬間、世界が悲鳴を上げた。空にはいくつもの太陽の幻影が陽炎のように揺らめき、建物のガラスは飴のように溶け落ち、アスファルトは粘性を帯びた沼と化した。人々は耳を塞ぎ、その場にうずくまる。真実という劇薬が、嘘で塗り固められた世界を蝕んでいく。

カイもまた、その混沌の只中にいた。だが、彼は恐怖よりも先に、奇妙な感覚に囚われていた。その声に、なぜか懐かしさを感じたのだ。まるで、ずっと昔に忘れてしまった、自分自身の声を聞いているような。パニックに陥る人々の中で、彼だけが空に浮かぶ無数の太陽の幻影を、じっと見つめていた。「なぜ、ひとつでなければならないんだ?」という反発にも似た疑問が、心の奥底から湧き上がってくる。その思考が、さらなる世界の歪みを引き起こしていることなど、知る由もなかった。

第四章 真実という名の劇薬

あの日を境に、『絶対の語り部』の声は頻繁に街に響くようになった。それはカイが世界の不自然さに疑問を抱き、真実の姿を無意識に渇望するようになったからに他ならなかった。

「人の形は、決して同一ではない」

語り部の声が響くと、すれ違う人々の顔がのっぺらぼうになり、腕が三本に増え、影が本体から離れて歩き出す。世界はもはや、破綻寸前の悪夢だった。カイは、自分の思考と世界の崩壊が連動していることに、薄々気づき始めていた。疑問を抱けば抱くほど、世界が壊れていく。この恐怖の連鎖を断ち切らなければならない。

彼は震える手で『虚空の書簡』を開き、すべての元凶である『語り部』の正体を問うた。

「お前は、誰だ」

ページに、これまでになく鮮明な光の文字が浮かび上がった。それはゆっくりと、しかしはっきりと、彼の思考を現実として映し出す。

『カイ』

その二文字が、彼の心臓を冷たい手で掴んだ。絶望が全身を駆け巡る。世界の秩序を脅かす災厄の正体は、世界のどこか遠くにいる怪物などではなかった。この世界を愛し、その平穏を誰よりも願っていたはずの、自分自身の内に潜む『真実を求める心』そのものだったのだ。

第五章 世界のための嘘

自室に閉じこもり、カイは思考を止めようと必死にもがいた。何も考えるな。何も疑問に思うな。だが、一度知ってしまった真実への渇望は、麻薬のように彼の精神を蝕み、次から次へと新たな疑問を湧き上がらせる。窓の外では、彼の思考が生み出した『語り部』の声が響き、街が断末魔の叫びを上げていた。

もう、逃れる術はない。カイは最後の望みを託し、『虚空の書簡』に手を置いた。「どうすれば、世界を救える?」

書簡は、最後の答えを静かに示した。それは、彼にとって最も残酷な真実だった。

『君が、君でなくなること。真実を捨て、この世界の嘘を、心から肯定すること』

それは、自己という存在の完全な放棄を意味していた。真実を求める心を殺し、自分自身もまた、曖昧で不確かなこの世界の『嘘』の一部と成り果てること。

カイはゆっくりと立ち上がり、窓を開けた。眼下に広がるのは、彼の思考によって歪みきった、見るも無惨な故郷の姿。人々の悲鳴が、風に乗って耳に届く。彼は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。そして、これまで一度も口にしたことのない、最大の『嘘』を、自分自身の魂に向けて呟いた。

「この世界は、完璧だ。歪みも、矛盾も、痛みもない。これが、僕の愛した、唯一の真実だ」

その言葉は、彼の存在を賭けた、世界への誓いだった。

第六章 誰のものでもない物語

カイが嘘を受け入れた瞬間、彼の身体の輪郭が揺らぎ始めた。足元から徐々に透明になり、まるで陽炎のように周囲の景色に溶けていく。世界の歪みが、まるで逆再生の映像のように修復されていった。溶けたガラスは元に戻り、アスファルトは固さを取り戻し、人々の顔から異形は消え去った。空にひとつだけ浮かぶ、穏やかな太陽の光が街を照らす。

街角では、人々が何事もなかったかのように曖昧な会話を交わしている。

「なんだか、ひどい悪夢を見ていたような気がしますね」

「『語り部』ですって?馬鹿馬鹿しい。そんなもの、最初から存在しませんよ。きっと、誰かの作り話でしょう」

カイの名を覚えている者は、どこにもいなかった。彼が住んでいた部屋は、長い間誰も住んでいなかったかのように、静かに埃を積もらせていた。

幾年かの月日が流れた。

街の片隅で開かれた蚤の市で、一人の少女が黒い革装丁の古書を手に取った。少女が何気なくその空白のページをめくると、一瞬だけ、朝霧のような淡い文字が浮かび上がるのが見えた。

『かつてこの世界を救うために、自らのすべてを嘘に捧げた少年がいた、という物語がある』

その言葉は誰の目にも留まることなく、すぐに靄の中へと消えていった。

世界は『嘘』という名の平穏を取り戻し、そして誰も、その犠牲の名を知ることはない。

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