沈黙の調律師

沈黙の調律師

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第一章 沈黙の異邦人

ピアノの黒鍵が、まるで嘲笑うかのように指先から滑り落ちた。音大の入試会場に響いた不協和音は、俺、水瀬湊(みなせ みなと)の未来が砕け散る音そのものだった。幼い頃からコンプレックスだった、微妙に音程を外してしまう自分の声。歌を諦め、ピアノに逃げたはずが、極度の緊張は鍵盤の上にまで不実な音を転がした。

「もう、音楽は辞めよう」

絶望と共に会場を後にした、その瞬間だった。視界が真っ白な光に塗り潰され、身体が綿のように軽くなる感覚。次に目を開けた時、俺は石畳の上に倒れていた。見慣れたコンクリートの灰色ではなく、柔らかな苔をまとった、淡い翠色の石畳だ。

周囲を見渡すと、そこはまるでおとぎ話の挿絵から抜け出したような街だった。螺旋を描く尖塔、ステンドグラスが嵌め込まれたアーチ窓、そして行き交う人々は、ゆったりとしたローブを身にまとっている。だが、最も異様だったのは、その喧騒だ。それは雑踏ではなかった。市場で野菜を売る男の声は朗々としたアリアであり、井戸端で噂話に興じる女たちの会話は、軽やかなカノンだった。恋人たちは甘い二重唱を囁き、子供たちの遊び声さえ、リズミカルな掛け合いの歌曲になっている。

ここは、誰もが歌で話す世界なのだ。

呆然と立ち尽くす俺に、果物屋の店主らしき恰幅の良い男が、心配そうな表情で何かを歌いかけてきた。張りのあるテノールの旋律だったが、言葉の意味は全く分からない。俺は掠れた声で答えた。

「あ、あの……ここは、どこですか?」

その瞬間、男の顔が驚愕に歪んだ。周囲の人々も、まるで禁忌の音を聞いたかのように俺から距離を取る。彼らの顔には、恐怖と嫌悪が浮かんでいた。俺の「話し言葉」は、この世界では意味をなさないどころか、耳障りな雑音、不快なノイズとしてしか認識されないらしかった。

孤独が、冷たい水のように心に染み込んできた。言葉が通じない、のではない。俺の存在そのものが、この世界の調和を乱す不協和音なのだ。誰にも理解されず、誰とも繋がれない。それは、音楽に絶望した俺が直面するには、あまりにも残酷な現実だった。俺は、この歌う世界で、ただ一人の「沈黙の異邦人」となった。

第二章 拙いカデンツァ

街の片隅で膝を抱えていた俺に、静かなアルトの歌声が降り注いだ。顔を上げると、そこにいたのは、深くフードを被った老婆だった。彼女の歌は、他の人々のものとは少し違っていた。華美な装飾はなく、ただ静かで、慈しむような響きがあった。彼女は、俺の前に古びた木製のリュートを差し出し、ゆっくりとしたテンポで、もう一度歌いかける。それは「おいで」とでも言うような、優しい旋律だった。

俺は、リラと名乗るその老婆の家に引き取られた。彼女はかつて、土地から土地へと物語を歌い継ぐ吟遊詩人だったという。リラの家は、様々な楽器と古びた楽譜で埋め尽くされていた。彼女は身振り手振りと、単純な音階の組み合わせで、俺にこの世界「ハルモニア」の理(ことわり)を教えてくれた。

この世界では、言葉は音であり、音は力を持つ。感情はメロディに、意思はリズムに、そして世界のあらゆる事象は、壮大な交響曲の一部として存在している。だからこそ、人々は歌うのだ。歌うことは、生きることそのものだった。

リラは俺に歌を教えようとした。だが、俺の喉から出るのは、やはり音程の定まらない、歪な声だけだった。元の世界で「音痴」と揶揄された声。それは、ハルモニアの洗練された音楽の中では、あまりにも耳障りなノイズだった。俺は何度も歌うことを諦めようとしたが、リラは辛抱強く、こう歌い諭した。

「大切なのは、完璧な音程じゃない。伝えたいと願う、心の響きだよ」

俺は拙いながらも、歌い始めた。最初は単音の羅列。次に、ぎこちない旋律。パンを分けてくれたお礼を歌えば、パン屋の主人は朗らかなフーガで応えてくれた。道端の花の美しさを口ずさめば、通りすがりの少女が可憐なソプラノで微笑み返してくれた。不格好な俺の歌を、人々は笑わなかった。彼らは、俺の旋律の奥にある「伝えたい」という意志を、懸命に聴き取ろうとしてくれたのだ。

初めて、この世界で心が通じた気がした。音楽に裏切られ続けた俺の心に、小さな灯火が宿った瞬間だった。それはまるで、長い不協和音の末に、ようやく見つけた解決の和音(カデンツァ)のように、温かかった。

しかし、そんな平穏な日々の裏で、ハルモニアは静かに蝕まれていた。リラが「音の歪み」と呼ぶ現象だ。空に亀裂のような黒い線が走り、そこから全ての音が吸い込まれていくかのような、絶対的な無音が広がる。歪みに触れた大地は色を失い、歌声を忘れたように沈黙するのだ。その現象は、日を追うごとに世界各地で深刻化していた。人々は、世界の終焉が近いのではないかと、不安のレクイエムを歌い始めていた。

第三章 不協和音の救世主

ある夜、最も大きな「音の歪み」が、街のすぐ近くの森に現れた。大地は悲鳴を上げ、木々は枯れ、鳥たちの歌声も止んだ。リラはリュートを固く抱きしめ、絶望的なアリアを歌った。

「ああ、大調和の歌(グラン・シンフォニア)が、もうもたない……」

彼女の歌によると、この世界はかつて、万物の調和を司る「大調和の歌」によって創造され、維持されてきたという。しかし、その歌は長い年月の間に少しずつ力を失い、旋律が忘れ去られ、世界のあちこちで不協和音が生じ始めた。それが「音の歪み」の正体だった。世界そのものが、調律を失いつつあったのだ。

「誰か、失われた『原初の旋律』を思い出せる者がいれば……。世界をもう一度、調律できるのに」

リラの歌声は、祈りにも似ていた。その時、彼女はハッと顔を上げ、俺の顔をじっと見つめた。その瞳には、信じられないものを見るような光が宿っていた。

「湊……お前の声だ」リラは震えるソプラノで歌った。「お前の歌は、この世界の誰とも違う。どの音階にも属さない、奇妙な響きを持っている。私たちはそれを、ただの『音痴』なのだと思っていた。だが、もしやそれは……」

リラは古い羊皮紙の巻物を広げた。そこには、古代の文字と共に、奇妙な記譜法で書かれた旋律が記されていた。

「伝説の『調律師』についての記述だ。『調律師は異界より来る。その声は世界のいかなる音とも交わらぬ不協和音にして、全ての調和を無に帰す力を持つ。されど、その無音の響きこそ、乱れたる世界を再構築する、唯一の原初の旋律なり』と」

読者の予想を裏切る、驚くべき事実。俺がずっとコンプレックスに感じていた、この中途半端に音を外す声。音楽の世界で、完全な欠陥だと思っていた俺の「不協和音」。それこそが、この崩壊しかけた世界を救う、唯一の鍵だというのか。俺がこの世界に呼ばれたのは、勇者としてでも、魔法使いとしてでもない。ただ、この「不協DENAI」声で歌うためだけに。

価値観が、脳の奥でぐらりと揺れた。俺は自分の声が嫌いだった。この声のせいで夢を諦めた。しかし、この世界では、その欠点こそが希望だという。俺は世界を救う「救世主」などではない。世界を一度壊し、作り直すための「不協和音」なのだ。

第四章 世界を編む歌

「音の歪み」の中心地、沈黙が支配する森の奥深くへと、俺はリラと共に足を踏み入れた。そこには、巨大な水晶の柱が突き立っており、その表面には無数のひびが走っていた。あれが「大調和の歌」の源泉であり、世界の心臓なのだとリラは歌った。

「歌うんだ、湊。お前の歌を。お前の魂の旋律を」

リラに背中を押され、俺は水晶の前に立った。何を歌えばいい? 完璧なアリアでも、美しいバラードでもない。俺が歌えるのは、俺だけの歌だ。

俺は、静かに息を吸った。

思い浮かべたのは、元の世界のことだ。入試に落ちた絶望。音楽を愛しているのに、才能がないと突きつけられた痛み。そして、このハルモニアに来てからの日々。言葉が通じない孤独。初めて歌で心が通じた喜び。リラの優しさ。街の人々の温かい歌声。守りたいものが、ここにはあった。

俺の喉から、歌が溢れ出した。

それは、ハルモニアの誰もが知らない旋律だった。音程は不安定に揺らぎ、時折、耳障りなほどに調性を外れる。だが、その歌には、俺の全ての感情が込められていた。絶望も、希望も、感謝も、決意も。俺の人生そのものが、一つの歌になっていた。

すると、信じられないことが起きた。俺の不協和音の歌声に呼応するように、ひび割れた水晶が鈍い光を放ち始めたのだ。俺の声は、世界の調和を破壊する音。だがそれは、既存の調和を一度更地に戻し、新しいハーモニーを創造するための、大いなる序曲だった。ひびは消え、代わりに全く新しい、複雑で美しい光の模様が水晶の表面を走り始める。

枯れた木々に、再び翠の葉が芽吹き始めた。沈黙していた大地から、柔らかな草花の歌が聞こえてくる。空を覆っていた「音の歪み」は、俺の歌に吸い込まれるように消え去り、そこには澄み渡った青空が広がっていた。

歌い終えた時、俺は膝から崩れ落ちた。全霊を込めた歌は、俺の中から何かを根こそぎ奪っていったようだった。代わりに、世界は新しい生命の歌で満ち溢れていた。リラが駆け寄り、涙に濡れた歓喜のカンタータで俺を抱きしめた。

俺は英雄にはならなかった。人々は、誰が世界を救ったのか知らない。ただ、世界が新しい調和を取り戻し、以前よりも豊かで美しい歌で満たされるようになったことだけを知っている。

俺は、ハルモニアに残った。元の世界に帰る道もあったのかもしれないが、もう探そうとは思わなかった。俺はここで、自分の声を見つけたのだから。自分の存在が、この世界の調和の一部として受け入れられる場所を見つけたのだから。

今、俺はリラの後を継いで、小さな村で子供たちに歌を教えている。俺の歌は相変わらず、少しだけ音を外す。けれど子供たちは、それを「湊先生だけの特別な響きだ」と言って、楽しそうに真似をする。

新しい世界の朝焼けの中、俺は丘の上に立ち、新しい歌を口ずさむ。それは、かつてのような絶望の歌ではない。誰かの真似でもない。この世界と、俺自身の魂とが共鳴して生まれる、ただ一つの、俺だけの歌だ。欠点だと思っていた不協和音は、今、俺の誇りそのものだった。その不完全な旋律は、風に乗り、新しく生まれ変わった世界へと、どこまでも優しく響き渡っていった。

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