第一章 終焉の書庫
気がつくと、桐谷湊は無限に続くかのような書架の間に立っていた。天井は見えず、ただ柔らかな光が満ちている。空気は澄み切っているのに、古紙と、そして名状しがたい星屑のような匂いがした。床も壁もなく、ただ、あらゆる方向に伸びる巨大な本棚が、世界のすべてだった。
「ようこそ、観測者殿。終焉の書庫へ」
声はどこからともなく、湊の意識に直接響いた。驚きはなかった。まるで最初からそうなることを知っていたかのように、心は静かだった。目の前に、光の粒子が集まって人型を成す。性別も年齢も判然としない、のっぺりとした顔の「案内人」が、恭しく一礼した。
「ここは、ありとあらゆる世界の『終わり』を収蔵する場所。あなたの役目は、これから消えゆく世界の最後の瞬間を観測し、その記録を書架に収めることです」
湊は、元・天体観測所の職員だった。遠い星の光を捉え、その組成や距離を分析する日々。感情を排し、客観的な事実のみを追い求める仕事は、人間関係を億劫に感じる彼にとって天職だった。だから、この突拍子もない状況にも、奇妙な既視感と納得を覚えていた。
「観測、ですか」
「はい。あなたは『観測窓(オブザベーション・ウィンドウ)』を通して、対象世界の指定された座標、指定された時間に現前します。ただし、あなたはあくまで観測者。世界の事象に干渉することは、決して許されません。触れることも、声を発することも。ただ、そこに在り、見届けるのです」
案内人が指し示すと、目の前の空間が水面のように揺らぎ、向こう側の景色が映し出された。
それは、燃え盛る城壁の上だった。空には二つの月が浮かび、地平線からは巨大な影が迫っている。剣と魔法の、ファンタジーとしか言いようのない世界。
観測窓の焦点が、甲冑をまとった一人の少女に合う。彼女はボロボロになりながらも、一本の槍を握りしめ、影に向かって立っていた。唇が動き、微かに声が聞こえる。
「……たとえ私が最後の一人になっても、この世界の夜明けを、信じる」
その直後、巨大な影が彼女を飲み込んだ。絶叫も悲鳴もなく、ただ一瞬の閃光とともに、彼女の存在は消滅した。世界が、終わった。
湊の目の前に、一冊の真新しい本がひとりでに現れる。革張りの表紙には、彼が今見た光景が刻印されていた。『剣の王国オルドラン、最後の騎士の祈り』。
湊は、その本を手に取った。ずしりと重い。これは、一つの世界の墓標なのだ。彼は表情を変えることなく、案内人に促されるまま、空いている書架の一画にその本を収めた。
これが、彼の新しい日常の始まりだった。客観的に、冷静に、ただ世界の終わりを見届け、記録する。かつての仕事と何ら変わらない。そう、湊は思っていた。
第二章 塵と化す星々の記録
湊の「仕事」は淡々と続いた。
ある時は、進みすぎた科学文明が作り出した自己増殖型ナノマシンにすべてを喰らい尽くされる惑星の最後を見届けた。ガラスと金属でできた摩天楼が、灰色の塵となって崩れ落ちていく光景は、静かで、荘厳でさえあった。彼はその無機質な崩壊を、まるで数式を解くように冷静に観測した。
またある時は、未知のウイルスによって、たった二人の生存者だけが残された森の惑星を訪れた。寄り添いながら、静かに息を引き取っていく老夫婦。彼らの皺だらけの手に、最後まで小さな野花が握られていた。湊の心にかすかなさざ波が立ったが、彼はそれを記録すべきノイズとして即座に打ち消した。
観測窓から見えるのは、常にループする「終わりの瞬間」だ。数秒、あるいは数分。絶望、諦観、怒り、そして愛。あらゆる感情の極致が、永遠に繰り返される光景を、湊はただ見つめ続けた。
彼は優秀な観測者だった。感情移入をせず、見たままの事実を正確に記録として定着させる。案内人も「あなたは実に適任です」と、感情のない声で評価した。
しかし、何百、何千という「終わり」を観測し続けるうちに、湊の内側に何かが堆積していくのを感じていた。それは、かつて彼が意図的に切り捨ててきたはずの感情の澱(おり)だった。
記録を終え、書庫の静寂に戻るたび、耳の奥で、観測した世界の断末魔が響く気がした。目を閉じれば、諦めきれずに伸ばされた誰かの手がちらつく。
彼は、自分が記録しているのは単なる事象ではなく、誰かの人生そのものであり、守りたかった世界のすべてなのだという、当たり前の事実に気づき始めていた。
客観的であること。傍観者であること。それが、耐えがたいほどの苦痛に変わりつつあった。
「次の観測対象です」
案内人の声が響く。いつものように差し出された観測窓を、湊は重い気持ちで覗き込んだ。そして、息を呑んだ。
そこに映っていたのは、見慣れない異世界ではなかった。街路樹の葉がアスファルトに影を落とす、ありふれた交差点。彼がかつて住んでいた街の風景、そのものだった。
第三章 再会は秒針の檻の中
その交差点は、湊にとって忘れられない場所だった。そして、観測窓が焦点を結んだ人物を見て、彼の心臓は凍りついた。
長い黒髪、柔らかな微笑み。数年前に別れた恋人、水瀬沙耶(みなせ さや)がそこにいた。
彼女は横断歩道の前で信号待ちをしている。イヤホンで音楽を聴いているのか、小さくリズムを取っている。それは、湊がよく知る彼女の癖だった。
なぜ、彼女が。ここは「終わる世界」を観測する場所のはずだ。
次の瞬間、湊の思考は絶叫に変わった。信号が青に変わる。彼女が足を踏み出す。その刹那、けたたましいブレーキ音とともに、制御を失ったトラックが交差点に突っ込んできたのだ。
――ドン、という鈍い衝撃音。
世界が、終わった。沙耶の、世界が。
観測窓の光景がリセットされ、再び信号待ちをする沙耶の姿が映し出される。ループ。彼女は、交通事故に遭う直前の、あの数秒間を永遠に繰り返しているのだ。
「やめろ……」
湊の口から、初めて感情のこもった声が漏れた。
「やめてくれ!」
彼は観測窓に駆け寄り、ガラスを叩いた。もちろん、指は空を切るだけだ。それでも彼は叫ばずにはいられなかった。沙耶、危ない、逃げろ、と。
「無駄です、観測者殿」
背後から、案内人の冷たい声が響く。「干渉は許されません。それは最初のルールです」
「なぜだ!なぜ彼女なんだ!ここは異世界の終わりを記録する場所じゃなかったのか!」
「あれもまた、一つの世界の終わりです。彼女にとっての世界の終わり。そして……あなたにとっての世界の終わりでもあった」
案内人の言葉に、湊は動きを止めた。
「あなたはいったい、何者なんだ……?」
「私はただの案内人。ですが、この書庫の真実を、あなたに告げる時が来たようです」
光の人型は、ゆっくりと語り始めた。
「終焉の書庫は、ただ無作為に世界の終わりを集めているわけではありません。ここは、自らの人生に強い『後悔』を抱いた魂が、その魂を浄化するために訪れる場所なのです」
湊は愕然とした。
「観測者は、他者の無数の『終わり』を見届けることで、自らが囚われているたった一つの『終わり』――その後悔から、少しずつ解放されていく。それが、この書庫のシステム。あなたがここに召喚されたのはなぜか、もうお分かりでしょう」
沙耶との別れ。原因は、湊の側にあった。仕事にかまけ、彼女の心の機微に向き合おうとしなかった。些細なすれ違いが重なり、彼女が「少し距離を置きたい」と言った時、彼はそれを引き留めることすらしなかったのだ。プライドが邪魔をした。いつかまた元に戻れると、高を括っていた。
彼女が事故で亡くなったと知ったのは、その一週間後のことだった。
湊の世界は、あの日に終わったのだ。彼の時間は、後悔という檻の中で止まっていた。
「あなたが観測してきた幾千の終わりはすべて、この瞬間のための準備でした。さあ、記録を。彼女の最後を客観的に見届け、あなたの後悔を浄化するのです。それができれば、あなたの魂は解放される」
案内人は、一冊の空の本を湊の前に差し出した。
『水瀬沙耶の終わり』。
それを受け取り、彼女の死を記録することこそが、自らの救済に繋がる。頭では理解できた。だが、彼の全身がそれを拒絶していた。
傍観者でいることの苦痛。客観的であることの虚無。幾千の終わりを見届けてきた湊は、もう昔の彼ではなかった。
彼は、差し出された本を見つめ、そして、何度も死を繰り返す沙耶の姿を見つめた。
第四章 きみに届ける最後の一言
湊の心の中で、二つの選択肢が激しくせめぎ合っていた。
ルールに従い、彼女の死を観測し、記録する。そうすれば、この終わりのない後悔から解放される。魂は救済され、新たな道を歩めるのかもしれない。
あるいは、ルールを破るか。
「もし……干渉すれば、どうなる?」
湊の問いに、案内人は淡々と答えた。
「ルールを破った観測者は、その存在資格を失います。あなたは消滅し、二度と転生することもなく、無に還るでしょう。そして、彼女の『終わり』は、別の観測者によって記録されるだけです」
救済か、消滅か。
湊は、静かに目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、観測してきた数多の終わりの光景だった。世界の夜明けを信じて消えた騎士の少女。最後まで手を握り合っていた老夫婦。彼らは皆、自らの世界の終わりの中で、何かを守ろうとし、何かを伝えようとしていた。彼らの最期の瞬間の煌めきが、湊の中で一つの答えを形作っていた。
彼は、もうただの観測者ではいられなかった。
「俺は……桐谷湊だ」
彼は、差し出された本を押し返した。
「俺は、俺の後悔を、こんな形で終わらせたくない」
湊は観測窓に向き直った。ループする秒針の檻の中で、沙耶が再び横断歩道に足を踏み出そうとしている。
「警告します。あなたの魂が……」
「分かってる」
湊は案内人の言葉を遮った。彼は、この書庫に来て初めて、心の底から微笑んだ気がした。
「ありがとう、今まで見せてくれて。でも、俺はもう、ただ見ているだけはごめんだ」
彼は、消滅を覚悟した。運命を変えることはできないだろう。彼女を救うことも、おそらく不可能だ。だが、たった一つだけ、彼にしかできないことがある。
湊は、観測窓の向こう、愛する人に向かって、全存在を振り絞って叫んだ。それは、ルールを破る、魂の言葉だった。
「沙耶!」
その瞬間、書庫の世界が激しく揺れた。湊の身体が足元から光の粒子となってほどけていく。
ループしていた沙耶の時間が、ぴたりと止まった。彼女は驚いたように辺りを見回し、その視線が、時空を超えて湊を捉えた。彼女には湊の姿は見えていないはずだった。だが、確かに、彼女は湊の存在を感じ取っていた。
「今まで、ごめん。そして……ありがとう」
伝えられなかった言葉。後悔の核となっていた想い。
「愛してた。ずっと」
湊の身体が完全に光となり、霧散する。彼の意識が薄れゆく最後の瞬間、彼が見たのは、涙を流しながら、優しく微笑む沙耶の顔だった。
終焉の書庫に、静寂が戻った。
桐谷湊という観測者は消え、彼のいた場所には何も残らなかった。
ただ一つ、書架の一画に、新しい本が自ずと収められていた。その表紙には、交差点で微笑む女性の姿が刻まれている。
本のタイトルは、こう変わっていた。
『水瀬沙耶の世界、愛と共に永遠となる』
彼女の「終わり」は、もはや単なる事故の記録ではなかった。それは、一人の男の自己犠牲によって、愛された記憶として永遠に昇華され、この書庫の中で静かに輝き続けるのだった。