晶世界と心殻の男

晶世界と心殻の男

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***第一章 青い涙滴と沈黙の森***

水無月奏(みなづき かなで)が意識を取り戻した時、頬に触れるのは苔のひんやりとした感触だった。昨日まで寝ていたはずの、窮屈なワンルームのベッドではない。ゆっくりと瞼を押し上げると、視界に飛び込んできたのは、見たこともない巨木が空を覆う、深緑の森だった。木々の隙間から射し込む光は、まるで教会のステンドグラスのように、地面に複雑な模様を描いている。

「……どこだ、ここ」

掠れた声が、静寂に吸い込まれて消えた。混乱した頭で体を起こすと、枕元――苔むした木の根元に、きらりと光るものがあることに気づいた。それは、夜空の最も深い青を閉じ込めたかのような、美しい涙滴型の宝石だった。指先で触れると、氷のような冷たさが伝わってくる。奏はそれに見覚えがなかった。そもそも、こんな高価そうなものを所持しているはずがない。

何が起きているのか、全く理解できなかった。夢か? しかし、湿った土の匂い、肌を撫でる涼やかな風、遠くで響く鳥の声、その全てがあまりに生々しい。立ち上がって周囲を見渡しても、鬱蒼とした森が続くだけで、人工物の気配は一切なかった。

途方に暮れて森を彷徨い始めて、どれくらい経っただろうか。不意に、背後で小枝の折れる音がした。振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。亜麻色の髪を三つ編みにした、森の妖精のような少女だった。彼女は奏の姿を認めると、驚くでもなく、その手に握られた青い宝石に目を留めた。

「迷い人さん?……昨夜は、とても悲しい夢を見たのね」

少女の言葉に、奏は息を呑んだ。なぜ、夢の話を? 確かに、昨夜は何か辛い夢を見ていた気がする。上司に叱責され、同僚に笑われ、誰にも理解されないまま独りきりでいる、そんな悪夢を。しかし、なぜ初対面の少女がそれを知っているのか。

「どうして、それを……」
「だって、あなたの『悲しみ』が、そこに形になっているもの」

少女はこともなげに言って、奏の手の中の青い涙滴を指さした。

「ここは晶世界(しょうせかい)。人の心が、感情が、結晶になる世界。あなたは、あなたの心が零したその涙と一緒に、この世界へ迷い込んできたのよ」

少女の言葉は、奏の理解を完全に超えていた。感情が、結晶になる? 自分の悲しみが、この冷たい宝石になったというのか。奏は、自分の内側にあるはずの、誰にも見せたことのない感情が、白日の下に晒されたような、奇妙な羞恥と衝撃に襲われた。彼は、感情を表に出すのがひどく苦手だった。嬉しい時も、辛い時も、いつも薄い笑みを貼り付け、心を固い殻で覆って生きてきた。その殻の内側にあるはずのものが、今、こうして物理的な形となって、他人の目に触れている。その事実は、奏の世界が根底から覆される、最初の予兆だった。

***第二章 生まれぬ琥珀と心開く少女***

少女はリリアと名乗った。彼女に連れられて辿り着いた村は、まるで童話の中から抜け出してきたような、穏やかで美しい場所だった。木造りの家々の軒先には、色とりどりの結晶が風鈴のように吊るされ、陽光を浴びてキラキラと輝いている。人々は挨拶を交わす代わりに、手のひらに生まれたばかりの小さな結晶を見せ合っていた。陽だまりのように温かい光を放つ琥珀色の結晶は「喜び」、情熱的な深紅の結晶は「愛情」、そして時には、激しい稲光を宿した紫色の結晶「怒り」さえも、ここでは素直な感情の証として受け入れられていた。

奏は、この世界の光景に戸惑い続けた。人々はあまりに無防備に、自分の心をさらけ出している。彼にとって、感情とは隠し、抑え込むべきものだった。しかし、この世界では、感情を表現することこそが、生きることそのものだった。

リリアの家に厄介になりながら、奏は村の生活に馴染もうと努力した。だが、長年染み付いた心の癖は、そう簡単には抜けなかった。村人から親切にされても、感謝の気持ちは胸の奥で渦巻くだけで、結晶になることはない。美しい夕焼けを見て感動しても、その想いは形にならなかった。いつしか奏は、村人たちから「心殻の男」「感情のない人」と囁かれるようになり、深い孤独感に苛まれた。

そんな奏に、リリアだけは変わらず寄り添ってくれた。
「無理しなくていいのよ。あなたの心は、長い間、固い殻の中にいたんだもの。すぐには出てこられないわ」

ある晩、リリアは静かに語ってくれた。彼女の母親は、かつて『情動病』という病で命を落としたのだという。それは、悲しみや苦しみを溜め込みすぎた結果、心の中で結晶が暴走し、内側から体を蝕んでいく恐ろしい病だった。

「感情はね、流れる川と同じ。堰き止めてばかりいると、いつか溢れて、全てを壊してしまうの。だから、私たちは結晶にして外に出す。悲しみだって、怒りだって、大切なあなたの一部なんだから」

リリアの言葉は、奏の心の殻を少しずつ溶かしていった。彼女は、奏が決して形にできない内面の感情を、その優しい眼差しでじっと見つめ、理解しようとしてくれた。

数日後、奏が風邪をこじらせて寝込んでいると、リリアが薬草の入った温かいスープを運んできてくれた。素朴だが、滋味深い味わいが、冷えた体にじんわりと染み渡る。その温かさが胸に広がった瞬間、奏は右の手のひらに、微かな熱を感じた。
恐る恐る手を開くと、そこには、米粒ほどの小さな、蜂蜜色の光を放つ結晶があった。

「……あ」

それは、紛れもなく「喜び」と「感謝」の結晶だった。不格好で、とても小さいけれど、紛れもなく奏自身の心のかけら。初めて自分の感情が形になったことに、奏は言いようのない感動を覚え、瞳が熱くなった。リリアはそれを見て、花が綻ぶように微笑んだ。
「よかった。あなたの心、ちゃんとここにあるじゃない」
その笑顔に、奏の胸で、また一つ、温かい結晶が生まれるのを感じた。

***第三章 黒水晶の採掘者と世界の真実***

村に平穏が戻り、奏が少しずつ自分の感情と向き合い始めた矢先、その事件は起きた。突如として村に現れたのは、黒い装束に身を包み、無機質な仮面で顔を隠した集団だった。彼らは自らを『採掘者』と名乗り、村人たちに奇妙な装置を向けた。装置から放たれる不協和音が人々の心をかき乱し、恐怖や絶望といった負の感情を強制的に引きずり出す。苦しむ村人たちの体からは、濁った黒水晶のような結晶が次々と生まれ、採掘者たちはそれを容赦なく奪い去っていった。村は阿鼻叫喚の地獄と化した。

「リリア!」

奏は、採掘者の一人に腕を掴まれ、怯えるリリアの姿を見つけた。助けなければ。そう思うのに、全身を支配する恐怖で足が縫い付けられたように動かない。自分の無力さに歯噛みする奏の前で、採掘者のリーダーと思しき男が、ゆっくりと仮面を外した。

その顔を見て、奏は全身の血が凍りつくのを感じた。
「……佐伯、さん……?」

そこにいたのは、元の世界で奏が勤めていた会社の上司、佐伯その人だった。常に冷静沈着を装い、決して感情を表に出さず、部下を数字でしか見ない冷徹な男。なぜ、彼がここに?

佐伯は、驚愕する奏を一瞥し、歪んだ笑みを浮かべた。
「水無月か。お前も、こちら側に来ていたのか。まあ、お前のような感情のゴミ箱には、お似合いの場所だろう」
その言葉は、冷たい刃となって奏の胸を抉った。
「ここは、元の世界で心を空っぽにした者たちが、他人の感情を啜って生き永らえるための場所だ。そして、お前のように行き場のない感情を溜め込んだ人間は、格好の餌食になる」

佐伯の口から語られた真実は、あまりに衝撃的だった。晶世界は、元の世界で感情を抑圧し続けた人間の精神が、その重みに耐えきれずに流れ着く一種の精神世界だったのだ。そして、心を完全に殺して空っぽになった人間――佐伯のような人間は、他人の感情の結晶をエネルギー源として奪う『採掘者』と化す。奏もまた、無意識に心を殺し続けた結果、この世界に引き寄せられた一人だった。

「『情動病』の末路が、我々『採掘者』だということを教えてやろう」
佐伯は嘲笑う。リリアが語った恐ろしい病の正体。それは、抑圧された感情が自己を食い尽くし、他人の感情を求める怪物へと変貌させてしまう呪いだった。奏は、自分の行き着く先が、目の前の男の姿なのだと悟り、絶望に打ち震えた。

***第四章 心殻を砕く光の奔流***

絶望が、冷たい鉛となって奏の心を沈めていく。恐怖、無力感、そして長年溜め込んできた無数の悔しさや悲しみが、体内で濁流のように渦を巻き始めた。これが『情動病』の始まりか。胸が張り裂けそうな痛みと共に、自分の内側から黒い結晶が生まれようとしているのが分かった。このままでは、自分も佐伯と同じになる。リリアの感情を、この手で奪う怪物に――。

「……いやだ」

その時、脳裏に浮かんだのは、リリアの笑顔だった。不器用な自分を、辛抱強く見守ってくれた優しい眼差し。「あなたの心、ちゃんとここにあるじゃない」。その言葉が、心の奥で鳴り響いた。

そうだ。僕には心がある。押し殺してきただけで、消え去ったわけじゃない。この痛みも、恐怖も、そしてリリアを助けたいと叫ぶこの想いも、全てが僕自身のものだ。

奏は、覚悟を決めた。もう、蓋はしない。この固い心殻を、自らの手で打ち砕くのだ。
彼は、全ての感情の奔流に身を委ねた。
会社での理不尽な叱責に対する『怒り』。誰にも理解されなかった『孤独』。リリアに出会えた『喜び』。彼女を失うことへの『恐怖』。そして、彼女を守りたいと願う、生まれて初めて覚えた強い『愛情』。

「うおおおおおおっ!」

魂の叫びと共に、奏の全身から、色とりどりの無数の結晶が一斉に噴き出した。それは、単一の色ではない。赤、青、黄、緑、紫……数えきれない感情の色が混じり合った、巨大な光の奔流だった。それは破壊の力ではなく、あまりに複雑で、矛盾をはらみ、それでいて温かい、一人の人間の心の全てを体現した光だった。

光は採掘者たちを包み込み、彼らの仮面を砕いていく。光に触れた佐伯は、苦悶の表情を浮かべた。彼の瞳に、忘れていたはずの記憶が蘇る。幼い頃に抱いた夢、初めて人を愛した日のときめき、挫折した時の涙。彼が捨て去ってきた人間性のカケラが、奏の光に共鳴し、彼の空っぽの心を埋めていく。
「ああ……あ……」
佐伯は、人間らしい苦悩の声を上げてその場に崩れ落ちた。採掘者たちは次々と動きを止め、ただの抜け殻のようになった。

全てが終わった時、奏の周りには、彼が解放した無数の美しい結晶が、きらきらと舞い落ちていた。彼はリリアの元へ駆け寄り、その手を固く握った。もう、彼の心に殻はなかった。

元の世界に戻れるのか、それは分からない。しかし、奏はもはや、感情を押し殺していた昔の自分に戻りたいとは思わなかった。彼は、手のひらで生まれたばかりの、ひときわ温かく輝く琥珀色の結晶――リリアへの純粋な感謝の結晶を、彼女の手にそっと握らせた。

リリアはそれを受け取り、涙を浮かべて微笑んだ。
見上げると、空には様々な感情の色を映したかのような、見たこともない壮大なオーロラが広がっていた。それはまるで、一人の人間が本当の心を取り戻したことを、世界が祝福しているかのようだった。奏は、感情と共に生きることを選んだ。彼の本当の人生は、今、この晶世界で始まろうとしていた。

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