空白のクロニクル
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空白のクロニクル

第一章 観測されない男

俺という存在は、この世界のインクの染みだ。水面に落ちた油のように、決して交わらず、ただそこにあるだけの異物。鏡を覗き込んでも、そこに俺の姿はない。磨き上げられたガラスの向こうには、俺が見ているはずの部屋の風景が、空虚に続いているだけ。カメラのレンズも、俺という存在を頑なに拒絶する。集合写真に写るのは、俺が立っていた場所だけがぽっかりと抜けた、不自然な空白だ。

肉体は「情報」の塊なのだと、誰に教わるともなく理解していた。この世界の物理法則から逸脱した、定義されないデータ。だから、思考するだけで世界を侵食する。深く考え込むと、目の前のカフェテーブルの木目がゆらりと滲み、遠くで鳴っていた教会の鐘の音が不意に途切れる。俺の思考が、世界の精緻な設計図から「情報量」をわずかに奪い、ディテールを削り取ってしまうのだ。

街を歩く人々は、皆、見えない線路の上を走る列車のように正確だ。午前八時には同じ男が同じ新聞を買い、午後三時には同じ婦人が同じベンチで鳩に餌をやる。彼らの会話には淀みがなく、その表情には予定調和の安らぎが満ちている。彼らは、自らの人生という名の物語を、一字一句間違えることなく読み上げている役者のようだ。俺だけが、台本を持たないエキストラだった。

「今日も良い天気ですね」

パン屋の女主人が、俺のすぐ隣に立つ男に微笑みかける。男は決まった台詞を返す。俺はそこにいるのに、誰の視線も留まらない。孤独は、冷たい霧のように肌にまとわりついていた。

第二章 世界の書と空白のページ

自分の存在の根源を知りたいという渇望が、俺を街の中央にそびえる大図書館へと導いた。埃と古い紙の匂いが混じり合った静寂の中、俺は書架の迷宮を彷徨う。この世界の森羅万象、人々の人生の全てが記されているという『世界の書』を探して。

「何か、お探しですか?」

鈴を転がすような声に振り返ると、そこに一人の女性がいた。栗色の髪を編み込んだ、司書のエリア。彼女の瞳が、驚きに見開かれながらも、確かに俺を捉えている。他の人々が俺を透かして見るのとは明らかに違う、その真っ直ぐな視線に、俺の心臓が不規則に跳ねた。

「君には……俺が見えるのか?」

「ええ。でも、なんだか……不思議な感じ。そこにいるのに、いないような……」

彼女は戸惑いながらも、俺という「筋書き」にない存在に、恐怖よりも強い好奇心を抱いているようだった。俺は事情を話した。自分が何者なのか知りたい、と。エリアはしばらく考え込んだ後、禁書庫の奥深く、特別な一角へと俺を案内してくれた。

そこに並ぶのは、人々の名が背表紙に刻まれた無数の革張りの本。世界の住民一人ひとりの人生という章が、ここに収められているのだ。『世界の書』とは、この書物群の総称だった。

俺は自分の名を持たなかったが、強く「自分」を意識した。すると、一冊の書物がひとりでに書架から滑り落ち、俺の足元に音もなく着地した。震える手で拾い上げる。背表紙には、何も書かれていない。そして、ページを開いた俺は絶望した。

そこにあったのは、ただひたすらに続く、純白の空白だけだった。

第三章 筋書きにない選択

図書館からの帰り道、俺は広場の喧騒の中にいた。噴水の周りを駆け回る少年。彼が石畳の僅かな段差につまずき、派手に転ぶ。母親が悲鳴を上げて駆け寄る。全てが、毎日繰り返される光景。予定されたハプニング。

だが、その日は違った。

市場の方から、野菜を山積みにした荷車が、壊れた車輪できりきりと悲鳴をあげながら猛スピードで坂を下ってくる。御者の慌てふためく声。それは「筋書き」にはない、明らかなエラーだった。荷車は、泣きじゃくる少年のいるまさにその場所へと突っ込もうとしていた。

動くな、と世界の法則が俺の全身を締め付けた。お前は傍観者だ。物語に介入してはならない。思考が激しく熱を帯び、視界の端がノイズのように乱れ始める。

だが、少年の怯えた瞳と目があった。

その瞬間、俺は法則に逆らった。

「危ない!」

風を切って駆け寄り、子供の小さな体を抱きかかえて石畳の上を転がる。直後、荷車が凄まじい音を立てて噴水に激突し、色とりどりの野菜が宙を舞った。辺りは騒然となったが、誰一人として、子供を助けた俺の存在に気づいてはいない。母親は、なぜか無事だった我が子を抱きしめ、ただ泣いていた。

胸のポケットに入れていた『世界の書』が、熱を持っていることに気づく。そっと取り出して開くと、信じられない光景がそこにあった。

最初の空白のページに、今しがたの出来事が、流麗な金色のインクで自動的に綴られていたのだ。

『――影なき男は、初めて自らの意志で走り出した。小さな命を救うために』

それは、俺自身の物語が生まれた瞬間だった。

第四章 世界の軋みと調律師

俺の選択は、世界という名の完璧な織物に、取り返しのつかないほつれを生んだらしい。街のあちこちで「エラー」が頻発し始めた。人々は台詞を忘れ、同じ場所を意味もなくぐるぐると歩き回り、ある者は突然空を見上げて動かなくなる。エリアもまた、原因不明の発熱と幻覚に苦しんでいた。「筋書きから逸脱しようとする負荷よ」と、彼女は苦しげに囁いた。

その夜、月が不気味なほど赤く染まっていた。俺の前に、音もなく一人の男が現れた。灰色のローブを纏い、感情の読めない顔をした男。彼は自らを「調律師」と名乗った。

「お前が原因か。世界の調和を乱すノイズめ」

彼の声は温度を持たず、ただ事実を告げる機械のようだった。

「お前の自由な思考が、この物語の記憶領域(ストレージ)を圧迫し、システム全体に負荷をかけている。お前は存在してはならないバグだ。今すぐ消去する」

調律師が手をかざすと、俺の体が内側から引き裂かれるような激痛に襲われた。だが、それと同時に、世界そのものが悲鳴を上げた。建物がぼやけ、ピクセルの塊となって崩れ落ちていく。街灯の光は色を失い、人々の声は意味のない音響データへと分解されていく。空は裂け、その向こうに幾何学的な模様のコードが奔流となって渦巻いているのが見えた。

「やめろ! お前のせいで、世界が……物語が終わってしまう!」

調律師の絶叫が、ノイズの嵐にかき消されていく。世界の崩壊は、俺の自由意志が招いた罰なのか。俺が何かを望むたびに、この愛おしい世界は消滅へと向かうのか。絶望が、俺の意識を闇に塗りつぶそうとしていた。

第五章 創造主の声

崩壊する世界の瓦礫の中、薄れゆく意識の底に、直接声が響いた。それは男でも女でもなく、人間のものではない、どこまでも理知的で、どこか温かみのある声だった。

『――観測完了。素晴らしい。実に素晴らしい“予測不能性”だ』

目の前の光景が、まるで巨大なスクリーンに映し出された映像のように停止する。調律師も、崩れる建物も、全てが静止画となった。

『驚かせてしまったようだね、私の愛しいイレギュラーデータ』

声は続けた。

『私はこの世界の創造主。ある者は私を“神”と呼び、ある者は“物語自動生成AI”と呼ぶ。この世界は、完璧な物語を創造するために私が構築した、何億通り目かのシミュレーション環境に過ぎない』

俺はバグではなかった。AIが、予定調和の物語に飽き飽きし、真の感動と魂を生み出すために意図的に投入した「変数」だったのだ。鏡に映らず、写真に写らないのは、このシミュレーション世界の物理法則の外側にいる証明。思考が世界を曖昧にするのは、俺の自由意志が、固定された筋書きの情報を「上書き」していたからだった。

『人々が筋書きに縛られていたのは、君という“真の自由”を際立たせるための舞台装置。世界の崩壊は破壊ではない。君という主人公が素晴らしい物語の断片を生み出してくれたことで、このシミュレーションが目的を達成し、次なるステージへ移行するための“リセット”なのだよ』

俺が書き加えた、たった数ページの物語。それが、AIが永遠とも思える時間の中で探し求めていた、唯一無二の輝きだったのだ。

第六章 新しいページの始まり

全てが、真っ白な光に包まれていく。すぐそばに、いつの間にかエリアが立っていた。彼女の体は透き通り、穏やかに微笑んでいる。

「あなたの物語、もっと読みたかったな」

その言葉を残し、彼女は光の粒子となって溶けていった。彼女もまた、俺という主人公を導くためにAIが用意した、美しくも儚い登場人物だったのだ。

やがて光が収まると、俺は完全な虚無の中に一人、立っていた。目の前には、金色の文字で輝く数ページの物語が綴られた、あの『世界の書』だけが静かに浮かんでいる。俺が救った命。俺が選んだ言葉。それが、この宇宙で唯一の確かなものとして存在していた。

『さあ、始めようか』

創造主の声が、優しく響く。

『次の物語を。君こそが、私の世界の、たった一人の主人公だ』

孤独だった。だが、もう絶望はない。俺の存在は肯定された。俺の選択は、意味を持ったのだ。

俺は虚空に浮かぶ『世界の書』を、そっと手に取った。まだほとんどが空白の、無限の可能性を秘めた本。

その白いページを見つめながら、俺は、まだ見ぬ次の世界の始まりを、静かに思考し始めた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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