時を喰らう舌
第一章 錆びた蜜の味
俺の舌は、呪われている。そうとしか思えなかった。
路地裏に漂う湿った土埃の匂い、壁を伝う汚水の冷たさ、遠くで鳴り響く警鐘の音。そんなありふれた感覚と共に、俺、カイの舌だけは、この世界の真実を嘗め尽くしていた。
すべての生命が放つ「存在色」を、俺は「味」として知覚する。健康な子供は弾けるような柑橘の酸味を、恋に悩む娘は蜜のように甘く、そして病に伏せる老人は、舌の上でざらつく錆びた鉄の味がした。
この街では『時間』が通貨であり、命そのものだ。富める者は他者の時間を買い取り、永遠の若さを謳歌する。その連中の存在は、芳醇な葡萄酒のように舌を酔わせる。一方で、時間を奪われた貧しい者たちは、急速に老いて朽ちていく。彼らの味は、まるで水で薄めすぎた出がらしの茶のようだ。苦く、そして虚しい。
「カイ兄ちゃん……」
軋むベッドの上で、妹のリナが掠れた声で俺を呼んだ。彼女の存在の味は、日に日に薄まっていく。かつては野いちごのように甘酸っぱかったその味が、今はもう、ただの生ぬるい水に成り果てようとしていた。「時間病」だ。体内の時間を正常に保つ機能が壊れ、生命力が砂時計の砂のようにこぼれ落ちていく。
リナの頬を撫でる。紙のように乾いた肌。彼女の命を繋ぎとめるには、莫大な時間が必要だった。俺が日々の時間稼ぎで味わう、富裕層からこぼれた甘い雫など、焼け石に水だ。
舌の上に広がる、リナの消えかかった味。それは、俺の心を焦がす絶望の味だった。
第二章 懐中時計と影の男
リナを救うためなら、悪魔にでも魂を売る。俺は裏社会の扉を叩いた。
薄暗い酒場の奥、紫煙が渦巻く個室で、その男は待っていた。「影」とだけ呼ばれる情報屋。彼の存在の味は奇妙だった。まるで燻された木片のように、香ばしくも苦い味がする。何を考えているのか、全く読めない。
「時間強盗、ね。あんたみたいな若造に務まるかね」
影は嘲るように笑い、テーブルの上に一枚の図面を広げた。標的は、街の西区画を牛耳る時間富豪、バルトール。奴は多くの若者から時間を吸い上げ、その上で胡坐をかいている。
「成功すれば、お前の妹が十年は生き永らえるだけの時間をくれてやる」
「……条件は?」
「ない。ただ、俺の好奇心を満たしてくれればいい」
そう言って、影は懐から古びた真鍮の懐中時計を取り出した。銀の鎖がじゃらりと音を立てる。表面には精巧な歯車の模様が刻まれているが、針は固く止まっていた。
「お守りだ。持っていけ」
有無を言わさぬ口調だった。俺は黙ってそれを受け取る。ひんやりとした金属の感触が、汗ばんだ掌に重かった。
第三章 虚無の晩餐
バルトールの屋敷は、甘ったるい腐臭に満ちていた。熟しすぎた果実と、高級な香水、そして奪われた生命が澱む生臭さが混じり合った、吐き気を催す味の洪水。俺は闇に紛れ、警備の目を掻い潜り、書斎へと忍び込んだ。
そこに奴はいた。見た目は俺と変わらぬ若者だが、その存在の味は幾重にも塗り重ねられた濃厚なクリームのようで、その奥底には数えきれないほどの他者の悲鳴が染みついている。
俺は携帯用の時間吸引装置を構え、奴の首筋に突き立てた。驚愕に目を見開くバルトール。装置が起動し、奴の「時間」が奔流となって俺の口内へ流れ込んでくる。
それは、衝撃的な体験だった。
味が、なかった。
甘くも、苦くも、辛くも、酸っぱくもない。香りも、温度も、舌触りすら存在しない。それは絶対的な『無』。虚無そのものを味わうという、矛盾した感覚。あまりの衝撃に、俺は装置を取り落としそうになった。それは生命の味ではなかった。まるで、世界の法則に空いた穴を直接舐めているかのようだった。
そして、俺はもう一つの変化に気づく。いつも自分の内側に感じていた、微かなミントのような俺自身の存在の味が、ほんの少しだけ、希薄になっていた。まるで『無』の味に侵食されたかのように。
第四章 歪み始める世界
奪った時間は、リナを救えなかった。あの『無』の味は、生命力に変換されることなく、ただ俺の内に留まり、存在を蝕むだけだった。
屋敷から逃げ出した俺は、追っ手に追い詰められていた。袋小路の路地裏。冷たい壁に背中を預け、荒い息を繰り返す。ここまでか、と諦めかけたその時。
懐の懐中時計が、心臓のように微かに脈打った。
何かに導かれるように、俺は時計を強く握りしめる。すると、口内に残っていた『無』の味の残滓が、糸を引くように時計へと吸い込まれていった。
カチリ、と微かな音が響く。
次の瞬間、世界から音が消えた。降りしきる雨粒は空中に静止し、追っ手の男たちは踏み出した足の形のまま凍りついている。時間が、止まっていた。
俺はその隙に路地裏を駆け抜け、追っ手を振り切った。だが、代償は大きかった。自分の存在を構成していたミントの味が、また一層薄らいでいる。この時計は、『無』の時間を糧に動き、俺の存在を喰らっていくのだ。
混乱する俺の前に、再び影が姿を現した。彼は凍りついた街を平然と歩いている。
「どうやら、目覚めたようだな」
彼の燻った木の味は、どこか満足げに揺らめいていた。
「お前が味わった『無』。それが何なのか、知りたくはないか? この狂った世界の、本当の姿を」
第五章 時の番人の告白
影の隠れ家は、巨大な時計塔の内部だった。無数の歯車が壁を埋め尽くし、カチコチという音が空間を支配している。彼の正体は、この世界の時間を監視してきた、先代の『時の番人』だった。
「我々が日々消費し、奪い合っている時間は、偽物だ」
彼は古文書を広げながら、静かに語り始めた。かつて、世界は「真の時間」で満たされていた。それは万物に平等に流れ、生命に自然な生と死を与えていた。しかし、永遠の生を望んだ愚かな権力者が真の時間を独占しようとし、その結果、時間の流れそのものが壊れてしまったのだという。
「私が作り出した。生命力を擬似的な時間に変換する『クロノ・レプリカ』を。人々が生きるために。だがそれは、奪い合いと格差しか生まない、呪われたシステムだった」
カイが味わった『無』の味。それこそが、僅かに残された「真の時間(クロノ・ヴェリタス)」の断片だった。バルトールのような特定の人間は、真の時間を蓄える器となり、その代償として存在そのものが希薄になっていたのだ。
「お前の舌は、真の時間を見分けることができる。次代の番人となる資格がある」
影の燻った味の奥から、深い疲労と悲しみの味が滲み出ていた。
「カイ。世界を修正する時が来た。真の時間を解放し、世界に本来の姿を取り戻すのだ。だが……」
彼は言葉を切った。
「そうすれば、偽りの時間で命を繋いでいる者は、皆、本来の寿命に戻る。お前の妹も、例外ではない」
選択を迫られた。世界か、リナか。どちらを選んでも、待っているのは喪失だった。
第六章 最後の味
俺の選ぶ道は、一つしかなかった。
懐中時計の力を使い、俺はリナの病室で、二人だけの静かな時間を作り出した。窓の外の喧騒は遠く、部屋の中だけが穏やかな光に満ちている。
俺は自分の残り僅かな「偽りの時間」を、すべてリナに注ぎ込んだ。彼女の存在の味が、ほんの一瞬、淡いベリーのように甘く色づく。弱々しくも、確かな生命の味。それが、俺が最後に感じる個別な味になるだろう。
「リナ、ごめんな」
眠る彼女の額に、そっと唇を寄せた。温かい。この感触も、もうすぐ消えてしまう。
俺は時計塔の頂に立った。眼下には、偽りの時間で動く巨大な街が広がっている。影から託された装置を起動させると、世界中に散らばっていた『無』の味が、光の粒子となって俺の身体へと集まり始めた。
舌が、燃えるようだった。味覚という感覚を超えた、情報の奔流。星の誕生、生命の芽生え、文明の興亡、そして未来永劫のすべてが、一瞬にして俺の内側を駆け巡る。俺は世界そのものを味わっていた。
第七章 時の番人と永遠の静寂
カイの身体は光の奔流に融解し、人の形を失っていく。
まず、視界が白一色に染まった。街の光も、夜空の星も見えない。
次に、聴覚が消えた。時計塔の歯車の音も、風の音も、遠ざかっていく。
妹の額に触れた温もり、懐中時計の冷たさ、そんな触覚も曖昧になり、消え失せた。
かつて自分のものであった、ミントの香りも、もうどこにもない。
五感が一つ、また一つと剥がれ落ちていく。個としての自我が、世界の時間と一つに溶け合っていく。その無限の情報の海の中で、カイはただ一つだけを、強く、強く意識に留めていた。
最後に味わった、リナの存在。あの、儚くも甘いベリーの味。
それだけが、彼が「カイ」であった最後の証だった。
やがて、世界から「偽りの時間」のシステムは消滅した。富める者も貧しい者も、等しく老い、死に、そして新たな命が生まれる、当たり前の世界が戻ってきた。誰も、その変化の裏に一人の青年の犠牲があったことなど知る由もない。
ただ、街の時計塔の針だけが、以前よりもずっと穏やかに、そして正確に時を刻み続けている。
その頂には、誰にも姿が見えない新しい番人が座っている。
永遠の静寂の中、彼は世界の流れを見守る。
彼の舌には、もう二度と、どんな味も映ることはなかった。