零時のコンディメント
第一章 無味の始まり
リオの舌は、世界の記憶を味わうためにあった。彼が古びたレンガの壁に指先を滑らせれば、かつてそこで交わされた愛の囁きが蜂蜜のような甘さとして口内に広がり、錆びた手すりに触れれば、持ち主の長年の後悔が、舌の奥にこびりつく苦い灰の味となって彼を苛んだ。この街、この世界は、人々の感情の残響で満ちていた。喜びが蓄積された広場は陽炎のように空間を広げ、時の流れを加速させる。逆に、悲しみが染みついた路地は物理的に収縮し、そこだけ時間が澱んでいた。
だが、その日、全てが変わった。
街の中心、常に穏やかな均衡の「旨味」を湛えていた大理石の噴水。リオにとって世界の心臓とも呼べるその場所に触れた瞬間、彼は凍りついた。
味が、ない。
いつもなら感じるはずの、幾千もの感情が溶け合い、調和した深遠な味わいが、綺麗さっぱり消え失せていたのだ。まるで、料理から塩が抜かれたように、世界の輪郭そのものがぼやけてしまった感覚。ただ、冷たく濡れた石の感触だけが、虚しく掌に残った。
その時、背後から切迫した声が響く。
「リオ! やはりここにいたか」
振り返ると、古文書の研究者であるエリアが、息を切らして立っていた。彼女の顔には、普段の冷静さからは考えられないほどの焦燥が浮かんでいた。
「広場の時計台が、一時間に二度も鐘を鳴らした。路地裏は、もう人が通れないほどに狭まっている。世界の伸縮が、制御を失い始めているんだ」
リオは無言で噴水から手を離し、エリアを見つめ返した。彼の蒼白な顔が、言葉よりも雄弁に世界の危機を物語っていた。世界の中心軸が、その「味」ごと消失したのだと。
第二章 収縮する路地
エリアの導きで向かったのは、忘れられた者たちの溜息が染みついた「嘆きの路地」。その入り口は、大人の肩幅ほどにまで収縮し、まるで世界が呼吸を止めたかのようだった。一歩足を踏み入れると、空気が粘性を帯び、時間の流れが足首に絡みつくような重さを感じる。壁は湿り、そこかしこから聞こえるはずのない嗚咽の残響が、リオの鼓膜を冷たく撫でた。
彼は震える指を、煤けた煉瓦の壁にそっと押し当てた。
瞬間、強烈な苦味が舌の根を焼いた。それは焦げ付いた薬草の味。病に伏した子を看取る母親の絶望、報われなかった恋人たちの涙、事業に失敗した男の自己嫌悪。幾重にも塗り重ねられた悲しみの層が、彼の精神を蝕んでいく。
「……っ、苦い……」
呻きながらも、リオは意識を集中させた。この苦味の奔流の、さらに奥。その源流に、何か異質な感触があった。彼は壁の亀裂に指を差し込み、それを探り当てる。冷たく、硬い感触。
引き抜くと、それは鈍い光を放つ黒曜石のような破片だった。
『時のかけら』。エリアが古文書の中にだけ見出した、伝説の物質。
リオがそれに触れた瞬間、苦味は一つの明確なビジョンとなった。若い女性が、出征する恋人に手作りの薬を渡している。生きて帰ってきてと願う彼女の祈り。だが、その願いは届かず、彼女が絶望に沈んでいくまでの時間が、凝縮された苦味となってリオの全身を貫いた。
これが、軸の欠片。あまりにも純粋で、強烈な悲しみの味だった。
第三章 歓喜の広場
次に二人が訪れたのは、嘆きの路地とは対極の場所だった。かつて何度も祝祭が開かれた「太陽の広場」は、過剰な喜びの蓄積によって異常なほどに拡張し、地平線が歪んで見えた。ここでは時の流れが恐ろしく速く、噴水の水しぶきは空中で一瞬にして霧散し、人々の笑い声は早回しの音声のように甲高く響き渡っていた。彼らの目は虚ろに輝き、ただひたすらに、意味もなく笑い続けている。
広場の中央には、街の英雄を称える巨大なブロンズ像がそびえ立っていた。リオは狂騒的な空気にあてられそうになるのを堪え、その台座に手を触れた。
脳を揺さぶるような、暴力的なまでの甘さ。熟しきった果実の蜜、溶かした砂糖、極上の蜂蜜。勝利の祝杯、愛の成就、新たな命の誕生。無数の歓喜が津波のように押し寄せ、彼の思考を麻痺させる。あまりの甘さに吐き気を催しながらも、彼はその味の源を探った。
ブロンズ像の足元、わずかな隙間に、太陽の光を浴びて琥珀色に輝く結晶が埋まっていた。
二つ目の『時のかけら』。
指が触れた途端、甘露の記憶が弾けた。英雄の凱旋パレード。紙吹雪が舞い、群衆が熱狂する。一人の少女が英雄に一輪の花を手渡し、英雄が屈託なく笑う。その一瞬の、純粋な喜びが、永遠に続くかのような甘さとなってリオを満たした。悲しみと喜び。対極でありながら、どちらも世界の軸を成していた味の一部なのだと、彼は確信した。
第四章 怒りの鍛冶場
「喜びも悲しみも、どちらも行き過ぎれば世界を歪める」
エリアが呟いた。リオは二つのかけらを手に、次の場所を見据えていた。彼の舌が、遠くから届く焦げ付くような刺激を捉えていたからだ。
辿り着いたのは、今はもう使われていない古い鍛冶地区。中でもひときわ巨大な溶鉱炉の残骸が、まるで怒れる巨人のように鎮座していた。周囲の空気は乾燥し、鼻をつく鉄錆の匂いに混じって、舌を刺すような辛味が漂っている。
リオは、かつて何千もの槌が振り下ろされたであろう巨大な金床に、覚悟を決めて手を置いた。
辛い。
唐辛子を丸ごと噛み砕いたような、暴力的な辛さが口腔内を駆け巡った。それは、不当な扱いに耐えた職人たちの憤り。傑作を生み出せなかった己への苛立ち。裏切りに対する燃え盛るような憎悪。純粋な怒りの残響が、彼の喉を焼き、涙を滲ませた。
「ぐ……っ!」
彼は辛さに耐えながら、金床の表面をなぞる。あった。他の二つとは違う、血のように赤い『時のかけら』が、槌の跡に深く埋め込まれていた。
それを抉り出した瞬間、怒りのビジョンが炸裂した。一人の年老いた鍛冶師が、心血を注いで鍛え上げた剣を、無知な領主に「呪われた品」として蔑まれ、目の前で折られる光景。鍛冶師の顔に浮かぶのは、悲しみではなく、世界そのものを焼き尽くさんばかりの純粋な怒りだった。
三つの味。悲しみの苦さ、喜びの甘さ、怒りの辛さ。これらが、世界の均衡を保つための調味料だったというのか。ならばなぜ、それらは調和を失い、世界を傷つける刃と化したのだろう。
第五章 真実の残響
リオが三つの『時のかけら』を懐から取り出すと、それらは互いに引き寄せられるように微かな光を放ち、震え始めた。苦く、甘く、辛い。それぞれの味が彼の舌の上で混ざり合い、一つの方向を指し示した。
全ての始まりの場所。味が消えた、あの大理石の噴水だ。
二人が噴水に戻ると、街の伸縮はさらに激しさを増し、あちこちで建物が軋む音が悲鳴のように響いていた。リオは躊躇なく、噴水の中央にある、かつて水を噴き上げていた獅子の口へと三つのかけらを差し出した。
すると、かけらは吸い込まれるように収まり、噴水の底から静かな光が溢れ出した。水が引いたその中心に、最後のかけらが姿を現す。それは、色も形もない、まるで純粋な水滴が固まったかのような、無色透明の結晶だった。
これが、全ての味の基盤となっていた「旨味」の正体か。
リオは息を飲み、その透明な『時のかけら』に指を伸ばした。
触れた瞬間、味ではなかった。声でも、映像でもない。世界の、巨大で、古く、そして疲弊しきった意志そのものが、彼の意識に直接流れ込んできたのだ。
『我は、もう、耐えられない』
世界は語りかけてきた。人々の感情はあまりにも豊かになりすぎた。喜びは天を焦がすほどに燃え盛り、悲しみは大地を凍らせるほどに深く、怒りは時空そのものを引き裂く。感情の過剰な蓄積に、世界の器が悲鳴を上げていた。だから、世界は自らを守るために、均衡の要である中心軸を構成する感情の記憶を、未来へと「分散」させたのだ。消失ではない。苦渋の自己防衛だった。
そして、世界はリオに選択を突きつける。
このまま崩壊を見届けるか。あるいは、分散した全ての『味』を、調律師である彼が一つに統合し、世界に注ぎ込むか。それは、感情の奔流を鎮め、世界を安定させる唯一の方法。
だが、その代償はあまりにも大きかった。世界の感情の記憶を一度『リセット』すること。人々から、喜びの甘さも、悲しみの苦さも、怒りの辛さも、その記憶ごと奪い去ることだった。
第六章 最後の晩餐
穏やかだが、味のない世界。
その言葉の重みが、リオの肩にのしかかった。人々から感情の記憶を奪う権利など、自分にあるのだろうか。エリアを見ると、彼女は全てを察したように、ただ静かに頷いた。決めるのは、世界の味を知る唯一の人間である、リオ自身だった。
彼は目を閉じる。脳裏に、これまで味わってきた無数の記憶が蘇った。恋人たちの甘い囁き、母の悲しい涙、職人の誇り高い怒り。それら全てが、たとえ苦痛を伴ったとしても、人々が生きた証そのものだった。美しく、尊い、人間性の『味』だった。
だが、その美しさが今、世界を殺そうとしている。
「……僕は、忘れたくない」
リオは小さく呟いた。
「誰もが味わってきた、この世界の全てを」
彼は決意した。崩壊でもなく、忘却でもない、第三の道を選ぶ。彼自身が、世界の全ての記憶の器となるのだ。
リオはエリアに一度だけ深く頭を下げると、噴水の中心に歩みを進めた。そして、四つの『時のかけら』を掌に集め、躊躇なく、それらを全て自らの口に含んだ。
最後の晩餐。
爆発。甘さ、苦さ、辛さ、そして全てを調和させる旨味が、彼の魂の中で炸裂した。世界の創生から終焉までの、全ての喜怒哀楽が濁流となって彼を飲み込む。意識が千々に引き裂かれ、存在そのものが融解していく感覚。だが彼は、歯を食いしばり、その全ての味を受け止めた。この世界の、全ての記憶を、自分という器に刻みつけるために。
第七章 味のない世界の調律師
どれほどの時間が経っただろうか。
リオがゆっくりと目を開けると、世界は息を呑むほどの静寂に包まれていた。建物の軋みは止み、空間の歪みは消え、時の流れは穏やかな川のように一定のリズムを刻んでいる。人々は街を行き交い、その表情は一様に平穏だった。だが、その瞳にはかつてのような感情の強い光はなく、ただ凪いだ湖面のように静かだった。
世界は、救われたのだ。
リオは立ち上がり、ふらつく足で噴水に触れた。もう、何の味もしなかった。ただ、濡れた石の冷たさがそこにあるだけ。彼の舌は、もう世界の記憶を味わうことはない。なぜなら、世界の記憶は、全て彼の中に移されたのだから。
彼は一人、歩き出す。人々が失った記憶の全てを背負って。誰かが微笑むのを見れば、彼はその奥にあったはずの歓喜の甘さを思い出し、誰かが眉をひそめれば、そこに宿っていたはずの悲しみの苦さを追憶する。
彼は、味のない世界の唯一の調律師となった。
道端に咲く一輪の野花に、リオはそっと指先で触れた。かつてこの花が、ある少女の誕生日に贈られ、母親の胸を温かな甘さで満たした記憶が、彼の中だけで鮮やかに蘇る。
その甘くも切ない『味』を胸に秘め、リオは静かに前を向いた。この穏やかで、少しだけ寂しい世界で、彼だけが全ての記憶と共に生きていく。