記憶の秤

記憶の秤

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第一章 重力の檻

目が覚めたとき、湊(ミナト)は柔らかな苔の上に横たわっていた。見上げる空は、見たこともないほど深く、吸い込まれそうな碧色をしている。体を起こすと、奇妙な浮遊感に襲われた。まるで、長年背負っていた重い荷物を、忽然と下ろしたかのような身軽さだった。

「どこだ、ここは……」

呟いた声は、澄んだ空気に溶けていった。周囲には、ガラス細工のように繊細な植物が生い茂り、空気は蜜のように甘い香りがした。混乱する頭で、自分の状況を整理しようと試みる。自分は大学の図書館で、専門である量子物理学の論文を読んでいたはずだ。強い眠気に襲われた後の記憶がない。

立ち上がろうとしたミナトは、再びその異常な軽さに驚いた。一歩踏み出すだけで、体がふわりと数メートルも跳躍してしまう。まるで月面にでもいるかのようだ。彼は、自分の知識こそが自分を形成するすべてだと信じてきた男だった。記憶力には絶対の自信があり、脳内には膨大なデータが図書館のように整然と収められている。その知識を使って、この不可解な状況を分析しようとした。

まず、物理法則を確認する。彼は頭の中で、ニュートンの運動方程式を想起した。「F = ma」。その数式が脳裏に浮かんだ瞬間、ズン、と肩に重圧がかかった。まるで誰かに強く押さえつけられたかのように、体が地面に沈み込む。

「なっ……!?」

驚いて思考を中断すると、重圧はふっと消えた。まさか。彼は試しに、円周率を思い浮かべてみた。3.1415926535……。数字を諳んじるごとに、彼の体は一キロ、また一キロと重りを追加されていくように、地面にめり込んでいく。膝が震え、立っているのがやっとになった。慌てて思考を打ち切ると、再び体が軽くなる。

信じられない現象だった。この世界では、記憶や知識が物理的な質量を持つというのか?

彼のアイデンティティそのものである膨大な記憶が、ここでは歩行すら困難にする鉛の枷でしかない。ミナトは愕然とした。知識を拠り所にしてきた自分が、ここでは最も無力な存在なのだ。途方に暮れ、軽すぎて心もとない体で立ち尽くす彼の耳に、鈴が鳴るような軽やかな歌声が届いた。

第二章 忘却の民

歌声のする方へ、慎重に歩みを進めると、そこに一人の少女がいた。亜麻色の髪を風になびかせ、手にした籠に木の実を摘んでいる。彼女の動きは蝶のように軽やかで、楽しげだった。ミナトの存在に気づくと、彼女は大きな瞳を瞬かせた。

「旅の人? そんなにこわばって、どうしたの?」

少女はリリアと名乗った。彼女の村では、誰もがリリアのように身軽に、そしてゆっくりと生活していた。人々は多くのことを覚えていない。昨日の食事の内容や、一週間前の天気さえ、すぐに忘れてしまうようだった。だが、彼らの顔には何の翳りもなく、むしろ幸福に満ちているように見えた。

「私たちは、忘れるの。重たい記憶は、大地に還してあげるんだ」

リリアはそう言って、目を閉じて深く呼吸をした。すると、彼女の体から淡い光の粒子が立ち上り、地面に吸い込まれていくのが見えた。「忘却の術」と呼ばれる、彼らの一族に伝わる秘術らしい。不要な記憶を捨てることで、彼らは重力から解放され、軽やかに生きているのだ。

ミナトにとって、それは冒涜的な行為に思えた。忘れること。それは、自己の喪失に他ならない。彼は元の世界に帰る方法を探すため、この世界の理(ことわり)や歴史を知る必要があると考えていた。だが、知識を得ることは、自らを動けなくすることと同義だった。調べ物をしようと書物に手を伸ばせば、そのページに書かれた文字の分だけ体が重くなる。人から話を聞けば、その言葉の分だけ足がもつれる。

ある日、ミナトはリリアに尋ねた。

「すべて忘れてしまって、怖くないのか? 自分が誰だか、わからなくなったりしないのか?」

リリアは不思議そうに首を傾げた。

「どうして? 私は、今ここにいる私が、私だよ。それに、全部は忘れない。お母さんの笑顔とか、この森の風の匂いとか、そういう温かいものは、重くならないから。心に残るんだ」

彼女の言葉は、ミナトの価値観を静かに揺さぶった。彼はこれまで、数値化できる知識や情報ばかりを追い求め、リリアが言うような「重さのない」記憶を、どれだけ大切にしてきただろうか。思い出そうとしても、彼の頭に浮かぶのは数式や歴史年号ばかりで、母の笑顔のディテールは、ぼんやりと霞んでいた。焦燥感と、これまで感じたことのない空虚感が、彼の胸を締め付けた。

第三章 沈黙の賢者と世界の真実

ミナトがこの世界に来て、幾月かが過ぎた頃、異変は起きた。大地が呻くように揺れ、空には不吉な亀裂が走った。村人たちは不安げに空を見上げ、その身をさらに軽くするために、大切な思い出さえも忘れようと祈りを捧げ始めた。

「世界が、もう重さに耐えきれないのかもしれない……」

リリアの祖母である長老は、ミナトを村の奥にある「沈黙の塔」へと導いた。そこは、この世界で最も多くの知識を持つ「賢者」たちが、自らの記憶の重さで一歩も動けなくなり、静かに過ごす場所だった。

塔の最上階、一人の老婆が石の椅子に深く沈み込んでいた。彼女こそが、この世界で最も博識な賢者だった。彼女はミナトを待っていたかのように、か細いが、凛とした声で語り始めた。

「ようこそ、異邦人。おぬしが、我らを救う『秤』じゃ」

賢者が語った真実は、ミナトの想像を絶するものだった。この世界「ティエラ・ペサンテ」は、かつて知識を際限なく求めた魔法王が創り出した、巨大な記憶の保管庫だった。世界そのものが、一つの記憶装置なのだ。しかし、蓄積される記憶の総量には限界があった。許容量を超えれば、世界は自らの重さに耐えきれず、崩壊する。

「我らが行う『忘却の術』は、記憶を消しているのではない。世界の核へと送り、崩壊をわずかに遅らせているに過ぎん。そして、それももはや限界……」

そして、賢者はミナトの本当の役目を告げた。ミナトのような異世界人は、この世界の記憶が飽和するのを防ぐため、数百年に一度、自動的に召喚される調整装置――『記憶の秤』だった。異世界人は、この世界の理に完全には縛られない。その特異な性質を利用し、この世界で最も重く、根源的な記憶である「世界の創生の記憶」を一つだけその身に背負い、元の世界へ持ち帰る。そうすることで、世界全体の記憶量をリセットし、崩壊から救うのだ。

「ただし、代償は大きい」と賢者は言った。「創生の記憶は、一個人の魂が到底抱えきれるものではない。それを背負った者は、その重さに耐えるため、自らが持つ他のすべての記憶――故郷の記憶、家族の記憶、自分自身の名前さえも、すべて手放すことになる」

世界の救世主。しかし、その英雄は、自分が英雄であることさえ覚えていられない。ただ、空っぽの器となって、元の世界に放り出されるだけ。それが『記憶の秤』の宿命だった。

第四章 秤の上の選択

ミナトは選択を迫られた。自分のすべてである知識と記憶を守り、この世界の崩壊を見過ごすか。あるいは、自分のすべてを投げ打って、この世界と、リリアの笑顔を救うか。

彼は塔の窓から、村を見下ろした。人々が身を寄せ合い、不安に震えている。リリアが、必死に幼い弟を慰めているのが見えた。ミナトの脳裏に、これまでの日々が蘇る。リリアと交わした他愛ない会話。森で感じた風の匂い。村人たちと分かち合った温かいスープの味。それらは、彼が元の世界で追い求めてきたどんな知識よりも、ずっと温かく、価値のあるものに思えた。

知識を詰め込むことで、自分の価値を証明しようとしてきた。だが、本当にそうだったのか? 結局、自分は空っぽの自分を埋めるために、ただ情報を詰め込んでいただけではないのか。ここで得た「重さのない」記憶こそが、初めて自分自身を豊かにしてくれたのではないか。

答えは、もう出ていた。

「俺がやります」

ミナトの決意に、賢者は静かに頷いた。リリアは、すべてを察していた。塔の麓で待っていた彼女は、涙を浮かべながらミナトを見つめた。

「忘れないで、ミナト。あなたのこと、絶対に忘れないから」

「ああ。君のことは、忘れたくないな」

ミナトは、そう言って精一杯笑った。それが、彼が彼のままでいられる、最後の言葉だった。

第五章 空っぽの英雄

世界の核がある最深部へ、ミナトは一人で向かった。中央に浮かぶ、太陽のように眩い光の球体。それが「世界の創生の記憶」だった。彼は覚悟を決め、そっとそれに手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、凄まじい質量が彼の全身を貫いた。体が鉛になり、地面に縫い付けられる。それと同時に、彼の頭の中から、大切なものが一つ、また一つと零れ落ちていく。

量子物理学の数式が消え、歴史年号が消え、故郷の街並みが色褪せ、両親の顔がぼやけていく。最後に、亜麻色の髪の少女の笑顔が浮かんだ。彼女の名前を呼ぼうとしたが、もうその音を思い出すことはできなかった。意識が闇に沈む直前、ミナトは、自分の頬を温かい何かが伝っていくのを感じた。

次に彼が目覚めたのは、見慣れた公園のベンチだった。夕日が空を茜色に染めている。彼は自分が誰なのか、なぜここにいるのか、何もわからなかった。頭の中は、まるで生まれたての赤子のように空っぽだった。

ただ、胸の奥に、何かとても大切なものを失くしてしまったような、不思議な温かさと、どうしようもない切なさだけが、微かに残っていた。無意識にポケットを探ると、一枚だけ、見たこともない可憐な花の押し花が、そっと入っていた。

その頃、遠い異世界では、大地は静まり、空の亀裂は癒え、澄み渡った青空が広がっていた。人々は再び軽やかに笑い、歌っている。リリアは一人、丘の上に立ち、その空を見上げていた。

「ありがとう、ミナト」

その名前はもう、彼女と、賢者たちだけが知る物語となった。世界を救い、そして誰からも忘れられた、空っぽの英雄の物語として。彼女は、その英雄が決して忘れ去られることのないよう、これからも語り継いでいくことを心に誓った。胸に咲く温かい記憶は、少しも重くはなかった。

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