走馬灯の迷い人

走馬灯の迷い人

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第一章 沈黙の理想郷

水野蒼(みずの あお)がその世界に迷い込むようになったのは、いつからだったか。きっかけは覚えていない。ただ、眠りに落ちると、決まって意識はあの場所に滑り落ちていった。

そこは、音のない世界だった。風が草を揺らす音も、自分の足音も、心臓の鼓動すらも聞こえない。完全な静寂が、まるで分厚い羊水のように全身を包み込んでいた。最初に訪れた時は、その完璧な無音に恐怖を覚えた。だが、今ではそれが蒼にとって何よりの安らぎとなっていた。現実世界の喧騒――SNSの通知音、他人同士の無意味な会話、期待と失望が入り混じる家族の声――そのすべてから解放される、唯一の聖域だった。

その世界の空は、常に淡いセピア色に染まっていた。巨大な結晶体のような木々が林立し、その枝葉からは燐光を放つ苔が垂れ下がっている。人々は存在したが、彼らは口を開かない。代わりに、胸のあたりから淡い光を明滅させ、手のひらを複雑に動かすことで意思を伝達していた。それは言語というより、感情そのものの交歓に近かった。喜びは暖かい黄金色に、悲しみは儚い青色に、その光は色を変えた。

無気力な大学生活を送る蒼にとって、この「夢」は現実からの完璧な逃避だった。講義も、アルバイトも、友人との約束も、すべてが色褪せて見えた。彼の本当の生は、夜、瞼を閉じた先にあった。彼はこの世界を探検し、その静かな美しさに心を奪われていった。結晶の木々の根本に咲く、硝子細工のような花。川面を滑るように泳ぐ、光の粒子でできた魚。見るものすべてが、蒼の乾いた心を潤していった。

そんなある夜、彼は一人の少女に出会った。

広場の中心にある噴水――水ではなく、銀色の砂が絶えず湧き出しては落ちる噴水――の縁に、彼女は座っていた。月光を編んだような銀髪が、背中で柔らかく波打っている。蒼の存在に気づくと、彼女は顔を上げた。大きな瞳は、夜明け前の空の色をしていた。

彼女は、他の住人たちのように胸に光を宿してはいなかった。ただ、その表情と、しなやかな指の動きが、雄弁に感情を物語っていた。彼女は自分を「ルナ」だと、指で空に円を描くことで伝えた。

蒼は、言葉が通じないはずの彼女と、不思議と心が通じるのを感じた。彼が何かを思うと、ルナは察したように頷いたり、首を振ったりした。ルナは彼を連れて、世界の隅々まで案内してくれた。空に浮かぶ逆さの遺跡。触れると優しいメロディを奏でる(それは音ではなく、皮膚を伝わる心地よい振動だった)石。彼女と一緒にいると、時間が経つのを忘れた。

現実世界での蒼は、日に日に寡黙になり、痩せていった。友人たちは彼を心配したが、蒼の心はすでにここにはなかった。彼の心は、音のない世界で、ただ一人、ルナとの静かな時間を待ち望むだけになっていた。ここは夢などではない。こここそが、自分がいるべき理想郷なのだ。蒼は本気でそう信じ始めていた。

第二章 崩れゆく楽園

季節が何度か巡ったように感じられた。もちろん、セピア色の空の下では、実際の季節の移ろいはない。だが、ルナと過ごした時間の密度が、蒼にそう感じさせていた。彼は、この世界で生きていきたいと、心の底から願うようになっていた。どうすれば、この夢から覚めずにいられるだろうか。その問いだけが、彼の頭の中を支配していた。

ルナとのコミュニケーションにも、すっかり慣れていた。彼女の指先が描く軌跡、眉のわずかな動き、瞳に宿る光の揺らめき。そのすべてが、蒼には甘美な言葉として届いた。ある日、蒼は現実世界から一輪の小さな花を持ってきた。夢に物を持っていけるのか半信半疑だったが、強く念じると、それは彼のポケットの中に確かに存在していた。しおれかけた、名も無い野の花。

蒼がそれをルナに差し出すと、彼女は驚いたように目を見開いた。そして、その花をそっと受け取ると、宝物のように胸に抱きしめた。彼女の瞳から、きらりと光る雫がこぼれ落ちた。雫は地面に落ちることなく、空中に浮かび上がり、小さな光の蝶となって飛び去っていった。その時、蒼は初めて、ルナの胸にかすかな、本当に小さな灯火がともるのを見た気がした。それは、か細く震える、ロウソクの炎のような光だった。

その出来事を境に、蒼の想いは確信に変わった。彼女を守りたい。この静かで美しい世界を、永遠のものにしたい。

しかし、永遠を願ったその時から、世界は静かに軋み始めた。

最初に気づいたのは、世界の「縁」だった。遠くの地平線が、時折、ノイズが走ったテレビ画面のように乱れるのだ。最初は気のせいだと思った。だが、その現象は次第に頻繁になり、範囲も広がっていった。世界の縁から、すべてを白く塗りつ潰すような、まばゆい光が滲み出してきている。

住人たちの胸の光も、どこか弱々しくなっていた。彼らの交わす光の色は、以前よりも青や灰色といった、沈んだ色合いが増えていた。世界のどこかに、決定的な「終わり」が近づいている。その予感は、冷たい霧のように蒼の心を包み込んだ。

「ルナ、一体何が起きているんだ?」

蒼は、ルナの手を取り、必死に問いかけた。ルナは悲しげに首を横に振るだけだった。彼女は蒼の手を引き、結晶の森の最も高い場所へと連れていった。そこから見下ろすと、世界の崩壊は一目瞭然だった。かつて硝子の花が咲き乱れていた野原が、白い光に呑み込まれ、消滅している。光に触れたものは、音もなく「無」に還っていく。

「この世界は、もうすぐ終わるの」

ルナが、震える指でそう形作った。彼女の瞳には、諦観と、どうしようもないほどの深い哀しみが湛えられていた。

「そんなこと、させない。絶対に何か方法があるはずだ」

蒼は叫んだ。だが、その声は静寂の世界に響くことなく、彼自身の胸の中で空しくこだまするだけだった。理想郷だと思っていた場所が、足元から崩れていく。その絶望的な光景を前に、蒼は初めてこの世界で無力感を味わった。何としても、この世界とルナを救わなければならない。その一心で、彼は崩壊の原因を探るべく、白い光が迫る世界の果てへと向かうことを決意した。

第三章 君の走馬灯

世界の果ては、蒼の想像を絶する場所だった。空間そのものが引き裂かれ、純白の虚無が裂け目から溢れ出している。そこは、世界の終わりであり、始まりの場所でもあった。蒼が虚無の淵を覗き込んだ瞬間、彼の脳内に、凄まจい量の情報が濁流のように流れ込んできた。

知らないはずの記憶。感じたことのない感情。

放課後の教室。夕陽に染まる横顔。友達と笑い合ったクレープの味。初めて手を繋いだ時の、汗ばんだ感触。ピアノの発表会での緊張。雨の日に捨て猫を拾った時の、小さな命の温かさ。両親との些細な喧嘩。そして、仲直りの後の、気まずい食卓。

――これは、誰かの人生だ。

そして、最後に見た光景が、すべてを蒼に理解させた。

横断歩道。点滅する信号。スマートフォンに気を取られていた、ほんの一瞬。右から猛スピードで迫ってくるトラックのヘッドライト。衝撃。浮遊感。遠ざかっていくサイレンの音。

蒼は、すべてを悟った。

この世界は、異世界などではなかった。ここは、理想郷でも、聖域でもなかった。

この世界は、交通事故に遭い、意識不明のまま死に向かっている、見ず知らずの誰かの脳が見せている「走馬灯」だったのだ。

結晶の木々も、光る魚も、銀色の砂の噴水も、すべては彼女――その持ち主の記憶や夢、願望が作り出した幻影。そして、ルナは。胸に光を持たなかったルナこそが、この世界の持ち主本人。彼女自身の、薄れゆく意識の化身だったのだ。

蒼が感じていた懐かしさや安らぎは、すべて彼女の記憶の残滓に触れていたからに過ぎない。彼はただの闖入者。死にゆく少女の最期の夢に、偶然迷い込んでしまっただけの、招かれざる客だった。

世界が崩壊しているのは、彼女の生命活動が、もう限界だからだ。

蒼は膝から崩れ落ちた。救う?何を?どうやって?医者でもない自分が、夢の世界から彼女の命を救えるはずがない。自分の無力さに、絶望が骨の髄まで染み渡った。必死に守ろうとした理想郷は、他人の死の過程そのものだったのだ。

呆然と座り込む蒼の隣に、いつの間にかルナが寄り添っていた。彼女は何も言わず、ただ静かに蒼の顔を見つめている。その瞳には、もう悲しみの色はない。凪いだ湖面のような、穏やかな光だけがあった。

彼女は、おぼつかない手つきで、蒼の頬に触れた。そして、ゆっくりと指を動かした。

「ありがとう」

「……え?」

「独りで逝くのは、とても怖かった。でも、あなたが来てくれた。私の最期の夢に、迷い込んできてくれた」

「私の忘れていた記憶を、あなたが見つけてくれた。私の見ていた美しいものを、あなたも美しいと言ってくれた。それだけで、私は救われたの」

ルナの胸に、あの時と同じ、小さな光が灯っていた。それはもう、消えかかった炎ではなかった。周囲の崩壊をものともせず、凛として輝く、確かな光だった。

蒼の目から、涙が溢れた。無気力に生きてきた自分。誰からも必要とされていないと思っていた自分。そんな自分が、知らず知らずのうちに、死にゆく少女の最期に寄り添い、彼女の孤独を癒していた。自分が求めていた「意味」を、こんな形で与えられていた。

世界の崩壊が、すぐそこまで迫っていた。白い光がすべてを飲み込んでいく。

「もう、行かなくちゃ」

ルナが微笑んだ。それは、蒼が今まで見たどんな表情よりも、美しく、そして切ない微笑みだった。

蒼は、震える手で彼女の手を握り返した。

「……僕も、君に会えてよかった」

それが、蒼が彼女に伝えられた、最後の言葉だった。ルナの姿が、足元からゆっくりと光の粒子に変わっていく。蒼は目をそらさず、その光景を焼き付けた。少女の人生、記憶、感情、そして「生きたかった」という無念の想い。そのすべてが、握った手を通して、奔流のように蒼の魂に流れ込んでくる。

世界が、完全に白い光に包まれた。

次の瞬間、蒼は自室のベッドの上で、激しく喘ぎながら飛び起きた。窓の外は、朝日が昇り始めている。頬を伝う涙が、枕を濡らしていた。夢ではなかった。あの温もりも、あの痛みも、すべてが現実だった。

つけっぱなしになっていたテレビが、ローカルニュースを伝えていた。

『昨日夕方、〇〇交差点で起きた交通事故で、意識不明となっていた市内の女子高生、月島ヒカリさんが、本日未明、搬送先の病院で亡くなりました』

月島ヒカリ。月の光。ルナ。

蒼は、ベッドから立ち上がると、震える足で窓辺に歩み寄った。窓を開けると、ひやりとした朝の空気が、涙で火照った顔を撫でた。

世界は何も変わっていない。昨日と同じ、ありふれた朝だ。

だが、蒼の中の何かが、決定的に変わっていた。彼の空っぽだった心には今、見ず知らずの少女が生きた証と、その最期の温もりが、ずっしりと宿っている。

それは重荷ではない。それは、蒼がこれから生きていくための、道標となる光だった。

彼は、昇り始めた太陽をまっすぐに見つめた。

これからは、彼女の分まで、とは言わない。そんなおこがましいことは言えない。

ただ、自分のこの命を、無駄にはしない。意味のない一日など、もう二度と過ごさない。

蒼は、深く息を吸い込んだ。朝の光を全身で浴びながら、彼は静かに、しかし力強く、自分の人生を歩き始めることを誓った。

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