第一章 音の喪失
水瀬響の指先が、象牙色の鍵盤の上を滑る。百年の時を経たグランドピアノ。その内部に広がる宇宙、張り巡らされた二百数十本の弦の一本一本と対話し、完璧な調和を探るのが彼の天職であり、生きがいだった。彼は調律師。それも、神の耳を持つと囁かれるほどの。
トン、とハンマーが弦を打つ。A4=442Hz。その基準となる音叉の澄んだ響きが、埃っぽい工房の空気を震わせる。響は目を閉じ、倍音のうねりを全身で感じ取った。ミリ単位以下のズレも許さない。彼の世界は、音で構築されていた。都市の喧騒、人々の話し声、風に揺れる木の葉のざわめき。そのすべてが、彼にとっては一つの巨大なオーケストラだった。
最後の和音を奏でる。ド、ミ、ソ。完璧に調律された音が、空間を満たし、溶け合い、一つの完全な響きとなって昇華していく。その美しさに魂が震えた、その刹那だった。
ピアノの弦が、ありえないほどの光を放った。視界が白く染まり、美しい和音は悲鳴のような不協和音へと歪む。身体がねじれるような感覚。響は、自分が創り出した完璧な音の世界に、飲み込まれていくのを感じた。
意識が浮上した時、響の耳に飛び込んできたのは――完璧なまでの「無音」だった。
森の中だろうか。巨大な木々が天を突き、足元には柔らかな苔が絨毯のように広がっている。木漏れ日がきらきらと地面に模様を描き、風が彼の髪を優しく撫でていく。だが、音が無い。風が木々を揺らしても、木の葉が擦れ合う音は聞こえない。鳥が枝から枝へと飛び移っても、羽ばたきの音はしない。まるで、世界から音という概念だけが、綺麗にくり抜かれてしまったかのようだった。
「……なんだ、ここは」
自分の声が、やけに大きく、そして異質に響いた。それは静寂を切り裂く暴力的なノイズのようだった。響は喉を押さえ、混乱に目を見開く。何かがおかしい。絶対的におかしい。
彼は歩き出した。音のない森を抜けると、小さな集落が見えてきた。石と木で造られた素朴な家々。人々が畑を耕し、水を汲んでいる。その営みもまた、無音だった。人々は互いに視線を交わし、複雑な手振りと、表情の変化だけでコミュニケーションを取っているように見えた。
「すみません!」
響は、井戸のそばにいた少女に声をかけた。その瞬間、少女はビクッと肩を震わせ、まるで銃弾でも浴びたかのように顔を歪めた。その瞳には、恐怖と苦痛の色が浮かんでいる。彼女は耳を両手で塞ぎ、後ずさる。周囲の人々も一斉に響に注目し、その表情は一様に険しく、敵意に満ちていた。
彼らは響を指差し、喉の奥で何かを震わせている。それは声ではなかった。低く、唸るような振動。響は理解した。この世界では、彼が当たり前のように発している「声」、そしてあらゆる「音」が、禁忌であり、苦痛なのだと。
調律師である彼が、音を愛し、音と共に生きてきた彼が、音の存在しない、音を拒絶する世界に迷い込んでしまった。それは、彼の存在そのものを否定されるに等しい、残酷な宣告だった。
第二章 沈黙の旋律
響は口を閉ざすことを学んだ。声を出すことは、この世界の人々にとってナイフを突きつけるのと同じ行為だった。彼は身振り手振りで自分が何者でもないこと、敵意がないことを示し続けた。やがて人々の警戒心も少しずつ解け、彼に最低限の食料と寝床が与えられた。
彼の世話を焼いてくれたのは、最初に声をかけてしまった少女だった。彼女はリラと名乗った。もちろん、声でではない。彼女は自分の胸を指差し、次に空中に花の輪郭を描いてみせた。響は、その優雅な仕草から、美しい花の名前を連想したのだ。
リラとのコミュニケーションは、困難を極めた。だが、不思議と心は通じた。彼女の大きな瞳は、言葉以上に雄弁だった。響の孤独、混乱、そして絶望を、彼女は静かに受け止めてくれているようだった。
響は、この「静寂郷」と呼ばれる世界について、少しずつ理解していった。この世界の住人たちは、聴覚が異常に鋭敏で、我々の世界では微かな音でしかないものが、彼らにとっては耐え難い轟音であり、物理的な痛みとなって襲いかかるのだ。だから彼らは音を立てない生活様式を発展させた。歩くときは足音を殺し、道具は衝撃を吸収する素材で作られ、会話は手話と、喉の軟骨を微かに震わせて相手の手に伝える「触話」で行われる。
響にとって、それは生き地獄だった。彼の耳は、常に存在しないはずの音を探していた。風の歌を、鳥のさえずりを、人々の笑い声を。しかし、聞こえてくるのは己の心臓の鼓動と、血が流れる微かな音だけ。その内側から響く生命の音さえ、この静寂の中では不快なノイズに感じられた。
彼は自分の存在意義を見失った。完璧な音を創り出す指先は、今や薪を割るためだけにある。神の耳とまで言われた聴覚は、この世界では呪いでしかなかった。彼は時折、衝動に駆られた。大声で叫びたい。何かを力任せに叩きつけ、けたたましい音を立ててやりたい。この息が詰まるような静寂を、粉々に破壊してしまいたい。
だが、そのたびにリラの顔が浮かんだ。彼女が苦痛に顔を歪める姿を想像すると、何もできなかった。彼女が差し出す木の実のスープの温かさが、響の荒んだ心をかろうじて繋ぎ止めていた。
ある夜、響はリラに、故郷の世界の話を身振りで伝えた。「音」が溢れる世界。人々が「歌」を歌い、「楽器」を奏でる世界。その概念を伝えようと、彼は指でピアノを弾く真似をした。リラは不思議そうに首を傾げたが、やがて響の瞳に浮かぶ深い郷愁と悲しみを読み取ったのか、そっと彼の手に自分の手を重ねた。その小さな温もりが、響の心を締め付けた。失われた世界の旋律が、幻聴のように頭の中で鳴り響き、彼は静かに涙を流した。
第三章 世界を調律する者
その日は、突然やってきた。大地が揺れた。それは単なる地震ではなかった。地平線の彼方から、空気を歪ませるような、不快な「振動」が押し寄せてきたのだ。静寂郷の住人たちは、それを「鳴動」と呼び、古くから最も恐れてきた天災だった。
人々は耳を塞ぎ、地面にうずくまる。家々は軋み、石壁には亀裂が走る。リラもまた、小さな身体を丸め、苦痛に喘いでいた。響には、その「鳴動」の正体がわかった。これは、音だ。途方もなく巨大で、低く、調律の狂った、地殻そのものが奏でる不協和音。常人には聞こえないはずの低周波音が、この世界の住人たちの鋭敏な感覚を、内側から破壊しようとしていた。
このままでは、村が、リラが、すべてが壊れてしまう。響の脳裏に、絶望と同時に、一つの閃光が走った。
「音は、音でなければ消せない……」
調律師の基本原理。特定の周波数の音を打ち消すには、その逆位相の波形を持つ音をぶつけるしかない。響は走り出した。目指すは、村の中心に聳え立つ、古びた鐘楼。その鐘は、遥か昔、まだ世界に「音」の概念が正しく伝わっていた時代の遺物だと伝えられていた。今では、決して鳴らしてはならない禁忌の象徴として、そこに存在しているだけだ。
村人たちが、響の意図を察して制止しようとする。彼らにとって、鐘を鳴らすなど狂気の沙汰だ。鳴動の苦しみに、さらなる苦痛を重ねることに他ならない。
「やめろ!」「何を考えている!」
彼らの必死の「触話」が、響の腕を掴む。だが、響は彼らを振り払った。
「俺を信じろ!」
声を出した。リラが苦しそうに顔を歪めるのが見えた。ごめん、と心で呟き、響は鐘楼を駆け上がった。
巨大な青銅の鐘が、目の前にあった。響は目を閉じ、全神経を集中させる。彼の神の耳が、破壊的な「鳴動」の周波数を正確に捉える。B♭(シのフラット)。途方もなく低く、歪んだB♭。これを打ち消すには、同じB♭の、完璧に澄んだ音を、逆のタイミングでぶつける必要がある。
彼は、鐘を吊るす巨大な撞木を抱えた。全身の力を込めて、引く。筋肉が悲鳴を上げ、呼吸が乱れる。だが、彼の心は、かつてないほど澄み渡っていた。これは破壊ではない。創造だ。世界を救うための、ただ一度きりの調律。
ゴォォォン―――!
世界が、生まれた。響が放った一打は、静寂郷に初めて響き渡る、意図された「音」となった。村人たちは一斉に地面に倒れ伏し、耳から血を流す者さえいた。激しい痛みが、村全体を貫いた。
だが、奇妙なことが起きた。あれほど猛威を振るっていた「鳴動」の不快な振動が、一瞬、ふっと和らいだのだ。
響は確信する。彼は撞木を再び構えた。一度、二度と大地が揺れる鳴動のリズムを読み、その揺れの頂点が来る半周期前を狙う。完璧なタイミングで、彼は再び鐘を打った。
ゴォォォン!
二つの巨大な音が衝突し、互いの力を打ち消し合う。響の身体にも凄まじい衝撃が走る。だが、彼は構わなかった。彼はもはや、ただの調律師ではなかった。世界そのものを調律する者だった。
何度目かの打撃の後、ついに、あの不快な鳴動が完全に消え去った。そして、鐘の澄んだ余韻だけが、長く、長く尾を引いて……やがてそれも消え、世界には再び、あの完璧な静寂が戻ってきた。
響は、力尽きてその場に崩れ落ちた。下を見ると、村人たちが呆然と彼を見上げていた。その目に宿るのは、感謝ではなかった。理解を超えた存在に対する、畏怖と、かすかな恐怖の色だった。
彼は、この世界を救った。だが、同時に、決して交わることのできない異質な存在であることを、証明してしまったのだ。孤独が、再び彼の心を支配しようとした、その時だった。
人垣をかき分け、リラが駆け寄ってきた。彼女はまだ顔をしかめていたが、その瞳は涙で潤んでいた。彼女は響のそばに膝をつくと、震える指先で、彼の手に触れた。そして、ゆっくりと、自分の胸を叩いた。
トクン、トクン、と。
それは、彼女の心臓の鼓動。彼女の生命の「音」。そして、彼女は響の手を取り、その手でそっと、村の傍らを流れる小川の水面に触れさせた。指先から、水の冷たさと、微かなせせらぎの「振動」が伝わってくる。
音は、痛みだけではない。そう、彼女は伝えていた。あなたが教えてくれた、と。
響は、その小さな温もりと振動を感じながら、空を見上げた。音のない世界で、ただ一人、音の意味を知る者。それは呪いではなく、祝福なのかもしれない。完璧な調和だけを求めていたかつての自分は、もういない。これからは、この静寂の中に、痛みの中に、リラと共に、小さな、美しい響きを探していこう。
響は微笑み、リラの手に自分の手を重ねた。二人の間に、言葉はいらなかった。静寂の中に生まれた、かすかな温もりという名の旋律が、確かに響いていた。